『16歳の語り部』――子どもたちが歩んできた3.11

友だちを探して

 

避難所生活3日目。僕はあまりにもお腹がすいて、「これ以上食べないと本当に死ぬ」と本能的に思いました。

 

早朝、友人とふたりで、まだ完全には水の引いていない校庭に出てみました。水たまりの中に魚が何匹か泳いでいるのが見えたので、それを食べようかと思ったのですが、黒いヘドロの波で打ち上げられた魚です。臭くて食べられたものではありません。

 

そのとき、たまたま転がっていたインスタントコーヒーの瓶を見つけたので教室に持ち帰り、少しずつつまんで空腹をごまかすことにしました。拾ったときは未開封の状態だったのに、いざ食べてみるとコーヒーとは思えない、塩辛く、どぎついヘドロの臭いがしました。

 

インスタントコーヒーを食べて空腹をまぎらわすと、僕は大人たちががれき撤去の作業をはじめ出すのを見計らい、誰にも言わずにひとりで学校を抜け出しました。朝7時くらいのことです。空腹でふらふらでしたが、周りがどうなっているのか知りたかった。それに何より、当時のクラスメイトから「行方不明になった」と聞いた友だちを探しに行きたかったのです。

 

あの日、母が迎えに来る直前まで僕は彼女と話をしていました。彼女の家は、僕の家とは反対の大曲浜方面。僕は、彼女に一言別れを告げてから家に帰りました。もう二度と会えなくなるなんて、思いもせずに。

 

 

最初に向かったのは、学校からすぐの国道45号線の交差点でした。

 

あの日、図書室の窓から見えた、車と一緒に流された男性が流れついたところ。知らない人だったけど、車から逃げてくれていることを祈りながら足を運びました。交差点近くにはがれきが積みあがり、その中にぼろぼろになった車を見つけました。

 

「あの車だ!」

 

がれきを少しかき分けると、その方の遺体が出てきました。あの男性に違いない。でも、なぜだか同じ人には思えませんでした。人は亡くなると、こんなにも変わってしまうのか。そんなふうに思いました。その方の真っ白になった顔や腕は、今も忘れられません。

 

当時は亡くなった方がいるところに、大人たちが目印として赤い三角の旗を立てていました。ちょうど近くに旗を持っている大人がいたので、「こちらにもいらっしゃいますよ」と伝え、新しく旗を立ててもらいました。

 

 

そこから僕は、友だちの家のあった大曲浜のほうに向かいました。見つかるわけがないと頭ではわかっていたのですが、行かずにはいられませんでした。

 

道はがれきの山で、大人たちがそれを手作業で路肩によけていました。そして、その脇にはがれきと同じように、毛布などの布に包まれた遺体がたくさん並べられていました。

 

数日前まで同じ人間として生きていたのに、亡くなったとたん、こんなふうに「もの」みたいに扱われるのか……。僕は悲しくなると同時に、こんな扱いをする大人を、薄情だと思いました。でも、当時は生きている人が最優先でしたから、遺体の回収は後回しになっても仕方がなかったのです。

 

今考えれば、本当に悔しくて仕方がなかったのは、作業にあたっていた大人たちだったと思います。大人たちも、いち早く遺族のもとに戻してあげたいと思っていたはずです。でも、当時の僕には、そう思えるほどの心の余裕はありませんでした。

 

結局、がれきとまだ引ききらない水に道をふさがれ、大曲浜に行く途中で引き返しました。

 

 

僕の家

 

そのあと、僕は自宅に向かいました。津波が来て、自分の家がどうなったのか、確かめておきたかったのです。幼いころから暮らしてきた家だし、大切にしていたものも全部家に残したままでしたから。

 

家の外観はかろうじて保たれていました。でも、一階の窓は割れて、中はヘドロで埋まっていました。それでも、こんな状況の中、むしろよくここまできれいに残ったな、と思いました。

 

「自分の部屋にあるものを取りに入りたい」

 

そう思いましたが、足元はひどくぬかるんでいたし、ヘドロやガラス片、がれきも散乱していて、残念ながら中には入れませんでした。僕はしばらく、外から変わり果てた家を眺めていました。

 

