2013.03.08
女川町を復興し、経済をまわしていくために必要なこととは
東日本大震災の大津波にさらわれた宮城県女川町。津波に飲みこまれる様子は、繰り返し報道され、わたしたちに強烈な印象を残している。早い段階で復興計画を立ち上げた女川町だが、今後、持続可能な新しいまちづくりに取り組みにあたり、地域の経済をいかに活性化するかが重要な課題になるだろう。女川商工会の皆さんと日本災害復興学会が、望ましい復興について語り合った。(構成 / 金子昂)
自己紹介
福留 皆さん、今日は朝早くからお集まりいただきありがとうございます。日本災害復興学会は、被災地の復興のために学会が持っている経験や知識を提供したい、また皆さんのご意見をお聞きしたいということで、これまでも何度か被災地にて車座トークを開いてまいりました。本日は女川町に住む皆さんのご意見を率直にお聞かせいただきたいと思っています。まずは自己紹介をよろしくお願いいたします。
中林 復興学会の副会長をしています。明治大学の中林です。
永松 関西大学の永松です。経済学を専門にしています。東日本大震災に関しては、失われた雇用を回復させることが重要なテーマになると思い、地震発生直後から途上国で行われているキャッシュフォーワークという雇用創出の手法を紹介してきました。
所澤 共同通信の所澤です。今日は復興学会の学会員としてまいりました。
福留 東北工業大学の福留です。よろしくお願いいたします。
青山 今日は遠いところから女川まで来てくださってありがとうございます。女川町復興連絡協議会の青山です。わたしたちもこの一年半を迷いながら過ごしてまいりました。女川町の様子をテレビなどで見ている方々は、復興が進みつつあるとお思いかもしれませんが、実際はようやく瓦礫を移動し終えただけで、これから何年もかけて復興しなくてはいけない状況にあります。復興のために、地域唯一の経済団体である商工会がどんな役割を果たすことができるのか、皆さんのお話を聞きながら考えていきたいと思っています。
鈴木 同じく女川町復興連絡協議会で副会長をしている鈴木です。震災後、着の身着のまま津波から逃げ、数日間は食べ物を確保するのに必死でした。物資が入ってきて落ち着いた頃に、どのように町を復興させればいいのか、民間でもなにかできるのではないかと思い、復興連絡協議会を立ち上げました。
女川町は早い段階で復興計画を立てました。いま心配しているのは、この計画が具体的にどのように動いていくかです。町はできても人口がどんどん減ってしまっては意味がありません。現在、仮設住宅に入居している人たちは、補助金や援助金でなんとかなっていますが、それもいずれは途絶えてしまいます。女川町に住んでいたくても、仕事がなければ町外に出て行ってしまう。そのためにも雇用を創出し、十分な収入を得られるようにする必要があると思っています。そのためのアイディアを、皆さんからいただければと思っています。
阿部 町づくり創造委員会で委員長をしている阿部です。新聞販売店の経営もしています。
いま女川町主導で、町づくりワーキンググループが設立されました。ここでは60名程度の人間が月2回ほど集まり、商業、観光、教育などジャンルごとにグループにわかれて話し合いをしています。いまはまだアイディアを出し合っている段階で具体的なことは決まっていません。今日は皆さんのお話を伺って勉強していきたいと思っています。
実践することで制度をつくる
福留 皆さんありがとうございます。では意見交換会に先立ちまして、話題提供として中林先生と永松先生にお話いただきます。
中林 わたしは縁あって南三陸町の復興計画策定委員会の副委員長をやっています。南三陸町の被災状況は女川町に似ていて、町の全世帯の8割が津波にさらされ、6割は自宅が全壊し、役場も壊滅してしまいました。女川町も南三陸町も、ほとんどすべてが失われたなかでの復興ですから、逆手に取ればなんでもできるはずです。しかし実際はさまざまな課題が噴出してうまくいっていないのが現状です。
