「福島が幸せになる」ということの強さ――福島における社会科学の役割

2011年3月、東日本大震災の影響で東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた。福島県では、地震と津波災害の後、いわば「3つ目の災害」として、経済的な風評被害や社会不安が未だ続いている。

 

物理学者や医学者などの自然科学の研究者は、折に触れてこの3つ目の災害について「サイエンスではなく政治的な問題だ」と指摘する。ここでいう「サイエンス」が「自然科学」を指すとすれば、まずは自然科学と政治的な問題(人文学)との違いを明確にする必要がある。また、人文学を科学的に研究するものである社会科学の役割もまた明確にする必要があるだろう。

 

自然科学、人文学、そして社会科学それぞれの違いを明らかにし、また原発事故後の福島におけるそれぞれの役割を考えるために、橋爪大三郎・東京工業大学名誉教授にお話を伺った。

 

 

 

 

自然科学は「モノ」を研究する

 

――自然科学、人文学とはそもそもなんでしょうか。

 

まず、自然科学は「モノ」を研究する学問です。自然科学は、「法則性を持つ『モノ』を、観察し、実験する」という方法で研究されています。

 

「モノ」は多様です。物理学や化学、あるいは生物学や天文学など、その研究する対象によって分野が変わります。そして各分野によって、それぞれ基本的なモデルや方程式、実験の手続きなどが異なります。しかし、「モノを研究対象としている」という点で、自然科学は共通しています。

 

 

――自然科学が扱う「モノ」とはどのように定義されますか。

 

「自然科学」が扱う「モノ」は「自然」のことです。自然科学の起源はキリスト教にありますから、キリスト教の考え方に即していえば、自然とは「神」が創ったものです。人間が作ったものは自然ではありません。つまり「自然科学とは、神が創ったものを研究する」学問ということになります。

 

さらに、キリスト教は、「モノ」と「モノでないもの」との間に線を引きます。植物は「モノ」、動物も「モノ」です。人間も動物ですが、霊長類と人間との間に線を引きます。そして、人間は神が作った「モノ」でありながら、自然を超えた存在であると考えます。

なぜ人間がほかの「モノ」を超えた存在であるかというと、精神があり、個性があるからです。

 

人間は、一人ひとり異なる精神を持っています。それぞれの喜びがあり、悲しみがあり、苦しみがあり、希望があります。そして、そのそれぞれの異なる精神を、音楽や物語、舞踊や絵画などで表現します。そして別の人間がそれらの表現を観たり聴いたりして、また別の精神活動が起こります。こういった、人間の一人ひとり異なる精神を表現するために人間が作ったものを研究するのが、人文学です。

 

 

――「神」が創った「モノ」を研究するのが自然科学であり、人間が作ったものを研究するのが人文学なのですね。

 

「人文学に近い自然科学」というものもあります。たとえば、医学という学問分野があります。医学は人間を研究対象とした学問です。もし人間を単純に「モノ」と考えれば、医学は自然科学です。しかし、人間はほかの「モノ」とは区別されていますね。

 

人間がほかの「モノ」と区別される要素のひとつである「精神」を研究する精神医学は、社会や一人ひとりの個性とも関連が深く、人文学に分類してもいいように見えます。しかし、精神疾患と脳との関連は深いので、精神医学も医学であり、また医学も自然科学の一種であると考えます。また、人間工学や認知科学、人工知能などは、人間がインターフェイスになっているため、人文学に近い自然科学であると言えるでしょう。

 

 

社会を科学的に研究する

 

さて、人文学は、人間が作ったものの研究をします。人間には精神があり、個性があるので、「良い/悪い」「好き/嫌い」といった「評価」をします。自然には精神や個性がありませんから、自然を研究する自然科学者は評価をしません。ただ、自然科学の真似をする人文学の分野はあります。たとえば心理学や言語学です。これらの学問の研究対象には、精神と個性とともに法則性もあり、観察と実験もできるため、人文学ではありながら、自然科学のように振舞います。

 

また、論理学や数学は人間の精神を外面化して研究していますが、これらには個性がありません。よって、論理学と数学は自然科学でも人文学でもない学問であるとも言えます。

 

 

――では、社会科学とは何でしょうか。

 

