被災地最前線からの報告 ―― 記者たちが探し出した『真実』

「なぜ山に逃げなかった」

 

亀松 ここからは、皆さんが被災地で取材して感じたことを、皆さんの記事に絡めてお話いただきたいと思います。最初に、川端さんの大川小学校について書かれた記事です。

 

川端 大川小学校は、牡鹿半島の北側にある北上川の河口からおよそ4キロ離れたところにある学校です。地震発生から約50分後にこの地域一帯を大津波が飲みこみました。学校に残っていた児童のうち、70名が亡くなられ。4名が行方不明です。今回の震災では、津波によって2万人近い犠牲者が出ましたが、これだけの人数の子どもたちが亡くなったのは他に例がありません。

 

亀松 いまコメントで「山に逃げればよかった」と流れていますね。見出しにも「なぜ山に逃げなかった」ということが書かれています。

 

川端 校舎の裏には山があり、比較的簡単に登れるなだらかな斜面もあります。そこから山に登っていればこんなにもたくさんの犠牲者は出なかっただろうと言われています。しかし実際は、なぜか50分くらい校庭に留まっていました。最終的に移動したものの、地元の人が三角地帯と呼んでいる新北見川大橋のたもと、つまり川に近づいて移動しているんです。

 

当時校内にいて助かったのは児童4人と先生1人だけ。先ほどもお話したように、多くの児童が亡くなられた。なぜこのようなことが学校で起きてしまったのかをずっと検証しています。

 

亀松 今回の震災では、「なぜ逃げなかったのか」という話が各所で聞かれます。よく耳にするのは、一度逃げたけれど家を整理するために戻ったために津波でやられてしまったという話です。

 

三浦さんは南三陸で取材をされている中、「なぜ逃げられなかったのか」という話はよく聞かれましたか。

 

三浦 ただでさえ過疎ですし、お年寄りの多い地域です。隣近所との家族的結びつきも非常に強い。ですから自分の家が大丈夫でも、隣の家に動けずにいるお年寄りがいらっしゃると気になって戻ってしまう。そのときに津波に巻き込まれたというケースが多かったと思います。

 

亀松 宮古の場合はどうでしょうか。

 

伊藤 全体的には同意見です。

 

ただ、今回の津波は北の方では津波の高さが特に高かったんです。宮古には15mを超えるものすごい津波が来ている。岩手県には明治や昭和初期に三陸津波の被害を経験しているので、そのときの教訓や言い伝えが残っていました。防災教育は形骸化していたと言われていたものの、大川小学校のようなことは起こっていないように思います。

 

亀松 大川小学校では小さい子が亡くなられていますから、特に親御さんの「なぜこうなってしまったのか」「なぜ先生方が引率して移動してくれなかったのか」「なぜ山を選ばなかったのか」という思いが非常に強いと思います。いまはまだ、こういったことの真相は明らかになっていないのでしょうか。

 

川端 今年の1月に入って、地震発生から津波到来までの50分間に何が行われていたのかを調べるため、石巻の教育委員会が、子どもを迎えに来て連れて帰った親御さんや、実際に現場にいて辛くも逃げ帰って助かった方などに、話を聞きに行きました。

 

教育委員会の調査ではっきりしたことは、事前の準備で津波を想定して、どこに逃げるのかを決めていなかったことです。どの学校でも災害時のマニュアルを作っているのですが、大川小学校の場合、津波のときにどこに逃げるかを明記していなかった。しかもマニュアル自体を先生方が知らなかった。ようするに大津波警報が出ていたにも関わらず、どこに子どもたちを連れて逃げていいのか逡巡してしまっていたんです。

 

いま「山の上には小さい子どもたちは上がれない」というコメントが流れました。同様の意見を地元の、現場を知らない人が言います。私は何度か登ってみたことがあるのですが、小学校の遠足で行くにはちょっと険しいところぐらいの、なだらかな坂道なんです。だから子どもたちでも登れたはずです。

 

では、なぜそこに逃げなかったのか。それは、あれだけの津波が来るという認識がなかったこと、あるいは過去の例が記憶として残っていなかったことが大きな要因の一つかもしれません。

 

 

川端俊一氏

川端俊一氏

 

 

亀松 石巻は標高1.5mくらいで、南三陸や陸前高田のように平らな土地なので、津波が一気に覆い潰した側面があります。私も陸前高田に行きましたが、海岸からはるか遠くのところまで、川を伝って津波が来ていたことがよくわかります。

 

大川小学校も4km離れていたんですよね。標高差が1.5mしかないとしても、4km先の海岸から津波が来るなんて、なかなか想像力が及ばなかったのではないでしょうか。

 

川端 そうですね。ただ、あのときの揺れは誰も経験したことのない規模で、なおかつ長かった。また50分間はラジオからいろいろな情報を聞くことができていました。「すでに女川に津波が到来した」「6mと言われていた津波が10mに変更された」といった情報も伝わっていたんです。そうしたときに、なぜ念のために避難しようという意識が働かなかったのか。これはまだ議論が続いているところだと思います。

 

亀松 津波の被害ですと、東野さんのいる大槌町も象徴的な場所で、町長さんが津波で亡くなりました。つまり、行政のトップが予測を正確にできずに失敗したことを示しているわけですが、大槌町でもまさかここまでのことが起きるとはという状況だったのでしょうか。

 

東野 生存した方に亡くなられた人の話を聞くと、みな「まさかここまで……」とおっしゃいます。先ほど三浦記者も言いましたが、原因は2つあると思います。

 

まず大丈夫だと思い込んでいた人がたくさんいたこと。大槌町には過去に何度か津波が来ています。明治時代の津波は今回と同じくらいの場所まで届いていましたが、昭和初期の津波は、それほど遠くまで来なかった。ですから、その経験が根強く残っている人が結構いました。そうした方が大丈夫だと思っている場所に家を建てているので、地震発生後、家に残ってしまった。

 

それから体が不自由で逃げられなかった人もたくさんいました。お嫁さんや家族がいる場合、おぶってでも逃げられるほど体力のない人もいた。そういう場合、「どうせ津波は来ない」と思い込もうとするのではないでしょうか。でも残念ながら津波が来てしまった。

 

 

東野真和氏

東野真和氏

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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