南三陸町でも女川町でもほとんどの人が避難生活を終えて仮設住宅に入居していますが、町内だけでは、仮設住宅の場所も数も足りていません。その結果、見なし仮設住宅が活用され、多くの被災者が町外に出てしまっています。彼らをいかに町に呼び戻すか。そのためにはやはり仕事を取り戻していくことが必要です。
災害は、災害前の傾向を助長すると言われます。経済成長期は復興によって災害前以上に成長することができました。しかし今回の震災は、震災前に人口減少傾向にあった地域が多く、より厳しい状況へと追い込まれてしまう可能性が高い。それでも女川町に住みつづけたい人がいるかぎりは新しい町へと復興していかなくてはいけないでしょう。もしかしたら、新しい町づくりの最大のきっかけになるかもしれません。
国による産業への復興支援が遅れているなか、いかに営業環境を整え、雇用を創出していくか。国に頼り切るのではなく、NPOや一般社団法人など市民側からもさまざまに工夫し、復興を展開していく必要があります。制度というものは、実践してみせることでつくられていくものです。制度がないからできないのではなく、事例がないから制度ができていないと考えて、率先して事例をつくっていく。そのように考えるほうがいいとわたしは思います。われわれも復興学会として可能なかぎり皆さんに力添えさせていただきたいと思っています。今日はよろしくお願いいたします。
いかに外貨を獲得し、循環させるか
福留 ありがとうございました。つづいて、永松先生お願いいたします。
永松 先ほど自己紹介の際に少しお話させていただきましたが、わたしは雇用創出をテーマにしたキャッシュフォーワークという活動をしてまいりました。この活動は、たとえば途上国の場合ですと、瓦礫の片づけやインフラ整備など、復興・復旧事業に被災者を雇い、雇用を創出することも目的としています。
とはいえ事務系の仕事が多い日本では、肉体労働だけでは雇用が維持できないと考えられてきていました。しかしアメリカでは、行政の支援や罹災証明の発行、相談業務などによって雇用創出に成功した例があります。東日本大震災発生直後からわたしは、復旧・復興業務の仕事を拡大することで雇用が生まれると訴えかけ、結果、政府の実施した緊急雇用にわたしたちの提言を反映させることに成功しました。
今日はもう少し実践的に、地域経済を復旧させるための方法についてわたしの考えをお話したいと思います。重要なことはふたつ。ひとつ目は、外貨をいかに獲得していくか。つまり女川町の外から、女川町の内にどうやってお金を落とさせるか、あるいは女川町のものを町外でどれだけ買ってもらうか。そしてふたつ目が、稼いだ外貨をいかに女川町のなかで循環させるか。仙台に買い物に出てしまえば、せっかく稼いだ外貨が町外に流出してしまいます。でも、たとえば1億円稼いだ外貨を、女川町内で3回循環させれば3億円になりますよね。このふたつをどちらも考えなくてはいけません。
女川町の産業構造を詳細に理解していないため具体的なお話はできないのですが、いままでにキャッシュフォーワークで出会った面白い活動についてご紹介をして、なにかヒントになればと思います。
大槌町の吉里吉里では、震災直後、お風呂のかわりに薪ストーブでお湯をわかしていました。ある人が「この薪は売れるのではないか」と言い出したことをきっかけに、ただの瓦礫からつくった薪をコメ袋に入れて、「復活の薪」と名づけて売りだしたところ、インターネットで飛ぶように売れました。彼らはいまNPO法人を立ち上げ、林業の間伐で薪をつくり、おがくずでカブトムシやしいたけを育成するという新たなビジネスを始め、外貨を稼ごうとしています。
また大船渡市越喜来では、女性たちが漁網から編んだミサンガを「浜のミサンガ」と名づけて売り出しています。これはわたしも関わっているのですが、累計1億円もの売り上げを達成しました。彼女たちはいま法人化を目指しています。わたしが彼女らに強く言っているのは、ミサンガ自体には大した価値がない。これは被災者を支援したいと思っている人たちと被災地を繋げるコミュニケーションチャンネルとしての価値がある。たとえば現地で観光振興に取り組もうとしたら、ミサンガ購入者は大切な応援団として支えてくれる可能性があります。
