2013.01.04

被災地最前線からの報告 ―― 記者たちが探し出した『真実』

佐々木達也

社会 #震災復興#調査報道#遺体#災害遺構#被災地ツアー

おびただしい死と過酷な現実を前に、記者たちはどんな『真実』を探りあてたのか――。

震災から1年余。

メディアは、そのおびただしい被害者の数を連日のように伝えてきた。しかし「数字」となった一人ひとりには、それぞれのストーリーが存在する。その一人ひとりの物語を、そして生き残った被災者の「今」を、被災地に寄り添いながら伝えてきた5人の新聞記者がいる。

ある記者は民家に下宿し、またある記者は断水の続くホテルに住み、仮設トイレで用を足しながら取材を続けたという。がれきの中を泥だらけになって歩き回り、仮設住宅の人たちの話に耳を傾けることで生まれた被災地の記事。しかし、人の不幸をメシの種にしているという罪悪感。被害の大きさに対し、書いても書いても伝えきれないという無力感。

『復興しようとする地域にも、まだ前へ踏み出せない人がいる。そのすべてが「被災地」なのだ』

『壊滅的、と何度も書いた。そんな状況でも、支えあう住民たちに出会い、救われる思いがした』

被災地に寄り添う記者は、様々な葛藤を抱えながら、時に「希望」を見出しながら、震災に向き合い続けている。

被災地に暮らし、被災地を伝えてきた記者が目にしたものとは――?

そして、紙面には載せられなかった思いとは――?

被災地の最前線で取材を続ける朝日新聞の記者5人を招き、約1年間にわたる継続的な取材で見つけ出した震災の『真実』をお伝えします。(構成/金子昂)

自己紹介

亀松 皆さんこんばんは。ニコニコニュース編集長の亀松太郎です。本日は、「ニコニコ動画×朝日新聞  被災地最前線からの報告 ―― 記者たちが探し出した『真実』」と題して、被災地の最前線で取材を続ける朝日新聞の記者5人の方を招き、約一年間にわたる継続的な取材で感じたこと、考えたことを語っていただきたいと思っています。朝日新聞では第三社会面で、去年の6月から5人の記者が交代で連載しているコーナーがスタートしました。本日お招きした記者は、このコーナーを担当されていた方々です。

では、本日お話いただく皆さんをご紹介したいと思います。まずは、宮城県石巻支局長の川端俊一さんです。川端さんは、いつ石巻支局にいらっしゃったのですか。

川端 去年の5月10日、震災の二ヶ月後に着任しました。石巻支局は、海からだいたい1キロのところにあるため津波で浸水していました。ですから、震災直後から宮城県に入っていたものの、着任前にまず復旧作業をする必要がありました。その作業中に瓦礫の下に男性の遺体が発見されます。免許証をもっていたために身元もすぐわかりご遺体はご遺族のもとに帰られました。この経験はいまの取材の1つの原点となっています。

亀松 ありがとうございます。

次に岩手県宮古市局長の伊藤智章さんにお願いいたします。伊藤さんもやはり5月頃に宮古支局長になられたのでしょうか?

伊藤 いえ、3月から何回か被災地は訪れていましたが、宮古には6月に入りました。

亀松 なるほど。宮古市にはご自分で志願されていらっしゃったのでしょうか?

伊藤 いえ、全然(笑)

震災前、本社で論説委員をやっていたのですが、今回はどうしても現場に行かなくてはいけないと思い、「現場に行かせろ」とずっと言っていたんです。たまたま仙台に来ていたときに、突然電話で「宮古支局なら空いているから行きなさい」と言われて、宮古支局に着任しました。

亀松 わかりました。今日はよろしくお願いします。続いて同じく岩手県の大槌駐在の東野真和さんです。

東野 こんばんは、よろしくお願いします。

亀松 今日お越しいただいた記者のなかには、支局長と駐在という2つの肩書があります。これはなにが違うのでしょうか。

東野 もともと朝日新聞として拠点を置いているところが支局、駐在は今まで拠点のなかったところのことです。

亀松 なるほど。東野さんの記事を読むと、支局がなく、住むところから探さなければならなかったと書かれているのはそういうことなのですね。結局、どのようにして住居を見つけられたのでしょうか。

東野 大槌には住むところがほとんどありません。不動産屋に聞いても「あなたに貸すくらいなら他の被災者の方に貸す。現に1LDKのところに7人で住んでいるところもあるし、あなたに貸すようなところはないと思う」と言われました。何日かしてなんとか下宿なら貸してくれるところを見つけて。

亀松 下宿ということは普通の民家ですか。

東野 はい。そこが現在の駐在先です。

亀松 なるほど。今日はよろしくお願いします。

続いて福島県南相馬支局長の佐々木達也さんです。佐々木さんは他の方に比べると少し遅い時期に南相馬支局に来たと聞いています。第一印象をお話ください。

佐々木 私は9月20日に南相馬支局に入りました。南相馬市の原町区というところは建物自体の被害はあまり大きくありません。もちろん津波にあってたくさんの方が亡くなっているのですが、一見したところ普通の小都市かなと思いました。ただ、例えば緊急避難地区になっていたために、多くの方が避難し人口が減っています。住んでいるうちに、そういった面が少しずつ見えてきた気がします。

亀松 ありがとうございます。では最後に、宮城県の南三陸町駐在の三浦英之さんです。南三陸町は非常に被害が大きかったと報道されている地域です。三浦さんは、東野さん同様、駐在ということですが、どこにお住まいなのでしょうか。

三浦 私は現地で辛うじて全壊を免れた観光ホテルと交渉をして、シングルルームを住まいとさせてもらいました。

亀松 そこにずっと住んでいたのですか。

三浦 そうです。

亀松 水が止まっていて、トイレも水洗じゃないと聞きましたが。

三浦 南三陸町は水の復旧が遅れて、水道の復旧は、確か6月下旬から7月上旬頃でした。それまでは外に20から30くらい置かれている仮設トイレで用を足していました。

亀松 なるほど。そんな中で取材したときのことをいろいろお話いただければと思います。よろしくお願いします。

「なぜ山に逃げなかった」

亀松 ここからは、皆さんが被災地で取材して感じたことを、皆さんの記事に絡めてお話いただきたいと思います。最初に、川端さんの大川小学校について書かれた記事です。

川端 大川小学校は、牡鹿半島の北側にある北上川の河口からおよそ4キロ離れたところにある学校です。地震発生から約50分後にこの地域一帯を大津波が飲みこみました。学校に残っていた児童のうち、70名が亡くなられ。4名が行方不明です。今回の震災では、津波によって2万人近い犠牲者が出ましたが、これだけの人数の子どもたちが亡くなったのは他に例がありません。