人間がたくさん集まると、法則性が生まれ、「集合現象」が起こります。集合現象は、一人の人間の力では作れず、またコントロールすることもできない現象です。人間が集まって、集合現象が起こると、「社会」が存在するようになります。「社会というものの実体が本当に存在するのか」という問題はありますが、一応ここでは「社会というものの実体は存在する」としましょう。そして、「実体のある社会には法則性もある」としましょう。すると、社会は「実体と法則性があり、観察も実験もできる」ということになり、「社会は科学的に研究できる」ということになります。こうして「社会科学」が生まれました。

 

最初に社会科学として研究されたのは経済学です。政治学の方が古くからあったのですが、これは観察や実験をせずに予め何が良くて何が悪いかを決めてしまうもの(規範科学)であり、法則性のある対象を観察、実験しながら明らかにしていく科学(経験科学)ではないため、実際の社会の法則や構造を明らかにすることはできませんでした。

法学はもっと古くからありましたが、これは科学ではなく、むしろ社会的なサービスに近いものでした。法律の条文を具体的なケースに適用して、解釈したり裁定を下したりするものです。

 

しかし、社会科学が生まれた後は、法学も法社会学や法理学のように科学的に研究されはじめました。ほかにも、政治学や社会学、人類学など、さまざまな分野が科学的に研究されるようになりました。

 

 

――社会科学の研究手法にはどのようなものがありますか。

 

人類学でよく行なわれるのは「参与観察」です。現地に行き、現地の人と仲良くなって、その体験レポートを書くというプリミティブ(原初的)な手法です。ただ、現地に行った体験がその人だけのものである場合、反証可能性(自他の観察や実験によって、それを行なう前に立てた仮説が反証される可能性)がありません。「科学とは反証可能性があるものである」という定義(カール・ポパー)には反していますが、社会科学としてはこれでも研究になります。

 

一方、法学や経済学、社会学の場合には、対象に社会の全員が参与していますので、このようなプリミティブな手法では人々に知識を提供できません。

 

そこで、経済学では「全ての現象を貨幣価値に換算し、理論やモデルを作り、観察する」という研究手法をとります。政治学でも一部理論を使いますが、選挙や世論などは、国や地域の文化に依存する部分が多く、結局は現地で参与観察をすることになります。

 

社会学は、社会で起こっている現象であればなんでも対象にする学問分野です。社会学では、まずアンケート調査の結果を使います。そして、政府がとっている統計を分析します。政府が統計をとっていないものであれば、自分でマクロデータをとらなければなりませんが、これには莫大なお金がかかります。そこで、通常統計データがなければ面接調査を行います。面接調査は観察の一種です。あるいは、日々のニュースを見て「こんなことを思う今日この頃です」というような個人の感想でも、社会学では研究として成り立ちます。

 

 

権威主義が意思決定を鈍らせる

 

――自然科学と社会科学の違いはなんでしょうか。

 

社会科学の特徴は「同じ分野の中で異なる学派が並立したまま、ずっと議論をしている」ということです。自然科学では、同じ対象に対して違うアプローチをしているだけであり、理論や実験によって、対象である「モノ」の法則性が証明されれば、個人の主義は関係なく合意することができます。あるいは、衝突せずに、別の分野で同じ対象を研究することもできます。

 

自然科学でも、研究者個人の考え方のために合意できなかった例はあります。たとえば、アインシュタインは、ボーアの量子力学を認めませんでした。これはボーアの理論に確率変数が含まれていたからです。キリスト教などの一神教では「この世界のことは神によってすべてあらかじめ確定しており、偶然はありえない」と考えます。アインシュタインは一神教を考え方の基盤にしていましたから、確率変数を含む考え方を受け入れられませんでした。

 

それでも、アインシュタインとボーアの場合は、ミクロとマクロで住み分けて、喧嘩をせずに研究を続けることができました。しかし、社会科学ではそうはいきません。たとえば「マルクスの本には真理が書いてある」と考える学派があります。彼らは、「マルクスが真理である」ということを公理とし、その前提で研究をします。「マルクスは直観的に真理をさとって語っている」と信じるところから出発しているので、マルクスが語ったことは全て正しく、「マルクスが真理である」ということを公理にしない学派は間違っていると考え、両者の議論は平行線をたどります。

