被災地最前線からの報告 ―― 記者たちが探し出した『真実』

取材に対する被災者と記者の姿勢

 

亀松 いまコメントで「結果論でああだこうだいってもしょうがない」という意見がありました。同じ意見をお持ちの方もたくさんいらっしゃるでしょう。でも、なぜこういうことが起きたのかを徹底的に究明してほしい人もいます。取材をしているとき、悲劇の真相を徹底的に解明すべきだという人と、過去のことは忘れて、とにかく前に向かおうとする人、どちらの声をお聞きになられましたか。

 

東野 少なくとも大槌町の人が忘れることはありません。とにかく記録を残そう、恥になっても構わないという人が多いです。

 

川端 忘れようにも忘れられることではありません。ただ我々の取材の仕方がどうあるべきかという問題にかかってきますが、「マスメディアにながれてほしくない」「そっとしておいてほしい」という方もいるのは確かです。大川小学校の遺族の中にも、「しっかり検証して、繰り返してほしくない」という方と「検証すれば誰かの責任を問うことになるから、そういうことはしないで安らかな気持ちでいたい」という方がいます。

 

亀松 佐々木さんは半年後に南相馬に入られたということですが、もともとご出身が仙台ということで、一か月後には地元をまわられていたんですよね。自分の地元が被災にあっているなかで、遺族に対してどこまで取材をすればいいのか、どのように向き合いましたか。

 

佐々木 話したくない人がいることは確かですし、どうすればその人から話を聞けるかも考えます。お話を聞かせてもらう立場ですから。僕は実際に津波を経験したわけではないので、そのときの様子を想像するしかありません。もちろん、想像しきれるはずがないと思っています。そうやって話を聞いていくしかなかったと半年間思っています。僕らがこうやって見て歩くことに対して被災者の方がどう思っているのかは、僕も非常に関心があります。

 

亀松 ちょうどコメントで「普段からそういう気持ちで取材しているのか」とありました。いままでの取材経験と、今回の震災の取材とで違うところがあるんでしょうか。

 

三浦 全然違いますね。実際に現場に行くと、あたり一面瓦礫でほとんど建物が残っていません。沿岸部の住民は人口の1割が亡くなっています。大家族が多いので、身内の方が必ず一人は亡くなっている。そういう人に話を聞くのは、専門記者として勇気のいる行為ですし、自分が何をやっているのかを考えさせられます。

 

記者としての経験を積んでも、やはり生身の人間、一人の日本人として大切な家族を亡くした方にどう接触すればいいのか。マニュアルなんてありません。ケース・バイ・ケースです。話したい人もいれば、話したくない人もいる。どうアプローチすべきか、悩みは尽きません。普段の事件・事故とは全く違いますね。

 

 

じっくり話を聞くこと

 

佐々木 一言いいですか。行方不明になっている息子さんのいるお母さんを取材したことがありました。その方は未だに死亡届も出していません。

 

亀松 息子さんは何歳だったんでしょうか。

 

佐々木 中学校を卒業したばかりでした。3月11日は南相馬市の中学校の卒業式の日でした。卒業式が終わったあと、その男の子は友達の家に遊びに行き、地震が起きて、家にいるおばあちゃんと犬が心配だと言って自宅に帰り、そのまま行方不明になっています。そのお母さんにお話を聞きましたが、みなそれぞれで、亡くなっている人もいれば、そうじゃない人もいるため、話のできる人はなかなかいないそうです。

 

僕もいろんなツテを使ってその方を見つけて、お願いをしてお話を聞かせていただきました。とにかくまずお母さんのお話をずっと、四時間くらい聞き続けていました。お母さんも、「最後に愚痴ばっかり話したね」とおっしゃっていたんですけど、どこかで「話したい」という気持ちがあると思うんです。その気持ちを受け止めて話すことができる人がどれだけいるのかわかりませんが、そういうかたちで話していただけた。一方で全く話したくない人がいるのは確かです。とにかくまずはじっくり話を聞くことだと思います。

 

亀松 今の佐々木さんのお話がまとまった記事があります。息子さんはサッカーがお好きだったようですね。

 

佐々木 そうですね。サッカーで非常に有望視されていて、サッカーの強い高校に進学が決まっていたのですが、残念ながら未だ行方不明です。震災から一年経った機会にお話を聞きにいったのですが、お母さんの中ではまだ整理がつかずにいる。一年という区切りは彼女の中にはまだないと思います。