亀松 いまコメントで「山に逃げればよかった」と流れていますね。見出しにも「なぜ山に逃げなかった」ということが書かれています。

川端 校舎の裏には山があり、比較的簡単に登れるなだらかな斜面もあります。そこから山に登っていればこんなにもたくさんの犠牲者は出なかっただろうと言われています。しかし実際は、なぜか50分くらい校庭に留まっていました。最終的に移動したものの、地元の人が三角地帯と呼んでいる新北見川大橋のたもと、つまり川に近づいて移動しているんです。

当時校内にいて助かったのは児童4人と先生1人だけ。先ほどもお話したように、多くの児童が亡くなられた。なぜこのようなことが学校で起きてしまったのかをずっと検証しています。

亀松 今回の震災では、「なぜ逃げなかったのか」という話が各所で聞かれます。よく耳にするのは、一度逃げたけれど家を整理するために戻ったために津波でやられてしまったという話です。

三浦さんは南三陸で取材をされている中、「なぜ逃げられなかったのか」という話はよく聞かれましたか。

三浦 ただでさえ過疎ですし、お年寄りの多い地域です。隣近所との家族的結びつきも非常に強い。ですから自分の家が大丈夫でも、隣の家に動けずにいるお年寄りがいらっしゃると気になって戻ってしまう。そのときに津波に巻き込まれたというケースが多かったと思います。

亀松 宮古の場合はどうでしょうか。

伊藤 全体的には同意見です。

ただ、今回の津波は北の方では津波の高さが特に高かったんです。宮古には15mを超えるものすごい津波が来ている。岩手県には明治や昭和初期に三陸津波の被害を経験しているので、そのときの教訓や言い伝えが残っていました。防災教育は形骸化していたと言われていたものの、大川小学校のようなことは起こっていないように思います。

亀松 大川小学校では小さい子が亡くなられていますから、特に親御さんの「なぜこうなってしまったのか」「なぜ先生方が引率して移動してくれなかったのか」「なぜ山を選ばなかったのか」という思いが非常に強いと思います。いまはまだ、こういったことの真相は明らかになっていないのでしょうか。

川端 今年の1月に入って、地震発生から津波到来までの50分間に何が行われていたのかを調べるため、石巻の教育委員会が、子どもを迎えに来て連れて帰った親御さんや、実際に現場にいて辛くも逃げ帰って助かった方などに、話を聞きに行きました。

教育委員会の調査ではっきりしたことは、事前の準備で津波を想定して、どこに逃げるのかを決めていなかったことです。どの学校でも災害時のマニュアルを作っているのですが、大川小学校の場合、津波のときにどこに逃げるかを明記していなかった。しかもマニュアル自体を先生方が知らなかった。ようするに大津波警報が出ていたにも関わらず、どこに子どもたちを連れて逃げていいのか逡巡してしまっていたんです。

いま「山の上には小さい子どもたちは上がれない」というコメントが流れました。同様の意見を地元の、現場を知らない人が言います。私は何度か登ってみたことがあるのですが、小学校の遠足で行くにはちょっと険しいところぐらいの、なだらかな坂道なんです。だから子どもたちでも登れたはずです。

では、なぜそこに逃げなかったのか。それは、あれだけの津波が来るという認識がなかったこと、あるいは過去の例が記憶として残っていなかったことが大きな要因の一つかもしれません。

川端俊一氏

亀松 石巻は標高1.5mくらいで、南三陸や陸前高田のように平らな土地なので、津波が一気に覆い潰した側面があります。私も陸前高田に行きましたが、海岸からはるか遠くのところまで、川を伝って津波が来ていたことがよくわかります。

大川小学校も4km離れていたんですよね。標高差が1.5mしかないとしても、4km先の海岸から津波が来るなんて、なかなか想像力が及ばなかったのではないでしょうか。

川端 そうですね。ただ、あのときの揺れは誰も経験したことのない規模で、なおかつ長かった。また50分間はラジオからいろいろな情報を聞くことができていました。「すでに女川に津波が到来した」「6mと言われていた津波が10mに変更された」といった情報も伝わっていたんです。そうしたときに、なぜ念のために避難しようという意識が働かなかったのか。これはまだ議論が続いているところだと思います。

亀松 津波の被害ですと、東野さんのいる大槌町も象徴的な場所で、町長さんが津波で亡くなりました。つまり、行政のトップが予測を正確にできずに失敗したことを示しているわけですが、大槌町でもまさかここまでのことが起きるとはという状況だったのでしょうか。

東野 生存した方に亡くなられた人の話を聞くと、みな「まさかここまで……」とおっしゃいます。先ほど三浦記者も言いましたが、原因は2つあると思います。

まず大丈夫だと思い込んでいた人がたくさんいたこと。大槌町には過去に何度か津波が来ています。明治時代の津波は今回と同じくらいの場所まで届いていましたが、昭和初期の津波は、それほど遠くまで来なかった。ですから、その経験が根強く残っている人が結構いました。そうした方が大丈夫だと思っている場所に家を建てているので、地震発生後、家に残ってしまった。

それから体が不自由で逃げられなかった人もたくさんいました。お嫁さんや家族がいる場合、おぶってでも逃げられるほど体力のない人もいた。そういう場合、「どうせ津波は来ない」と思い込もうとするのではないでしょうか。でも残念ながら津波が来てしまった。

東野真和氏

取材に対する被災者と記者の姿勢

亀松 いまコメントで「結果論でああだこうだいってもしょうがない」という意見がありました。同じ意見をお持ちの方もたくさんいらっしゃるでしょう。でも、なぜこういうことが起きたのかを徹底的に究明してほしい人もいます。取材をしているとき、悲劇の真相を徹底的に解明すべきだという人と、過去のことは忘れて、とにかく前に向かおうとする人、どちらの声をお聞きになられましたか。

東野 少なくとも大槌町の人が忘れることはありません。とにかく記録を残そう、恥になっても構わないという人が多いです。

川端 忘れようにも忘れられることではありません。ただ我々の取材の仕方がどうあるべきかという問題にかかってきますが、「マスメディアにながれてほしくない」「そっとしておいてほしい」という方もいるのは確かです。大川小学校の遺族の中にも、「しっかり検証して、繰り返してほしくない」という方と「検証すれば誰かの責任を問うことになるから、そういうことはしないで安らかな気持ちでいたい」という方がいます。

亀松 佐々木さんは半年後に南相馬に入られたということですが、もともとご出身が仙台ということで、一か月後には地元をまわられていたんですよね。自分の地元が被災にあっているなかで、遺族に対してどこまで取材をすればいいのか、どのように向き合いましたか。

佐々木 話したくない人がいることは確かですし、どうすればその人から話を聞けるかも考えます。お話を聞かせてもらう立場ですから。僕は実際に津波を経験したわけではないので、そのときの様子を想像するしかありません。もちろん、想像しきれるはずがないと思っています。そうやって話を聞いていくしかなかったと半年間思っています。僕らがこうやって見て歩くことに対して被災者の方がどう思っているのかは、僕も非常に関心があります。