それから緊急雇用の受け皿としてスタートした気仙沼復興協会も、行政のお金に依存してはいけないということで、女性たちが集まって編んだ編み物を売る「港町の縫いっ娘ぶらぐ」という活動をしています。またボランティアニーズの少なくなっているなか、あえて積極的にボランティアを受け入れることで、より気仙沼を知っていただき、好きになってもらおうとしています。ボランティアの方々も大切なお客さんなんですね。
いままでお話してきた事例は外貨を稼ぐ手段ですが、内部で循環させてくヒントも少しずつ出てきているように思います。釜石市や大槌町、石巻市では、緊急雇用として仮設住宅支援員を雇い、全仮設団地に常駐さえています。これだけでそれぞれ100人規模の雇用が創出できている。緊急雇用は永続的なものではありませんが、ここには今後のヒントが隠されています。
仮設住宅支援員は医療や福祉といった技術を持っていない普通の人です。でも仮設団地の人々には評価されつつある。この活動を担当しているNPOの人とお話した際、「支援員を雇うコストは一世帯あたり月6000円なのでマンションの管理費と同程度の負担です。それに見合う活動にすれば、新しい雇用が地域のなかに生まれるかもしれない」と仰っていて感動をした覚えがあります。
従来コミュニティビジネスと呼ばれていた、地域のなかでお金を動かす仕組みが、被災地のなかで生まれつつあるのかもしれません。とくに仮設団地の支援は、日本で問題になっている高齢者の孤独死対策のヒントとして全国的に根付いていく可能性もあります。女川町でもこのような経済復興のきっかけができてくれば思い紹介させていただきました。以上です。
被災地の買い物問題
福留 ありがとうございます。ではこれから意見交換会に入りたいと思います。みなさん、どうぞざっくばらんにお話いただければと思います。
鈴木 震災後、女川町で買い物ができるように早い段階で、今日の会場である希望の鐘商店街を立ち上げました。しかしお年寄りは移動手段がありませんし、車を持っている人の場合、いままで通り石巻市の量販店に買い物に出てしまう。震災前から、女川町の商店街はシャッター通りと化していました。これは新しい町づくりを進めるなかで、重要な課題だと思っています。
所澤 宮古市の田老や釜石市の天神の仮設団地は隣に商店街があります。仮設住宅と仮設商店街を一体でやろうという議論はなかったのでしょうか。
鈴木 震災直後、まず各避難所のお年寄り、妊婦、小さいお子さんを抱えている方のプライベートを確保しなくていけないということで、5月末に最初の仮設住宅を女川第一小学校の校庭につくりました。ただ女川町には、津波の被害を受けていない平らな場所はまったくなく、仮設住宅で手いっぱいで、店舗を建てる発想なんてありませんでした。
中林 南三陸町でも集会所なんて後回しで、団地に住宅だけをたくさん建てていたのですが、復興への話し合いや人のつながりづくりに集会所がなくて、いま困っています。
鈴木 1年半過ぎて、住まいのそばにお店があることの便利さに気がつきました。
中林 時間は巻き戻せませんから、いまの状況でなんとかやってかなくちゃいけないわけです。
都市部でも買い物弱者や高齢化が問題になっています。たとえば宅配や町外へ郵送するにしても、ニーズを拾っていくことが難しいと思います。先ほど阿部さんが新聞販売をされていると仰っていましたが、毎朝、新聞を配達する際に、商店街で売るものをリストにして各戸に配るのはいかがでしょう。お昼にもう一度バイクで回ってリストを集めて、午後に届けられればタイムラグはほとんどありません。
永松 南相馬市ではリアカーを引いた移動販売を緊急雇用でやっていますね。