 

 

佐々木達也氏

佐々木達也氏

 

 

復興に対するそれぞれの思い

 

亀松 今までは被災についての検証や、被災した遺族についての話でしたが、これから再生・復興に向かおうとしている人の話も聞いてみたいと思います。次に大槌町の東野さんが去年の10月に書かれた大槌日記の記事をご紹介します。「吉里吉里新星 告げる店」という見出しで二人の若者が写っていますが、これはどのような内容ですか。

 

東野 私が大槌町に行こうと思った目的の一つは、復興の現場を見ようということでした。何も無いところからもう一度街が出来上がる過程がどういうものか、先入観を持たずに見てみようと思ってあちこち街を回っているんです。

 

この記事の二人は、仕事のために東京近郊で暮らしていたのですが、吉里吉里にいる両親が心配になって故郷に戻ってきました。お兄さんはカメラマンなどの仕事を、弟さんはミュージシャンをしています。もしかしたら井上ひさしさんの小説『吉里吉里人』でご存知の方もいると思いますが、吉里吉里は大槌のなかにある地域です。

 

二人は、吉里吉里に人が集まれば何かが始まるのではないかと考え、カフェを建てはじめました。このカフェは、すべてまわりにある廃材を使って建てられたものです。最初は、そんなにうまくいくわけがないと思っていたらしいのですが、だんだん周りの人が大工仕事を教えてくれたり、ドアや椅子を持ってきてくれて、8月~10月の二ヶ月でカフェを建てました。とてもおしゃれで、名前はape(アペ)。英語ではape(エイプ)。猿のことかと思われがちですが、アイヌ語で「火」を意味する言葉で、大鎚の吉里吉里の言葉では赤ん坊のことを指すようです。「始まり」や「復活の狼煙」というようなイメージを掛けあわせた言葉らしい。いまではいろんな人で賑わっています。

 

亀松 東野さんのお話は復興に向けて歩んでいる人というテーマでした。伊藤さん、やはり、復興というのは取材における大きなテーマですか。

 

伊藤 僕も何も無いところからどういうふうに街ができていくのかなと思いながら取材をしてきました。ただ、いかんせん復興が遅れていて、何もない町が広がっているのを見るのはつらいです。

 

亀松 宮古は大きな防潮堤がもともとあったようですね。

 

伊藤 宮古市にある旧田老町は昭和三陸地震で900人もの方が亡くなった経験があります。この町は「万里の長城」と言われる、高さ10mの大きな防潮堤に囲まれています。今回はその防潮堤を超えて津波が押し寄せて、200人近い人が犠牲になりました。この防潮堤は、戦前に先祖が築き、集落を再生してくれたというエピソードもあり、誇りを持っていた方も多くいらっしゃったようです。いま、もう一度この町を作りなおそうという気持ちを強く感じます。

 

亀松 川端さんは「復興へ」という気持ちをもった人がいる一方、自分の子どもが亡くなったことがまだ整理がつかなくて、なかなか前に進めないという人の両方がいるということをおっしゃっていますね。

 

川端 そうですね。石巻市も沿岸地域はひどい被害を受けています。石巻は水産業が特にさかんですし、日本製紙の大きな工場もあります。この両輪が復活しないと、石巻市の復活はないだろうと言われています。ただ、被害が大きいので予算の問題がある。行政がなんとかしようと努力しているところですが、そういう雰囲気についていけない人もいます。

 

今年の3月11日に石巻市が主催する追悼式がありました。案内文の中に遺族に向けて「夢と希望を実現する新しい石巻市」という言葉があった。それを津波でお子さんを亡くなられた方が破り捨てていました。「復興」という言葉にリアリティを持てず、日々気持ちを立て直しながら生きていくことに精一杯な人もいます。なかなか町全体の復興に参加する気持ちにはなれないんですね。そういう方は、実はたくさんいます。

 

三浦 百人いたら百通りの考え方があると思います。被害の大きさもそれぞれが違う。家が残った方もいれば、全く残らなかった人もいる。川端さんがおっしゃったように、自分の子どもを失うというのは非常につらいことですよね。子どもが先に死んでしまうという辛さは、想像にたえ難い。復興に立ち向かう人それぞれの状況があると思います。家を流されてしまうと、アルバムや本や写真集・記念のものなど全て流されてしまいます。そこから立ち上がっていくだけでもつらいことです。一概に復興とはいえないし、議論しづらいと思います。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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