亀松 ちょうどコメントで「普段からそういう気持ちで取材しているのか」とありました。いままでの取材経験と、今回の震災の取材とで違うところがあるんでしょうか。

三浦 全然違いますね。実際に現場に行くと、あたり一面瓦礫でほとんど建物が残っていません。沿岸部の住民は人口の1割が亡くなっています。大家族が多いので、身内の方が必ず一人は亡くなっている。そういう人に話を聞くのは、専門記者として勇気のいる行為ですし、自分が何をやっているのかを考えさせられます。

記者としての経験を積んでも、やはり生身の人間、一人の日本人として大切な家族を亡くした方にどう接触すればいいのか。マニュアルなんてありません。ケース・バイ・ケースです。話したい人もいれば、話したくない人もいる。どうアプローチすべきか、悩みは尽きません。普段の事件・事故とは全く違いますね。

じっくり話を聞くこと

佐々木 一言いいですか。行方不明になっている息子さんのいるお母さんを取材したことがありました。その方は未だに死亡届も出していません。

亀松 息子さんは何歳だったんでしょうか。

佐々木 中学校を卒業したばかりでした。3月11日は南相馬市の中学校の卒業式の日でした。卒業式が終わったあと、その男の子は友達の家に遊びに行き、地震が起きて、家にいるおばあちゃんと犬が心配だと言って自宅に帰り、そのまま行方不明になっています。そのお母さんにお話を聞きましたが、みなそれぞれで、亡くなっている人もいれば、そうじゃない人もいるため、話のできる人はなかなかいないそうです。

僕もいろんなツテを使ってその方を見つけて、お願いをしてお話を聞かせていただきました。とにかくまずお母さんのお話をずっと、四時間くらい聞き続けていました。お母さんも、「最後に愚痴ばっかり話したね」とおっしゃっていたんですけど、どこかで「話したい」という気持ちがあると思うんです。その気持ちを受け止めて話すことができる人がどれだけいるのかわかりませんが、そういうかたちで話していただけた。一方で全く話したくない人がいるのは確かです。とにかくまずはじっくり話を聞くことだと思います。

亀松 今の佐々木さんのお話がまとまった記事があります。息子さんはサッカーがお好きだったようですね。

佐々木 そうですね。サッカーで非常に有望視されていて、サッカーの強い高校に進学が決まっていたのですが、残念ながら未だ行方不明です。震災から一年経った機会にお話を聞きにいったのですが、お母さんの中ではまだ整理がつかずにいる。一年という区切りは彼女の中にはまだないと思います。

佐々木達也氏

復興に対するそれぞれの思い

亀松 今までは被災についての検証や、被災した遺族についての話でしたが、これから再生・復興に向かおうとしている人の話も聞いてみたいと思います。次に大槌町の東野さんが去年の10月に書かれた大槌日記の記事をご紹介します。「吉里吉里新星 告げる店」という見出しで二人の若者が写っていますが、これはどのような内容ですか。

東野 私が大槌町に行こうと思った目的の一つは、復興の現場を見ようということでした。何も無いところからもう一度街が出来上がる過程がどういうものか、先入観を持たずに見てみようと思ってあちこち街を回っているんです。

この記事の二人は、仕事のために東京近郊で暮らしていたのですが、吉里吉里にいる両親が心配になって故郷に戻ってきました。お兄さんはカメラマンなどの仕事を、弟さんはミュージシャンをしています。もしかしたら井上ひさしさんの小説『吉里吉里人』でご存知の方もいると思いますが、吉里吉里は大槌のなかにある地域です。

二人は、吉里吉里に人が集まれば何かが始まるのではないかと考え、カフェを建てはじめました。このカフェは、すべてまわりにある廃材を使って建てられたものです。最初は、そんなにうまくいくわけがないと思っていたらしいのですが、だんだん周りの人が大工仕事を教えてくれたり、ドアや椅子を持ってきてくれて、8月~10月の二ヶ月でカフェを建てました。とてもおしゃれで、名前はape(アペ)。英語ではape(エイプ)。猿のことかと思われがちですが、アイヌ語で「火」を意味する言葉で、大鎚の吉里吉里の言葉では赤ん坊のことを指すようです。「始まり」や「復活の狼煙」というようなイメージを掛けあわせた言葉らしい。いまではいろんな人で賑わっています。

亀松 東野さんのお話は復興に向けて歩んでいる人というテーマでした。伊藤さん、やはり、復興というのは取材における大きなテーマですか。

伊藤 僕も何も無いところからどういうふうに街ができていくのかなと思いながら取材をしてきました。ただ、いかんせん復興が遅れていて、何もない町が広がっているのを見るのはつらいです。

亀松 宮古は大きな防潮堤がもともとあったようですね。

伊藤 宮古市にある旧田老町は昭和三陸地震で900人もの方が亡くなった経験があります。この町は「万里の長城」と言われる、高さ10mの大きな防潮堤に囲まれています。今回はその防潮堤を超えて津波が押し寄せて、200人近い人が犠牲になりました。この防潮堤は、戦前に先祖が築き、集落を再生してくれたというエピソードもあり、誇りを持っていた方も多くいらっしゃったようです。いま、もう一度この町を作りなおそうという気持ちを強く感じます。

亀松 川端さんは「復興へ」という気持ちをもった人がいる一方、自分の子どもが亡くなったことがまだ整理がつかなくて、なかなか前に進めないという人の両方がいるということをおっしゃっていますね。

川端 そうですね。石巻市も沿岸地域はひどい被害を受けています。石巻は水産業が特にさかんですし、日本製紙の大きな工場もあります。この両輪が復活しないと、石巻市の復活はないだろうと言われています。ただ、被害が大きいので予算の問題がある。行政がなんとかしようと努力しているところですが、そういう雰囲気についていけない人もいます。

今年の3月11日に石巻市が主催する追悼式がありました。案内文の中に遺族に向けて「夢と希望を実現する新しい石巻市」という言葉があった。それを津波でお子さんを亡くなられた方が破り捨てていました。「復興」という言葉にリアリティを持てず、日々気持ちを立て直しながら生きていくことに精一杯な人もいます。なかなか町全体の復興に参加する気持ちにはなれないんですね。そういう方は、実はたくさんいます。

三浦 百人いたら百通りの考え方があると思います。被害の大きさもそれぞれが違う。家が残った方もいれば、全く残らなかった人もいる。川端さんがおっしゃったように、自分の子どもを失うというのは非常につらいことですよね。子どもが先に死んでしまうという辛さは、想像にたえ難い。復興に立ち向かう人それぞれの状況があると思います。家を流されてしまうと、アルバムや本や写真集・記念のものなど全て流されてしまいます。そこから立ち上がっていくだけでもつらいことです。一概に復興とはいえないし、議論しづらいと思います。

災害遺構を残すか否か

亀松 「復興」というときに、象徴的な言葉に「災害遺構」があります。例えば原爆ドームが戦争の遺構として残されているように、今回の震災でモニュメントとなるものがある。それらを残しておくべきなのか、撤去すべきなのか。被災者がどのようにお考えかお聞きしたいと思います。スライドには女川のコンクリートの塊、石巻の水産加工会社のタンクや南三陸町の防災対策庁舎などがあげられます。