ちなみに、家族と一緒に家を見に行ったのは、震災から1週間経ってのこと。そのころになるとがれきもだいぶ片づいたので、両親が連れていってくれたのです。

 

でも、僕が3日目にひとりでここに来たことは、つい最近まで黙っていました。

 

 

学校に戻ったその晩、朝に食べたインスタントコーヒーが原因なのかはわかりませんが、尿が出なくなり、夜にはお腹も膨れ、激しい痛みに襲われました。学校に来ていた医師に診察してもらいましたが、ここではどうしようもないということで、市役所の方に送ってもらい、母と一緒に石巻赤十字病院に向かいました。

 

病院内はケガをした人や、低体温症の人がたくさん運ばれていて、さながら野戦病院のようでした。待合室は満杯、ロビーには特設の処置場所がつくられていました。床に毛布が敷かれて、その上で処置を受けました。

 

その日は病院の待合室に宿泊。翌日には症状もよくなり、歩いて大曲小に戻りました。でも、浸水した道を避けながら帰ったので、学校まで4時間以上かかりました。病み上がりの体には大きな負担でしたが、病院から出るときに、同じ待合室に宿泊していた方から、500ミリリットルのスポーツ飲料1本と飴玉2つをいただいていたので、おかげでなんとか気力と体力を保つことができました。その方には、今でも感謝しています。

 

 

避難所の子どもたち

 

さて、当時の大曲小の様子についてもお話ししておきましょう。

 

避難していた子どもは、ほとんどが小学生と幼稚園、保育園児でした。子どもたちが小さいから余計にだと思うのですが、先生からは、とにかく子どもは何もさわらず、出歩かず、教室でおとなしくしていなさい、と言われました。それは、波が引いたあとも同じでした。

 

たとえば、トイレを流すための水をプールからバケツリレーで運ぶときも、参加するのは決まって大人だけ。子どもは教室でじっと待つだけです。

 

「バケツリレーくらい、僕たちのような高学年ならできるのに」

 

そう思いながら、僕は大人たちの様子を眺めていました。教室に残された子どもたちは遊ぶこともできず、かといって何か仕事を任せられるでもなく、一緒の教室にいた年下の子の世話をし、お腹がすくのを我慢しながら、ただただ時間が流れていくのを待ちました。

 

今思えば、校舎の一階や校庭は、流されてきた流木や車など、がれきでいっぱいで、何をするにも危険な作業になるので仕方がなかったのかもしれません。それに、外にあったのは、がれきだけではありません。「遺体」もたくさんありました。僕が目にしたあの光景を、子どもたちに見せてはいけないと、大人たちは思ったのでしょう。

 

 

僕が見た大人たち

 

では、一方の大人たちの様子はどうだったか。

 

避難所生活のことは、強く印象に残っています。震災当時、テレビやネットでは、救援物資が配られるとき、「被災地の人たちはきちんと整列して順番を待っていた」とか「平等に仲良く分け合った」とか、そういう美しい光景が映し出されていたようです。でも、僕の目に映ったのはそんな美しいものばかりではありませんでした。

 

大人たちがわーっと配給場所に群がり、物資を取り合っていたことがありました。子どもに物資が回ってこないことだってありました。

 

生きるか死ぬかという状況になったとき、人はどうしても自分優先になる。そんな現実を、子どもながらに目の当たりにしたのです。

 

みんな、自分が生きるのに必死でした。だからこそ、震災のいい話だけが報道されていたことに、僕は今でも大きな違和感を持っています。

 

ちなみに、僕の両親は当時、本当に忙しそうにしていました。特に父は、震災後も仕事がありましたし、避難所や仮設住宅にも仕事の合間にちょっと顔を出すくらいで、家族で話すひまはほとんどなかった。だから僕は、父が当時何をしていたのか、つい最近まで知りませんでした。

 

それに、父は残った自宅の2階にひとりきりで寝泊まりし、家を守っていました。1階は津波でやられ、人がどこからでも入れる状態です。車のガソリンを抜いたり、家財道具を盗んだりする泥棒も出没していました。

 

沿岸部で家が流されずに残った人は、僕の父と同じように、警備のために命がけで寝泊りしていたのです。

 

 

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