 

 

――福島第一原発事故の後、当時内閣官房参与であられた小佐古敏荘氏が、子どもの屋外活動制限の目安が公表された際に記者会見で涙を流されたということがありました。(注1)これを受け、自然科学的な妥当性ではなく「長い間原子力を研究なさっていた小佐古敏荘氏が泣いてしまわれた」ということを主たる論拠とした書籍を、著名な宗教学者が出版されました。

 

(注1)原発事故後から徐々に復旧していく時期に、一般住民が受ける放射線量の目安は20~100mSv/年である(ICRP勧告)。この最小値である年間追加被曝20mSv/年から計算し、空間線量率で3.8μSv/時を2011年4月からおおむね8月下旬までの暫定基準として、児童の校庭の使用を可能とした。この考え方の発表後に辞任した小佐古敏荘氏が記者会見で涙を流した。

 

それは社会科学ではなく、単に文学ですね。それから「権威」という現象があります。権威主義の人々は、「ある分野で長い間研究していた人であるゆえにその人の考えはすべて正しい」と考えます。権威主義の立場をとると、特定の権威がある個人の文献を引用したり二次加工したりするだけのグループが生まれます。

 

権威主義によるグループは、マルクス主義のような社会科学的な学派とも違うものです。たとえば「丸山政治学」というグループがあります。丸山眞男が長い間政治学を研究したということで、「丸山眞男」という個人を権威としたグループが生まれます。このグループは、丸山眞男のお弟子さんが絶え、孫弟子さんが絶えると消えてしまって何も残りません。

 

 

――そういった個人の権威を根拠とする人文学の手法を、社会的に影響力のある方が、たとえば福島第一原発事故のように自然科学の知見を活かす必要のある場面でとることで、社会を混乱させることはありますか。

 

あります。学派や立場がある上に権威までがあると、実際にはさまざまな可能性を考慮しなければならない状況の中で、「私はこのようにしか考えません」あるいは、「私はこの考え方が嫌いです」という主張につながりますから、議論が収束せずに意思決定を鈍らせます。

 

たとえば、経済を研究対象にしているマルクス経済学と近代経済学は、どんなに議論を重ねても合意することはありません。マルクス経済学によると「資本主義は行き詰まって、やがて崩壊する」ということになります。でも実際にはなかなか崩壊しません。すると「それは労働者が資本家にだまされていて、革命を起こさないからだ。もし実際に革命が起きれば我々の考えの正しさが証明される」と言います。この両者はどこまでも合意することがありませんので、ついにはマルクス経済学をとった旧ソ連側と、近代経済学をとったアメリカ側が冷戦状態にまで陥ったわけです。

 

 

――福島県では、原発事故の後から県民健康調査を続けており、これについての検討委員会が開かれています。ここで主に議論されるのは子どもの甲状腺スクリーニング検査についてですが、現在、この検査で子どもがデメリットを被る可能性や、検査プログラムそのものの倫理的欠陥が指摘されています。(注2)しかし、今も初期の計画のまま検査が継続されています。

 

(注2)「福島における甲状腺がんをめぐる議論を考える」「福島の子どもは、大丈夫です」「医師の知識と良心は、患者の健康を守るために捧げられる―福島の甲状腺検査をめぐる倫理的問題

 

まず、福島の子どもが検査の継続によって被害に遭うのは極めて気の毒なことですね。検討委員会で議論している学者がまじめに考えていても、意思決定機関として会議が機能しなければ、それは「組織の不作為」という行為にあたります。

 

「予防接種をするかどうか」というテーマでも同様のことが起こり得ます。まず、予防接種には確実なデメリットがあります。お金はかかりますし、一定の割合で副作用も起こります。注射は痛いし、少し熱が出ることもあります。一方のメリットは不確実です。予防接種を受けていれば病気にかからないかもしれませんが、予防接種を受けなくてもかからないかもしれません。

 