三浦 防災対策庁舎については、町長が取り壊すことを表明しています。

亀松 残したほうがいいという声はありますか。

三浦 かなり多くあります。この建物は後世にどれくらいの高さまで津波が来たのか、人々がここでどうやってがんばっていたのかを伝えるために必要じゃないか、という声ですね。

この建物は遠藤未希さんという方が、最後まで住民に逃げて下さいと避難を呼びかけていた場所として有名だと思います。正確な数字はわかりませんが、この建物には約50人が避難していました。三階の屋上までが15m前後でしたが、津波が押しかけてきて、そのうち10人しか生き残れなかった。周りはほとんど壊滅してしまって何もありません。

一方で、流された40人の遺族からすれば、買い物に行くときや学校に行くときに自分の親、子ども、あるいは恋人が亡くなった場所をいつも目にしなければならないという辛さを慮る必要もあります。町長はこれを考慮して取り壊すべきだとおっしゃっているんです。

三浦英之氏

亀松 なるほど。今のコメントでも壊すべきと壊すべきないという意見にわかれています。ここでアンケートをとってみたいと思います。各地域の災害遺構を残すべきだと思いますか? 「残すべき」「残すべきではない」「わからない」の三択でお答えください。

アンケートの回答をいただいている間にお聞きしたいのですが、石巻のタンクはどうなるんでしょう。

川端 最終的にどうなるかはっきりとわかっていません。もう電線も復旧してしまっていて、動かしようがないんです。ただ道路の真ん中に置いたままにしておくのは難しいでしょう。また女川を襲った津波はとりわけ強烈だったようで、コンクリート建築が倒壊したのは女川の港周辺で4棟あったようです。専門家によると世界的にもあまり例がないそうで、女川町はこの意見を取り入れて全部残そうとしました。ただ1棟だけでは、遺族の方が見るに堪えないということで撤去されました。

その地域で暮らしていく人にとって、無残な跡をずっと見続けていくのはなかなか難しいことだと思います。一方で津波がどれだけ大変なものだったのかという記憶を、なんらかのかたちで残さなくてはいけない。その折り合いをどうつけていくかは、これからまさに議論しなくてはいけないでしょう。

亀松 なるほど。

さて、アンケート結果ですが、すごく割れています。

1. 残すべき 34.9%

2. 残すべきではない 31.1%

3. わからない 33%

こんなにきれいに意見が割れることって珍しいですね。

大槌町でも震災遺構の話はありますか。

東野 大槌町舎も同じような話があります。あと民宿の上に、観光船はまゆりが乗っていることで話題になりましたよね。船については、安全上の理由であのままにしておくのは危険だという住民の声があったため二ヶ月で撤去されました。

実はもう一度復元しようという声が地元や町の外であがっています。「残しておけば外から観光客が来るからいいじゃないか」という意見もある一方で、「そんなものを金儲けするために残すという考え自体申し訳ない」という気持ちも強くある。この論争は未だに続いています。今のアンケートで意見が三つに分かれているというのは、そういったいろんな立場を反映しているのかもしれませんね。

川端 「観光地化」という言葉がよく語られるんですね。先日も雄勝の公民館の上に乗っかった観光バスが撤去されました。これに関しては報道もされましたし、たくさんの人が見に来ました。将来的に雄勝の観光資源になるだろうと言われていましたが、そこで亡くなった人が多かったので観光化に対する抵抗感が強くて、撤去されることになったんです。原爆ドームも観光で来る人がいるわけですよね。大勢の人が見に来るということをネガティブに捉えるのか、前向きに将来への継承として捉えるのか、ここでも同様に意見が割れたんだなということがよくわかります。

佐々木 積極的に見せることを始めたところがありましたよね。釜石でしたっけ?

伊藤 あちこちで被災地ツアーというのが始まっていますね。

東野 「観光」という言い方だと「やっぱり……」となるけれど、防災教育上いいものですし、記憶を風化させないことには貢献します。震災遺構を残すことで、50年、100年経っても津波の恐ろしさが伝わる。ただ、そう納得するにはかなり時間がかかると思います。原爆ドームも多分最初は抵抗があったと思います。時間が必要ですね。そこをどう思うかは僕らが考えるべきじゃなくて、やはり地元の人が納得するかどうかだと思いますが。

伊藤 地元の人に任せると、今抱いている心の痛みが復興の妨げになってしまうんじゃないかと僕は思います。物理的に、片付けたいという気持ちになるから、地元の人だけに委ねるとどんどんなくなってしまう。「観光」という言葉は抵抗がありますが、日本国民、世界中の人のためにも、これだけひどい災害の跡をしっかり残しておくのはわれわれの責任だと思います。「これは貴重です」という外部の声を現地に届けないといけないと思いますけどね。

伊藤智章氏

佐々木 僕はいろんな人に見てほしいなって思っています。半年遅れて南相馬市にきたわけですが、実際に見て歩いて初めてわかったことが結構ありました。震災から一ヶ月後に石巻に行ったとき、すごい匂いがしていて、これはテレビや新聞の言葉ではなかなか伝えづらいものだと思ったんですね。

実は阪神大震災で尾張取材に行ったとき、日曜になると大阪から小さなカメラを持った人たちがやってきて、観光客の横で写真をたくさんとっているのを見たことがありまして。そのときはすごく腹がたったんです。何をこんなところに来やがってと。でも今被災地に来て思うのは、まずは来て見てもらってほしいなということです。僕は外から来た人間だからそう思うのかもしれない。被災地の方は複雑な思いでしょう。

川端 大川小学校の校舎もまだ被災したまま残っています。やはり遺族の間では意見が割れています。たくさん写真を撮りに来る人や観光バスで来る人がいて、何だと思う人もいる。たくさん見てほしいという遺族の方も大勢いる。

確かに地元の人だけの議論にすべきではないと思うんです。実際、日本には災害遺構が少ない。壊した方が手っ取り早いのは確かですし、残すために費用もかかる。当然それを地元の責任だけで残すわけにはいきません。残すのであれば、国として費用を定めて、それをどうまかなっていくのかということを地元の住民だけの議論ではすませてはいけないと思います。

亀松 なかなか二者択一は難しいと思います。伊藤さんは残すべきだという立場ですか。

伊藤 そうですね。例えば田老の防潮堤ですが。これは40年かけて作ったものですが、今回の津波で倒れてしまった。10mの防潮堤はものすごい高さで、東京の江戸川の河口にある堤防よりもよほどがっちりしている。それが自然の力によって、いとも簡単に崩れてしまうわけですね。東京の人に見てほしい。自分たちの住んでいるところに同じものがきたら簡単にやられます。それを東京の人も知らないといけない。観光という言葉はよくないけど、見に来てその人たちのためにも残しておいてほしいと思います。