鈴木 女川町でも移動販売はやっているのですが、働いている人たちは昼間に仮設住宅にいません。それに週2、3回しか販売していないので、タイムラグはどうしても生まれてしまいます。生協も1週間に1回。1週間も経てば注文した商品がいらなくなってしまうこともあります。
阿部 シーパル宅配便という買い物代行サービスもありますが、1日に5、6件程度しか利用されません。結局、社会福祉的な考え方でやることはできても、ビジネスとして成立させるのは難しいんですよね。
先ほど仮設住宅のそばにお店があれば、というお話がありましたが、300世帯くらい入っている清水地区に清水百貨店というお店が立ちましたが、正直かなり苦戦されています。というのも消費者が求める最低レベルの品ぞろえはコンビニ程度です。コンビニほど品ぞろえは充実していませんし、消費構造が変わったわけでもありませんから、できたときには喜ばれても、実際に買い物には行かないんです。
中林 町を復興しようという共通意識を持ってもらうことが重要ですね。商店街だけのまちづくりではなく、消費者も巻き込んだまちづくりが必要でしょう。地域コミュニティのなかでまちづくりを考えていくことで、地域の商店の状況を共有して、みんなで生活し、そこで買い物することの意義を理解し、みんなでまちを活かしていく方向に持っていかなくてはいけないと思います。わたしも、住んでいる地域でまちづくり活動に関わったことをきっかけに、地域で買い物をするようになりました。
永松 神戸には商店街のなかに子どもの遊び場をつくっているところがあります。商店主の目が行き届いて安心ですし、親が迎えついでに買い物によって帰ってくれるんです。
女川町の取り組み
阿部 去年の5月4日に女川高校、復興祭というイベントを開きました。このとき、地元の商店だけでは店数が足りなかったので、いままでイベント等で出店協力してくださった方や支援団体に来ていただきました。それまでにもイベントは何度か開いていたのですが、すべて支援してもらうタイプのイベントでした。復興祭では、あえて皆さんに支援ではなく販売をお願いしました。というのも商工会青年部でも、経済をまわすためには商売を始めてもらわなくてはいけないという話があったんです。
イベントが起爆剤となり、お店が再開し始めてきました。その流れでおながわコンテナ村商店街をつくりました。ただ商売的には苦戦されています。どこでもそうだと聞きますが、飲食店や電気店はそこそこ儲かっているようですが、食料雑貨は苦労されているようです。
青木 内部循環については震災前から考えてはいました。ポイントカード事業や地域商品券の発行をしていた女川スタンプ会に新しいシステムを導入しようと話しかけ、3月10日に導入の決議をしていたんです。でも、その矢先に震災が起きてしまい、津波の被害でシステムが崩壊し、スタンプ会は今月解散してしまいました。
阿部 新システムと連動するかたちで、地域通貨の導入も検討されていました。東京の高田馬場で始まったアトム通貨(通貨単位:馬力)の実行委員に知り合いがいて、今年の8月に導入し、いま少しずつ流通し始めています。
大型量販店と同じシステムのポイントカードでは太刀打ちができません。それにカードの場合、使う人が大人にかぎられてしまいます。アトム通貨であれば、子どもからお年寄りまで年齢に関係なく使えます。
青木 たとえばエコバッグを持ってきてくれた人にありがとうの気持ちとしてアトム通貨をあげたり、子どもひとりでお使いにきたらご褒美にあげたりしています。お客さんが面白い話をしたら渡している床屋さんもあります(笑)。待っているだけではお客さんが来てくれないことをお店側に気がついてほしいという意図もあったんです。
阿部 希望の鐘商店街は被災地最大規模の木造仮設店舗です。震災ツアーとして多くの方が来てくれます。ツアーパッケージとしてお客さんに300から500馬力ほどを最初から組み込んでもらい、女川町で使ってもらおうと観光協会が動いています。従来の観光では、お土産以外の商品は売れませんが、アトム通貨であれば使える場所がかぎられますから、観光とは関係のないお店でも使ってもらえる可能性があるかと。