メリットが確実ではなく、デメリットが確実であるような予防接種を、住民に強制することが許されるのは、デメリットの総和を上回る公益性があると考えられるからです。

予防接種を受けている住民の割合が十分高ければ病気の大流行は起きず、その割合が十分低ければ大流行が起こります。大流行が起こった場合、健康な人は命に別状はないとしても、一部の弱者が重篤な症状を呈し、場合によっては死んでしまいます。

 

たとえば「病気の大流行が起こると、高齢者が1万人死ぬ」としましょう。一方で、「強制的に住民に予防接種を受けさせると、副作用で子どもが5人死ぬ」としましょう。「命は誰にとっても平等である」という考え方もあるでしょうし、「未来ある子ども5人の命の方が、十分に生きた高齢者1万人の命よりも大切だ」という考え方もあるでしょう。いずれにしても「1万人の高齢者の命を助けるために、5人の子どもの命を奪っていいか」という問題は、自然科学の問題ではありません。

 

もちろん、どちらを選択してもひどい行為です。しかし、意思決定権を持った組織体が「ひどい行為だから私は関与しません」という選択をすれば、自動的に「予防接種はしない」ということになり、自動的に1万人の高齢者が死んでしまいます。意思決定権を持った組織体が「アクションをしない」という選択は、「不作為というアクションをしている」ということになります。

 

 

福島の人々が楽しそうに生活すること

 

――検討委員会後の記者会見などで威圧的な言動をとったり、必ずしも医学的に正しくない主張を論拠としたキャンペーンを一部報道機関と協働して行なったりという人々の存在も見受けられます。

 

「市民主義」という立場の人々がいます。特に日本の市民主義の公理は「政府は絶対悪である」というものです。市民主義の人々は「政府は陰で悪だくみをしていて、一般市民の生活を破壊しようと狙っている」と考えます。ですから、政府からの提案は何であれ反対し、市民運動側からの提案は何であれ賛成します。その行動の結果にかかわらず、「政府に反対した」という行為そのものによって、「自分が正しいことをした」という達成感を得ることができます。また、「自分たちは善意によって正しいことをしている」と強く信じていますので、反対すれば「あなたは絶対悪である政府の味方をするのか」と反発します。

 

ところが、「政府に反対する」という立場は、自分の中に基軸がなく、「政府の基軸に反対する」ということによって成り立っているため、実はとても政府に依存しているものです。「自分の中に基軸がない」ということは、言い換えれば「自分自身は何者でもない」ということです。ですから、原則的に日本の市民主義者を相手にする必要はありません。

 

 

――日本の市民主義に類似したものは、海外にもありますか。

 

アメリカのペンシルバニア州は、ウィリアム・ペンというクェーカー教徒が作った州です。クェーカー教徒は絶対平和主義者なので、公務員にはなりません。公務員になると、警官や法務省の職員になって、人を殺傷する可能性があるからです。これは日本の市民主義者よりも一貫していますね。「政府が嫌い」ではなく「政府に関与しない」という考え方です。

 

しかしクェーカー教徒は税金を払いますので、それによって間接的に警察庁や国防総省を賄っています。もし絶対平和主義を究めようとすれば、アメリカ合衆国から独立して、クェーカー教徒だけの国を新たに建てなければなりません。ただ、もしクェーカー教徒だけの国を作るのならば、クェーカー教徒は警察と軍隊も自分たちで作らなければなりません。実際に、かつてアメリカ独立戦争の際、イギリス軍に攻め入られたペンシルバニア州のクェーカー教徒が大砲を持ち出して迎え撃ったこともあります。

 

ペンシルバニア州のあるアメリカ合衆国は、元々市民が各々銃をとって独立して建てた国です。そして、今なお国民は銃を持っています。銃が2億丁はあるような国ですので、乱射事件がときどき起こります。それでもアメリカ人は銃を手放しません。アメリカ合衆国憲法修正2条の根幹には「アメリカの市民は民主的でなくてはならず、独裁国家の樹立を許してはならない」という確固たる信念があります。

 

つまり、市民が各々銃を持っている社会で誰かが独裁国家を作ろうとすると、必ず銃撃戦が起こります。これが抑止力となって、独裁国家ができる確率が非常に低くなります。独裁国家ができると、戦争や国民への抑圧など不幸なことがたくさん起こって、大勢の人が亡くなります。独裁国家の樹立を防ぐために、アメリカ人は悲惨ではありながら偶発的でもある乱射事件を耐えています。