「ここでしか見えないもの」

亀松 川端さんは大川小学校の話をずっと継続して取材していらっしゃいますね。

川端 石巻市だけでも4000人近くが犠牲になっていますが、小学校でこれだけの規模の犠牲者は他に例がありません。今の三浦君の話にもありましたが、子どもを亡くすということはたえ難いことだと思います。

あともう一つ思っているのは、同じことが例えば東京の小学校で起きたらどうなるだろうかということ。この取材に日常的に関わっているのは私ともう一人だけですが、東京の小学校で起きたら果たしてこんな人数で取材を担当するような話だろうかと。おそらく何十人の記者が取材を続けるでしょう。それと同様のことをしなければいけない。

マスメディアは首都圏、大都市のニュースの取材を中心に報じるところがあります。今回被災地が東北でこれだけ大きなことが起きたということを報じることが、首都圏への警鐘にもなりますし、それを地道に伝えていかなければと思います。

亀松 定点で一つの場所で取材を続けるから見えてくるものがあるという話と、とにかく現場に行かなければわからないことがあると思います。伊藤さんは宮古日記に「ここでしか見えないもの」というタイトルで記事を書かれています。現地に行かなければわからないこともあるのではという提起をされている記事ですが、簡単に内容をお話いただけますか。

伊藤 宮古市内の旧田老町に、たろう観光ホテルという建物があります。その建物の手前に防潮堤があったのですが、津波で全部流されてしまった。六階建てのホテルで、四階まで津波が襲ってきました。従業員を逃した社長が、キャンセルの問い合わせがくるかもしれないと思い、ホテルに残っていた。そのときに津波が押し寄せてくるのが見えて、とっさに映像を撮ったんです。六階から撮っていたので、津波が中に入ってくるところが全て映像にうつっています。

2011年10月頃にわれわれ記者を集めて、この映像を見せたい、記事にしてほしいという話が彼から来ました。私はそこに行ったんですが、写真を撮る許可は貰えても、テレビで流すために映像を提供してほしいと交渉しても断られました。映像を撮った部屋で、防潮堤を見ながら映像を見てほしいと。それから半年あまり過ぎていますが、今もその部屋でしか映像を見せていません。

亀松 ニコニコ動画にアップしてくれていたんですが、今は公開されていないんですよね。このホテルに行けば見せてくれると。

伊藤 そうです。言葉数の少ない社長ですが、 ここにあった町が全部なくなって、何百人もの人が死んだ恐怖を、複雑な思いをそのまま伝えたいのでしょう。これを例えばインターネットやテレビに流して、「すごい迫力ですね」と消費してほしくないんだろうと僕は思いました。

このことを記事にしたとき、たくさんの問い合わせがきて、彼も受け取っていると思いますが、未だに頑として見せないんです。さっきの観光化の話とも関連しますが、とにかくここに来て、自分たちがどういう思いでここに留まって、これだけの犠牲者が出たということを見てほしいということだと思いました。田老に行くたびにこのホテルに行って映像を見ています。

亀松 そこに行けば誰でも見られるんですか?

伊藤 そうですね、彼は申し込んでほしいと言っていますが。見に行かれたら、映像としては気仙沼の方がすごいなどと思う方もいるかもしれませんが、この部屋でその瞬間、彼がどう思ったのかに共感すると、もっと深いものが感じ取れると思います。ちなみに彼はこのホテルを震災遺構にしたいと言っていますね。

亀松 まさしく、そこでしか見えないものということですね。東野さん、ものすごい数の映像がテレビで流れてはいましたが、現場に行かないとわからない、伝わらないことってありましたか。

東野 たろう観光ホテルの映像の見せ方は、観光地化の議論と関わってきますね。物珍しいから見るという怖いもの見たさと、見なければいけないから見るという見る側の気持ちの違い。被災地の方は、物見遊山でもいいから来てほしいという人の方が今は多いでしょうね。できるだけ直接来ていただいた方が、いろんな支援をするよりも、被災した方々にとってはありがたいと思います。伝えたいことがたくさんあって、知ってほしいことがたくさんあります。大槌の方に話を聞くとそういう方が多いです。

観光資源としての被災地

亀松 今被災地に来てほしいという方がいらっしゃるということですが、ここでアンケートをとりたいと思います。被災地に行ったことがありますか? 「はい」「いいえ」「 もともと住んでいる」の三択でお答えください。

被災地は、 現に津波の被害のあったところに行ったとか、南相馬市のように避難をしなければならなかった地域を指します。

伊藤 一言いいですか。私のいる宮古市に三陸鉄道という広範囲に被災したローカル線の会社があります。線路が流されていて仕事にならないので、4月から被災地ガイドといって、 駅員さんが被災地を案内してくれています。

このサービスのネーミングが面白くて、「観光」という言葉は使わず「フロントライン研修」といっています。全国から結構申し込みがあって、人がいっぱい来ています。もちろん最低限のマナーを守る必要はあるけど、話を聞きに行くチャンスと心構えがあれば、ちゃんと見に行くことができます。受け入れる側もそういう受け入れの窓口を作る努力をしていることを知ってほしいと思います。

亀松 アンケートの結果が出ました。

1. はい 23.5%

2.いいえ 69.6%

3.被災地に住んでいる 6.9%。

最初のアンケートで被災地以外から見ている人の数から考えると、これは結構多いかもしれませんね。

東野 いま復興ビジネスはなにができるのかが話題になっています。大槌町の人も、いま一番の観光資源は被災地であることだろうと言っていて、視察や研修を考えています。復興につながる大きなきっかけにもなると思います。大槌という誰も知らない場所を知ってもらえるというだけでもすごく大きいはずですから。

亀松 私が女川とか南三陸に行ったときに、災害遺構をひとしきり見て帰っていくという人たちがいました。そういう外部から来る人を歓迎する傾向もありますが、逆に反発はありませんか。

伊藤 反発も生じています。特に遺族の方などが見世物じゃないという反応をされる。ただ、それは見に来るひとのマナーの問題じゃないでしょうか。被災者たちが苦労しているということをわかろうとする態度が伝われば、変わると思います。

川端 それはかなり意見が分かれるところだと思います。人によっては両方の気持ちがあるでしょう。この現実を多くの人に見てもらいたい、でも物見遊山に見られるのはちょっと……という葛藤が個々にあって、それが団体になると食い違いが生じてくる。ただ、この記憶は残していかなければならないものであることは間違いない。これまでわれわれの社会はこういった議論をしてこなかったので、今からやらなければいけないことだと思いますね。

伊藤 議論が十分にされないまま決めてしまった好例が、阪神大震災のときに倒れた高速道路ですね。あれはすぐに取り壊したんです。あれは確かに邪魔になったけど、残しておけば多くの人の記憶に残ったと思いますね。