鈴木 語り部ツアー代としてインクルーズされているとお話すれば納得してもらえるでしょう。
ビジネスの再開と持続
所澤 防災集団移転の対象は基本的に住宅となっていて、商店は対象になっていません。他の被災地では民宿や商店も移転したいという要望が出ているようですが、女川町でも同様なのでしょうか。
青木 出ています。もともと店舗兼住宅で商売をされている方が多いんです。住宅と商店をふたつ建てることはできないでしょう。
阿部 あれ、店舗兼住宅はいいって聞いたよ。
青木 いや、議会でも話になって駄目だって言われたって。
所澤 公式では禁止されているけれど、それでも踏み切る人が出てくるかもしれません。
中林 北海道南西沖地震で津波の被害を受けた奥尻島では、住宅として高台に建てられたものが、その後しばらくしてお店になっていました。
青木 なるほど。
鈴木 行政が商業エリアと建物を建てて、テナントに貸し出す方法をとるしかないと思います。
青木 ただそれだとグループ補助金の対象にならないんですよね。グループ補助金は、もとの土地に同じものをつくって戻すという考え方ですから。
鈴木 グループ補助金が下りるのって、建物が完成した後なんですよね。つくるための資金繰りはそれぞれがしなくてはいけないから、金融機関が融資してくれなかったら動けません。
青木 元に戻すのに1000万円かかるとして、最初に全部自分が用意して、国と県がチェックして、申請通りであれば4分の3補助金が下りるんです。
永松 金融機関はリスクがあるからなかなか融資してくれないでしょう。
阿部 グループ補助金が下りたところでも、債務が多すぎて、融資してもらえない会社もありました。まずは貸している分を返してほしいって言われてしまって。
鈴木 復旧したとしても従来のお客さんはどんどん離れていくし、風評被害でまったく売れないんですよね。首都圏からしたら宮城も福島も一緒ですからね。
だから事業を再開してもビジネスとして続かないのではないかと判断して、金融機関は融資してくれないんです。そのうちにただでさえ失われている販路がどんどんなくなってしまう。
青木 どんなに立派な建物が建っても、開店と同時に倒産の可能性だってありますよ。
中林 震災前の販路とは違う販路をつくらなくていけないわけですよね。
先ほどのミサンガのようにインターネットを使って消費者に直接呼びかけて、全国のみんなが被災地を忘れないうちに販路をつくるといいと思います。さらに復興事業が動き出したときに、女川町に入ってくる工事関係者をいかに町内の経済に組み込むか、です。
鈴木 ええ、それは考えています。でも女川町にはいま宿泊設備がないんですよね。
中林 であるならば、女川町営の大飯場をつくってみるのはどうでしょう。工事関係者の衣食住、すべての日常生活を町ぐるみで請け負ってしまうんです。大きな町民の雇用の場がつくれます。
鈴木 女川町に宿泊施設がないため、ガレキ処理や解体の工事関係者は毎日、仙台や松島、鳴子から2時間、3時間かけて女川町に来ていました。負担が大きすぎるということで、ゼネコンと話し合いをして、現場のわきに飯場をつくりました。それを行政がやってくれたらいいですね。
阿部 ただ土地の問題が大きいんですよね。大飯場をつくるとなると、その土地の地権者を調べて、一人ひとりから借り上げ、あるいは買い上げないといけません。
中林 でも仕事で来る人が1、2年も女川町で生活すること自体が風評被害を打ち消すメッセンジャーとなると思いますし、町ぐるみ、町と町民で、ぜひやるべきだと思います。
活用されていない復興基金
福留 東日本大震災の被災地全体でうまく活用できていないのが、復興基金だと思います。交付金ばかりが表に出てしまっていて、交付金に比べて自由度の高い復興基金が注目されていない。額は不十分かもしれませんが、復興基金を活用して、交付金ではできない、地域それぞれの活用方法もあると思います。