 

一方で、クェーカー教徒の絶対平和主義から出てくる「政府そのものに関与しない」という考え方を徹底しようとするなら、アナーキスト(無政府主義者)になるしかありません。アナーキストは「一切の政府を認めない」という立場です。彼らは政府の存在を認めないので、税金を納めません。その代わり、強盗に入られても警察を呼びませんし、急病や怪我があっても救急車を呼びません。

 

こういったアナーキストが社会を作った例はまだありませんが、政府がなくなった例ならばたくさんあります。法律や警察がないために、腕力が強かったり武器を持っていたりする者が、少ない資源を強奪して横行します。武装した集団が住民を蹂躙し、力の弱い者や他人を殺傷したくない者が生きていけないような社会です。これはどんな政府であれ、政府が存在すれば陥らない悲惨な状態です。

 

 

――日本の市民主義者は、そのような無政府状態の悲惨さまでを突き詰めて考えているのでしょうか。

 

考えていないでしょう。日本の市民主義者は税金を納め、健康保険にも加入していますし、強盗が入れば警察を呼び、急病や怪我をすれば救急車も呼ぶでしょう。つまり、日本の市民主義者は政府のサービスに庇護されながら「政府が嫌い」と言っているだけです。何のリスクも負わず、主義の徹底もしませんので、いわば「なんちゃって市民主義者」です。こういう人たちは日本にしかいません。

 

市民主義者であるだけならば何のプラスもありません。また本来、市民主義者であることで社会的に認知されることもないはずです。一方で、多くの日本の市民主義者は、教育程度が高く、人柄も良く、意志も明確に表現できるし、社会参加意欲もあります。そういった性質を持つ人々ですので「もっと社会的に脚光を浴びてもいいはずだ」という承認欲求も強くなります。

 

原発事故の後の福島に市民主義者が集まるのは、福島が彼らの承認欲求を満たす格好の場に見えるからでしょう。福島が彼らにとって「かわいそう」に見えれば、自らの承認欲求を満たすために市民主義者はいくらでも寄ってきます。バナナに寄ってくる小さな羽虫にも似ていて、これを追い払うのは至難の業です。ところが、福島の人たちが自立的かつ楽しそうに生活を送っており、幸せに生きていますという姿を明らかにすると、彼らはあっさりと次の場を探していなくなるでしょう。

 

 

「基準値」は自然科学ではない

 

――福島の住民が自立的かつ楽しく生活を送れるようになるための障壁としては、何が考えられるでしょうか。

 

まず、放射線に関していえば「基準値」という考え方そのものが自然科学ではありません。つまり、放射線は、もともと自然界にあるものですから、「放射線がゼロである」という環境は自然界には存在しません。「アナログかつグラデュアルに幅を持っている『モノ』について、人間が基準値を決める」という考え方そのものが、自然科学ではないのです。このような明確に人為である「基準値」があたかも自然科学のように紛れ込んでいます。「自然」と「人為」とを明確に分けていくことはとても大切なことです。

 

東日本大震災では、自然災害と原子力災害の2つの災害が起こりました。自然災害は非常に悲惨ですが、時間とともに人間の努力によって克服が可能です。日本には自然災害が多く、そのたびに日本人は歴史的にそのように努力をして乗り越えてきました。また、自然災害ではなく人為災害であっても、火事や落盤事故などの災害であれば、発災の時点では甚大な被害でも、やはり時間とともに人間の努力によって復興することができます。

 

ところが、原子力災害の場合はこれらの2つとは異なり、克服までの時間がとても長くかかります。また、万一放射性物質による非常に重篤な汚染があった場合には人間の努力によって克服することが難しくなります。その場合は、まず住民にその土地から避難してもらい、長い間立ち入り禁止にするよりほかに人間ができることがありません。ただ、今回の福島第一原発事故では、幸いにもそこまでの重篤な汚染はありませんでした。

 