放射能への不安と差別について

亀松 災害遺構を残して、できるだけ外部の人に来てもらった方がいいんじゃないか、という話でした。

最後に佐々木さんのお話ですが、佐々木さんは今までの4人とはちょっと違う事情がありました。南相馬市は、福島第一原発から20km圏内に入っている警戒区域で、中でも小高区は立ち入りができない。原町は一時緊急避難準備区域で、制限がかかっていました。今、一番南にある小高区に入ったときのことを書かれた記事が手元にあります。そのときはどのような状況でしたか。

佐々木 このとき僕は初めて警戒区域の中に入りました。11月末です。原発から20km以内は立ち入りが制限されているので、建物は崩れたままになっています。だから、震災直後の状態がそのまま残っています。原町区と小高区は地盤が違うからか、原町区は建物の倒壊があまりなかったのですが、小高区は地震による倒壊が目立っていて、震災直後に戻ったような感じがしました。

亀松 12月時点でもそのまま残っているんですね。

佐々木 はい。未だに警戒区域は解除されていません。おそらく明日30日に(2012年3月29日放送)、その区域の再編を発表します。南相馬市は震災前約7万1千人の人口でしたが、市が避難を呼びかけてから、一時期は1万人前後まで減りました。緊急時避難区域は9月末に解けたので、原町区では学校も再開されました。現在は4万4千人近くまで人口が回復しています。

亀松 警戒区域になっている理由は言うまでもなく、第一原発から近くて放射線量が高いということだと思いますが。

佐々木 いえ、放射線量が高いかどうかではなくて、原発からの距離で決められています。

亀松 実際に区切るときのルールはそうですが、その条件として放射線量を浴びる可能性を考慮しているのではないですか。

佐々木 単純に距離で区切っているため、そうとは言い切れません。それ以外に、計画的避難区域といって、放射線量が高いところが指定され、例えば南相馬市の西にある飯舘村は全村避難になりました。放射線量で避難指示が出るところもあります。

亀松 20km圏内ではあっても、福島市や郡山市よりも放射線量が低い場所があるということですね。

佐々木 そうです。福島市の方が南相馬市の町中よりも放射線量が高いという結果が出ています。

亀松 放射能というのは、中に入ってみると感じるものなんでしょうか。

佐々木 ははは(笑)。痛みでも感じたらいいんですけどね。あるいは記事にも書いたように色でもついていればどれだけわかりやすかったか。測らなければどれだけ放射線量があるか全くわかりません。だから余計不安になる。低線量被曝についてはデータが揃っていないので、どれだけ将来に影響が出るかわかりませんね。だから子どもをもった家族中心に避難している状況です。

人口構成で見ると、小学校低学年に近い年齢ほど少なくて、その親に該当する世代の女性も少ない。お父さんは仕事で残って、お母さんは子どもたちを連れてよそに避難しているという構図が見えてきます。避難先としては仙台や東京が多い。一番遠いところでは沖縄に避難している人もいます。警戒区域には二度入ったんですが、福島第一原発の目の前にも行きました。もちろん痛みも感じないし、鳥も鳴いている。何もなければただの工事中のところにも見えますよ。

亀松 放射能差別についてどう思うか、というコメントがありました。線量が高くないのに入れないという場所がある一方、宮城県や岩手県の瓦礫処理の受け入れに対する抵抗が非常に強いという問題があります。例えば石巻市は瓦礫がたくさん出て問題になっていますね。そういった抵抗を感じることはありますか。

川端 石巻市の瓦礫は通常のゴミ処理場の106年分の量があると言われています。まだ受け入れは全く進んでいないですね。石巻にとって放射能の影響は、瓦礫よりも海産物が強い。昨日も高級魚のスズキに含まれるセシウムが100ベクレルを超えているというニュースがあって、仙台湾のスズキの水揚げを自粛することになったんです。これは他の水産物にも影響してきますので、これから産業が立ち上がろうとしているときに、放射能が与える影響というのは非常に大きいですね。

亀松 そういう意味での影響はあるということですね。大槌も津波以外にも漁業の影響がありますか。

東野 大槌では放射能へのイメージはまったくないと思います。ただ、警戒区域から遠い地域なのに、瓦礫の受け入れ反対運動が各地で起きているのをみると、不思議に思いますね。住民の方はみな、「日本地図を持っていないのかな」と言っていますね。もちろん単純に瓦礫を受け容れるのが嫌だというのは理解できますけど、放射能を理由にするにはつじつまが合わないです。

伊藤 宮古市の瓦礫の山を東京都が受け入れていて、よく取材に行くんですけど、ものすごく厳密に放射線量を測っています。それを見ると、複雑な気持ちになりますね。東京都は石原都知事の決断でいち早く受け入れていて、東京湾に瓦礫を埋め立てています。

でも実は、東京の方が放射線量は部分的に高いんですよね。福島第一原発事故の風向きや距離を考えると、南の方に放射線が降っているはずです。それに比べれば宮古市の方が放射線量は低いのに、拒否反応を起こしている。取材するたびに、「絆」というスローガンは何だったんだろうと複雑な思いになります。説明がうまくできていなかったという理由もありますけど。

遺体の写真を撮るか

亀松 わかりました。ここからは遺体の報道をテーマにお話いただきたいと思います。

朝日新聞出版から『東日本大震災』という写真集が出ています。このなかには、ブルーシートに包まれた遺体の写真などが掲載されています。今まで、こういった写真や映像が被災地の報道で直接的に取り上げることがなかったと思います。いろんな配慮があると思いますが、一方で、CNNやニューヨークタイムスなどの海外メディアは積極的に遺体の写真や映像を流していて、これが日本のネット上で話題になりました。

川端さんにお話いただきたいのが、自衛隊が捜索しているときに遺体が見つかって取材の許可でもめたことについてです。そのときの状況を説明していただけますか。

川端 遺体捜索の取材で実際に遺体に遭遇したことがありました。そういうときに近づこうとすると、自衛隊の人たちは止めようとします。それに対してなぜ撮らせないのかと言ったことはあります。

ただ、遺体写真を紙面で使うのは難しい問題があります。亡くなった方の尊厳がありますし、亡くなっているので了解を得ること自体不可能ですよね。そういうときに写真をどう使うのかという議論はすべきです。

一方で、被災地の方々は相当な数の遺体を実際に見ています。消防団の方で、娘さんが亡くなって、遺体と対面した翌日から地域の遺体捜索を始めなければならない人がいました。その方は「地獄を見た」と言われました。われわれは地獄をどこまで伝えきれているのか。今の時点では遺体の写真を紙面で使ったことはほとんどありませんが、現実を伝えるためにある程度は必要なことじゃないかと僕は思います。

亀松 三浦さんが被災地で取材をしているときに、週刊誌の記者が写真を撮っていて地元の人に止められたのを目撃したそうですが、そのときはどのようなシチュエーションでしたか。

三浦 川端さんがおっしゃったように、瓦礫の中にたくさんの遺体がありました。辺りには週刊誌の記者だけでなくて、フリーのカメラマンや外国の通信社などたくさんの方がいます。遺体がいっぱいあって、泣き崩れている人もいる状況で、そういう人々にカメラを向けることができるかどうか。個人的にその状況を見たいかというと、見たくないです。