鈴木 そういえば、復興基金ってあんまり表に出てこないね。
阿部 聞きませんね。
福留 どうも交付金と復興基金がごっちゃになっている印象があるんです。じつは女川町にも復興基金はきています。でも一般財源として使われてしまっている。復興基金は、小さな集落や事業者が最初に一歩を踏み出すための手助けになるはずです。
中林 これまでに復興事業に使われてきたお金は大きく分けると被災自治体固有の「事業費」に対して、「補助金」「交付金」「基金」があります。自治体固有の事業費がふんだんにあれば、それで、自治体のやりたいことが国や県の意向にかかわらずできます。ところが日常でも「三割自治」といわれるように、七割は県や国からの支援で事業がなされるのです。
この国や県からの支援に「補助金」と「交付金」があります。補助金というのは、道路事業とか個別の事業毎に補助の割合が決められていて、その補助金は決定された事業目的以外にはまったく使えず、全国一律で、地域の状況に合わせて道路のつくり方を変えるなどというような融通がまったく利きません。状況が変わったので別のことに使ったほうがより良いまちづくりになることが明らかでも、当初に計画として承認され査定された事業のとおりにしか使えないのです。
それを少し緩和して、自治体の自由裁量の幅を広げたのが「交付金」です。いまはなくなってしまいましたが、前政権のときには「まちづくり交付金」という制度があって、まちづくりのためであれば、地域がかなり自由に、まちづくり活動に合わせて使うことができました。「交付金」というのは本来このように、ある目的に対して「一括交付」されたお金を、その目的を達成するために自由に使うことができる、という仕組みなのです。
さらに、「基金」というのは「自治体固有の資金」ですから、基金の目的を達成するためには自由に使える資金なのです。阪神・淡路大震災や新潟県中越地震で活用された「復興基金」は、震災復興に関わる取り組みで、既存の制度や要綱などではできない事業、費用の手当ができない取り組みに対して活用され、地域の状況に合わせた肌理細かな取り組みを可能にしたのです。
東日本大震災では、復興特別区域法(復興特区法)によって、5省(文部科学省・厚生労働省・農林水産省・国土交通省・環境省)が40種類の復興交付金事業を準備しましたが、結局は細かく事業の基準や内容が決められ、自由裁量権の幅はとても狭く、補助金による補助事業に近いものとなっているように感じています。もっと地域の状況に合わせて、つまりは被災者の復興の思いに肌理細かく対応して、省庁の縦割りではなく復興を進める取り組みが必要なのです。復興まちづくり交付金として、もっと自由に使えることが大事なのではないでしょうか。
所澤 復興基金は地域の知恵比べで、知恵を出せばいろいろと活用できるんですよね。輪島では輪島塗の振興に基金を使っていました。新潟では神社の再建に使っていましたよね。
福留 ええ、宗教としてではなく、コミュニティの象徴という名目で活用していました。一般財源では出せなくても、基金なら出すことができたんですね。
鈴木 倉庫を建てるために使うこともできますか。
福留 可能だと思います。いくらでも創意工夫でなんとかなるはずです。
永松 それこそ先ほどお話になられていた商店をつくることもできるかもしれませんね。
福留 新潟の20世帯ほどの村では、震災遺構として水没した家屋を残していて、いまでも観光客が訪れます。この人たちが、ただ写真を撮るだけではもったいないということで、おばさんたちが基金を利用して農産物の直売所とジュースの自販機をつくりました。
鈴木 調べてみよう
青木 そうですね。
福留 あっという間に時間となってしまいました。まだまだお話は尽きないと思いますが、今日はこのあたりで終わりにしたいと思います。またぜひよろしくお願いいたします。皆さんお忙しいところ、ありがとうございました。
(2012年9月8日 きぼうのかね商店街女川商工会にて)