自然科学者が述べているデータでは、累積100mSvを超えない放射線被曝での発がん率には、統計的に有意な数字が確認されていません。つまり、東京の私たちのように年間2.1mSvの放射線被曝をして生活している人と、放射線を正しく測って計算した結果、累積の被曝線量が100mSvを超えないとわかった土地で生活している人との間には、統計的に有意な発がん率の差が見られないということです。これを参考にするなら、現在帰還困難区域に指定されている地域でも、既に人の戻れるところは随分あるでしょう。

 

 

――2015年に、避難指示解除の要件を3つとするという閣議決定(注3)があり、「住民の年間積算被曝線量が20mSvを下回ること」、「生活インフラなどの整備」、そして「住民との十分な協議」とされています。

 

(注3)「避難指示解除の要件について」(「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」改訂) (平成27年6月12日原子力災害対策本部決定・閣議決定)

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu/hinanshiji/2017/pdf/0310_01e.pdf

 

そうですか。でも「住民との十分な協議」(合意を目指した協議)というのが要件にあるのはとてもおかしなことですね。この要件があるために福島の復興が妨げられていると言ってもいいでしょう。

 

どういうことか。原子力災害が起こると、「その土地に住み続けたくない」と考える人は必ずいます。このために、元々住んでいた住民の一定数は必ず減ります。それによって地価が下がり、地価が下がると新たな住民が入りやすくなります。新たな住民が入ると、新しいビジネスが起こりやすくなります。新しいビジネスが活発に起これば、その土地は元気になります。これらを踏まえると、元々の住民との十分な協議や合意形成を避難指示解除の要件に入れることは考えものです。これは福島の復興にとって大きな障壁になります。

 

福島で新しいビジネスが起こりやすい理由は他にもあります。「福島」という名前をいまや世界中が知っているということです。通常、世界中に日本の一都道府県の名前を認識してもらうためには、とんでもない多額のお金がかかります。しかし「Fukushima」は、不幸なことに原発事故が起きたことがきっかけで、世界中のメディアがこれを無償で報道してしまいました。既に名前は周知されているので、「Fukushimaのものは安全である」と人々が理解すると、世界中に知名度だけが残ります。

 

国内で固定化してしまったような価格や流通の問題も、海外では国ごとに文化も考え方も異なりますので、チャンスはたくさんあります。たとえば、食品はもともとストライクゾーンの広い分野ですので、福島の生産物に付加価値をつけた食品工業は成功しやすいかもしれません。福島県独自の酵母(うつくしま夢酵母など)を使った日本酒のほか、味噌など日本の発酵食品は、今世界中で人気があります。

 

ほかにも、たとえばサツマイモチップスがアメリカで人気があります。通常のポテトチップスよりも減塩ができるので、健康志向の強いアメリカ人が好んで買います。アメリカではサツマイモをあまり作っていませんので、とても需要があります。福島のサツマイモと独自のレシピを輸出して「Fukushima・サツマイモチップス」と銘打った場合、元々のサツマイモが2~3倍の値段で売れる上、「健康志向のアメリカ人が福島のサツマイモチップスを好んで食べている」ということになるので、イメージも良い。世界的な進出も望めるのではないでしょうか。

 

また、福島の災害を知って「Fukushimaのために何かしたい」と考えている人は今世界中にいます。「Fukushimaでビジネスを起こすために出資してくれたら、Fukushimaの人に笑顔が戻る」ということを周知すれば、世界中から事業資金も集まると思います。

 

また、学校を卒業して東京に行ってしまうような若者が福島の親元から通って、地元企業で一定の所得をもらい、地元の福島で消費をすると、商店も回りはじめます。

 

新しいビジネスを起こすためには、まずは県が自立的に動くべきですが、県は地方自治体であって事業主体ではありませんので、動きにくいかもしれません。そうであれば、補助金を出すのではなく、国が事業主体になってもいいでしょう。ただし、独占体にならないように、地元の企業と協働することが大切です。

 

 

「自分の基軸」を持つということ

 

――とりわけ福島県外において、未だに放射線について不安を持たれる方や、そういった不安を助長するようなマスメディアなどの報道が多くあります。

 

2006年から2017年の間にマサチューセッツ工科大学が行なった調査で(注4)、フェイクニュースは正しいニュースに比べて、インターネット上で70%高い可能性で、かつ6倍速く広がるということがわかりました。このように、フェイクニュースについては、今世界中が問題視しています。フェイクニュースにかかわる現象が目の前で起きていたら、正確に記録をし、ルポルタージュを書くことが後々役に立つと思います。