これに関してはメディアの棲み分けを考えないといけないのかもしれません。こういう写真が平和な食卓に届くわけですよね。新聞の朝刊に、例えば目が取れている子どもの写真を載せたら、否が応にも目にすることになる。テレビにもそういう側面があるでしょう。写真集やインターネットは自分で選択して見ることができますし、より現実を見たいという人はそれらを買ったり、調べたりすれば見ることができますよね。でも、新聞やテレビなど、選択を仰げない媒体については、こういう情景を載せることはできないと思います。

また川端さんがおっしゃったように、自分の娘や母親の遺体の写真を新聞に載せることについては皆さん非常に抵抗があると思います。それ以外に伝えていける方法を別に模索したり、われわれが文章の力で記事にしていけばいいんじゃないかと思います。

亀松 東野さんはいかがですか。

東野 難しいですね。皆さんの話を聞くともっともだと思いますし、なかなか答えは出せません。個人的には、遺体の写真を載せなくとも状況を伝える方法はいろいろあるだろうと思います。多分、個人的に遺体を見たら写真を撮ってしまうと思います。でも、それを紙面に出すかどうかはまた別の問題です。日本が習慣的に今までそうしてきたことだから、あえてそれを変えたいとも思わないです。遺体の写真をどんどん載せる国にいたら、僕は普通に出していたのかもしれません。はっきりした理屈が立たないですね。

亀松 番組を見ている視聴者に、もう一回アンケートをとってみたいと思います。ひねりの入った聞き方ですが、遺体の写真を撮る記者をどう思いますか? 「許せるし伝えるべき」「許せないし、撮る必要もない」「わからない」の三択です。

つまり、遺体の写真を掲載すべきだという意見もあると思いますが、その前提として撮影する行為が不可欠なわけです。その撮影という行為自体の是非についてです。

森達也さんというドキュメンタリー映画監督が震災に合わせて作った『311』という映画があります。非常に印象的なシーンで、遺体を撮影しようとしてその関係者から抗議を受けて木の棒を投げつけられるという場面があります。森さん以外にも後ろで撮影している人がいて、遺体を撮影しようとする取材者をスクリーンにあえて映し出したわけですね。この場面に取材者のジレンマが象徴されていると思いました。

結果が出ました。

1.許せるし、伝えるべき 49.6%

2.許せないし、撮る必要もない 15.8%

3.わからない 34%

半数近くが伝えるべきだという意見ですね。

東野 むしろ半分ないとも言えますね。

亀松 佐々木さんはどう思いますか。

佐々木 遺族の立場になったら全く違うでしょうし、なんとも言いづらいです。

亀松 伊藤さんはいかがでしょうか。

伊藤 自分で撮れと言われたら確かに撮りにくいですね。原爆の写真が残っていることを考えると、誰かが撮らないといけないと思います。新聞に載せるかどうかはまた別のハードルがありますが。

佐々木 少なくとも撮るとは思いますよ。もちろん撮らないでくれと言われたら撮りません。そこまでして撮ろうとは思いませんね。

生きた証の伝え方

川端 報道とは関係ありませんが、震災直後に遺体安置所に行ったとき、たくさんある身元不明の遺体の顔写真が壁一面に貼られていたんです。

亀松 どういう見た目かわかるように写真を貼っていたわけですね。

川端 はい、身分証明書も何もないので、写真を見せたり、特徴を書いたりしていました。自分にあの写真と同じものが撮れるかどうかと考えると、かなり難しいと思います。

われわれは常に報じることの意味を考えなければならないと思います。これだけの人が犠牲になったという現実を、地元の人はたくさんの遺体と接しているからこそ感じていると思うんですよ。もちろん顔がわかるような撮り方はすべきでないと思いますし、遺族の方に撮らないでくれと言われたら撮れない。

ただ、その現実は何らかのかたちで伝えなければいけないなと思います。文字で伝えることもできますが、写真や映像のもつインパクトも手段として放棄すべきでないのではと思います。また、アンケートの結果で半分近くの方が撮るべきと言っていますが、それは受け手の考え方だと思いますね。ご自身のご家族の写真だったらどうかといえば、また数字は変わってくると思います。

亀松 死をどう伝えていくかを考えたときに、写真を使うという方もいると思いますが、文字を用いる方もいますね。東野さんが「生きた証」という記事をまとめて紙面にまとめて掲載したことがあります。

東野 そのときのことを少し説明させてもらいます。僕は被災地に来て何をやるか考えて、まずは復興の手伝いをしたいと思ったんです。復興の取材をしているとき、人の不幸を飯のタネにしてやっている後ろめたさがありました。だから、記事に載せる仕事以外に何かできないかなと考え、取材の記録を残すということをやってみようと思いました。生きている人の話はたくさん聞けますが、亡くなった人の話は消えていってしまいます。供養の意味もあるし、実際に生活していたということの証を残したいと考えたんです。

できるだけたくさん記録して、役場に保管しておけば何かの役に立つのかもしれません。どこの誰だったかという情報だけでなく、どういう人だったか、どういうふうにして亡くなったかを記すことによって防災のためになるかもしれない。そう考えながら少しずつやっていました。

すると、それを読んだ同僚の記者たちがみんなでやった方がたくさん集まるんじゃないかと考えて、40人くらいの方が一緒に取材してくださったんです。それからしばらく続けていますが、新聞に載せてほしいという依頼が結構きて、100人分の記録を掲載することになりました。それが掲載された12月9日付の岩手県版の新聞です。

大槌町は、死者・行方不明者を含めると1300人弱。そのうちの100人ですから、ほんの数パーセント。載せてから思ったことは、われわれは人が死んだら大騒ぎして書くくせに、何万人と亡くなったときは十把一からげにしてしまうのだなということです。だから、これだけの人が亡くなっていてこれはそのごく一部なんですと伝えることも意義があるんじゃないかと思いました。

亀松 住所、被災時の状況、人柄などの情報が100人分一挙に掲載されたんですね。さっき、遺族には取材に応じる義務はないというコメントがあって、もちろんその通りだけども、遺族の中にはむしろ忘れてほしいという人もいるわけですよね。

東野 もちろんそういう方の記録は載せていません。むしろ、かなりの人が取材に応じてくれて、拒否されるということはほとんどありませんでした。一周年で、岩手日報という地方紙が顔写真まで入れて県内で亡くなった方々の記録を全部掲載し始めました。ここに載っているのは、亡くなった方全体の3分の1に当たる数。総力取材で何ヶ月もかけて、8日間連続で掲載していました。僕はまさに、こういうふうにして記録に留めるということをやりたかった。このように共感を呼んでいることが非常にありがたいと思っています。

亀松 今までは厳しいコメントがありましたが、今回は、これは大事なことだ、いいことだというコメントがかなり多いですね。

東野 あくまでも、無理矢理嫌がる人に取材するような内容ではないということをわかっていただきたいですね。

亀松 他の皆さんも亡くなった方の生きた証を伝えようという気持ちを持ちながら取材しているのでしょうか。

「数字となった命」という見出しで、川端さんが書かれた記事があります。今回すごい数の人が亡くなったり行方不明になったりしていて、その数字の巨大さがひとつ報道の焦点になりました。その数字が大きすぎるがゆえに、それだけで伝わったかのように錯覚してしまうのではという主旨でしょうか。

川端  石巻は特に犠牲者の数が一番多かったので。われわれはどうしても数字の大きさに注目してしまいがちですが、そのひとつひとつが命です。ひとつひとつの命の物語を、小さくてもいいから伝えて紡いでいかないといけないと思ったことがこの取材の原点です。

これから何を伝えていきたいか

亀松 最後に皆さんにこれからのことについて簡単にお話いただきたいと思います。震災が起きてから一年が経過して、一旦報道が落ち着き始めていますが、被災地の現実はこれからも続いていきます。それをふまえて、皆さんがこれから何を伝えていきたいかあらかじめフリップを用意させていただきました。三浦さんからお願いいたします。

三浦 「家族」だと思います。

今回の震災で、被災地だけでなく、電車が止まって帰れなくなった東京の人、また放射線の件もあって、皆さんが考えたのは家族のことだと思います。複雑な世の中になってきて、何を信じていいのかわからない難しくなっている今も、日本全国が「やっぱり家族はいいな」と思ったのではないでしょうか。家族という小さなグループをしっかり見つめなおすことによって、少しずつこの国を変えていくしかないなと思いました。

亀松 ありがとうございます。では佐々木さんお願いします。

佐々木 「住民の息づかい」ですね。人は誰でも小説を1編だけは書くことができると言われます。みなそれぞれの物語をもっているということですが、今回被災地でいろいろ話を聞いて、どんな人にも必ず物語があるというふうに思いました。それだけ大きなことだったんでしょう。

福島は特に原発という問題があって、目に見えない恐怖がずっと続いているわけです。そうした状況で、復興といいたいところですが、まだまだのところがたくさんあります。でも、元気でやっていきたいと思っている人たちもたくさんいます。その人たちひとりひとりの息づかいを多く伝えていきたいと思います。地元の人にも読んでもらいたいけど、少しでも多く東京の人に読んでもらいたい。

亀松 東野さんお願いします。

東野 「底力」ですね。新聞は生きている人に向けて書くわけですよね。被災者、そして被災者を見ている人に何を伝えるべきかを考えると、先ほど話したように、生きた証を新聞でいっぱい書いていくことに本当に意味があるかどうか疑問を抱いてしまうんです。

防災の研究家の方に話を聞いたとき、亡くなった人たちの話ばかり書いているのではなくて、生きている人の生活情報とか、復興していくには何が必要かを新聞は書いていくべきだとおっしゃられた。ただ、被災地に行ってみるとそうも言っていられないわけです。なかなか前を向けない人もいて、そういう人のことを伝えなければと思いつつも、それじゃダメだという葛藤が芽生えてしまう。その繰り返しを一年間やってきたような気がします。

少しでも復興が見えてきたら、復興について書いていきたいです。ただ国が冷たいだとか、政治が被災者のことを考えていないということもありますが、まだ被災地の方の底力を見ていないような気がしているからです。

今までは、良く言えば非常におだやかで、悪く言えばあまり向上心がない過疎や高齢化の進んでいたところが被害にあってしまったわけです。それを元のような町に戻せばいいという声もありますけど、そんな町に延命措置を与えているだけではいけないのではないでしょうか。町の人にも立ち上がってほしいし、そこで底力が見えたら、声を大にしてできるだけたくさん伝えたいと思います。

亀松 伊藤さんお願いします。

伊藤 「怒りと悲しみ」にしました。私はこの五人の中で一番北にいて、放射線の問題も少ないし、犠牲者も比較的少ないので、どちらかと言うと復興が早いんです。コンクリートの工事も始まっていて、復興の記事を書くことも多いですけど、被災者たちのことを忘れずに被災地にかかわっていきたいと思っています。

復興の話になると、政治の仕組みやいろんなややこしいことがでてきて、そのなかでどう妥協しながら物事決めていくかという話になりがちです。そのうちに、原点にある怒りや悲しみが揺らいでしまうのではないか。

この原点にこだわっていかなければならないと思います。復興に向けて歩いている人もいれば、いろいろ胸の奥に秘めている人もいる。両面を一人の個人を通じて感じます。全体像をかけるかどうか常に考えるようにしている自分は、そこで試されているように思います。

亀松 最後に川端さん。

川端 「記憶」です。被災地をまわって感じたのが、過去の大津波の被害がしっかり記憶に残っているところは被害が比較的出ていないということです。被害をなるべく小さくするのは、過去の記憶をいかに残しておくかに関わってくるんじゃないかと思います。

あの3月11日に何が起きたのか。われわれが書いたものを全て出しても100分の1も書けていないんじゃないかと思います。安全と言われていた場所でもたくさんの人が亡くなっています。何があったのか、そしてある場所では救えたのに、別の場所ではなぜ救えなかったのかということを、もっとしっかり検証を続けて書いていかなければいけないと思います。

おそらく今回の震災のことは記録としては必ず残るでしょう。ただわれわれは、それを人々の記憶として残す仕事をしていかなければならない。そのためにどうするのかという答えは見つかりませんけど、それが新聞記者の重要な仕事なのかなと考えています。

亀松 今、「記憶は消えるよ」というコメントがあったんですがまさしくその通りだと思いますね。被災体験した人でも、だんだんディテールを忘れていってしまいます。記憶が消えていってしまうものだからこそ、いったん記録しないといけない。それをまた多くの人に伝えていく。ある人が体験したことを記録にして、それを記憶して伝えていってもらうということに意義がありますよね。

川端 そうですね。記録として残すだけではいけない。記録として残したものを記憶に残しておくということは、なかなか大変ですがやらなければいけないことだと思います。

亀松 皆さん、ありがとうございました。視聴していただいたユーザーの皆様、三時間を超える長い番組になってしまいましたが、どうもお疲れ様でした。ありがとうございます。ではこのあたりで失礼したいと思います。

(本記事は、2012年3月29日に放送されたニコニコ生放送「被災地最前線からの報告」をもとに再構成したものです。 )

プロフィール

佐々木達也

1958年仙台市生まれ。福島大学経済学部卒。朝日新聞南相馬支局。1984年入社、地方勤務の後、東京本社社会部、西部本社文化部、企画事業本部文化事業部専任次長、事業開発部企画委員などを経て、2011年9月20付で現職。西部本社文化部時代は、福岡市文化芸術振興財団主催の創作コンペティション審査員などを務める。東日本大震災の被災地に勤務する記者10人の共著「闘う東北 朝日新聞記者が見た被災地の1年」(朝日新聞出版)を執筆。

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