 

(注4)The sciensce of fake news David M. J. Lazer, et al.

http://science.sciencemag.org/content/359/6380/1094.full

 

ほかにも、聞くところによれば、たとえば福島で行なわれている甲状腺検査プログラムが、医学的に正しいあり方から逸脱したものであっても、当の子どもにはどうしようもないことだそうですね。こういった正しくない医療行為による被害は、今さまざまな医療現場で起こっています。医学的に必ずしも正しくない医療行為がある状況をすぐさま是正することは難しく、ルポルタージュを書いて社会に知らしめる以外に手がありません。そして、福島にかかわることで、そういった誤りを指摘するルポルタージュを書いた場合、必ず市民主義者は反発をします。「何ページの何行目が間違っている」とか「この著者は信用できない」とか「政治的なバックグラウンドがあるんじゃないか」など、何を言ってでも認めようとしないでしょう。

 

東日本大震災の後、自然科学的に正しいことを語ろうとした学者が、市民主義者によって「御用学者」というレッテル貼りをされています。これは、戦前の「非国民」のレッテル貼りとよく似た現象です。今の市民主義者の代わりに当時は皇国主義者という人々がいました。彼らは「私こそが日本国を代表しており、日本国を護るためにがんばっている」と考えており、やはり今の市民主義者と同じように、「自分は善意に基づいて正しいことをしている」と信じていました。

 

 

――実質的には権限を持たない市民主義者の攻撃だけではなく、日本学術会議で提言を出されたり、著名な学者でありながら市民主義者の主催する基金にお名前を連ねられたりなど、実際に社会に影響を及ぼしている方もいらっしゃいます。

 

たぶんそうした人びとは、「自分たちが同質であることを確認したい」という欲求に基づいて行動しています。この欲求があるために、彼らは相手が自分と異質であるということを許容できません。やはりこれも、自分の中に基軸となる根拠がないことに由来しています。

 

他者の基軸となる根拠に接しても危うくならないような根拠が自分の中にあれば、相手の異質さを許容できます。しかし、自分の中に基軸となる根拠がないと「相手が自分と異質であるならば、それは自分が間違っているか相手が間違っているかだ」と考えます。ですから、彼らが「自分が正しい」と信じ続けるためには、絶対に相手が間違っている必要があります。さもないと、自分が崩壊してしまいます。ですから、市民主義者は一方でとてもかわいそうな人々であるとも言えます。ただ、他者に迷惑をかけながら自分を安定させている状態は、彼らにとっても持続的で幸せなものではないのではないでしょうか。いずれ、自己を省みて、自分の中に基軸を見出せるといいのですが。

 

しかし当面は、「福島の人たちが生き生きと生活を楽しんで、新しいビジネスで儲かっている」というハッピーストーリーを実現してしまえば、市民主義者は自然と別の「バナナ」を探して去ってしまうでしょう。ただ、有名な学者が実社会に強い影響力を及ぼす発言をしてきたことについては、なんらかの責任をとってもらわなくてはならないでしょうね。

 

 

福島の「いま」を伝える情報サイト「福島レポート」

無題

 

・人文・社会科学から自然科学、カルチャーまで、各界の気鋭にじっくりインタビュー
・報道等で耳にする気になるテーマをQ&A形式でやさしく解説
・研究者・専門家たちが提案する「こうすれば●●は今よりもっとよくなるはず!」

・人類の英知を伝える「知の巨人」たち
・初学者のための「学びなおしの5冊」

……etc.  

https://synodos.jp/a-synodos

1
 
 
シノドス国際社会動向研究所

vol.246 特集:「自己本位」で考える

・福田充「危機管理学」とはどんな学問か

・山本貴光「「自己本位」という漱石のエンジン」
・寺本剛「高レベル放射性廃棄物と世代間倫理」
・高田里惠子「ちゃんとアメリカの言うことを聞いたら「大学生の教育」はもっとよくなる」
・絵:齋藤直子、文:岸政彦「沼から出てきたスワンプマン」