「不毛なことの意味をかすかに信じる」――彫刻家・今野健太が彫り出す存在

「なくなる」という感覚は、「あった」ことを意識させる

 

 「不安と立像 部分」 

「不安と立像 部分」

 

 

荒井 この作品、足元にもうひとり今野さんがいますよね?

 

今野 ギリシャ彫刻などの大理石の立像だと、彫刻を立たせるために足元に切り株や動物を彫ることがよくあります。というのも、石像って二本足で立たせることができないって言われているんですよ。特に日本の場合は地震があるので。

 

でも、ぼくはこの作品を二本足で立たせたかった。いろんなところに相談した結果、足に鉄の棒をいれることにしました。これでもう倒れることはないってわかっていたんですけど、やっぱりなんとなく不安だったので足元に塊を残しておいて制作を続けていました。

 

完成に近づいていくうちに、ただ二本足で立っているだけでは、作品としての強度がないことに気付きました。それで、足元に残してあった塊を使って、もうひとりの自分を彫ってみたんです。小さいぼくは、大きいぼくに手をかけていないと立っていられません。そして大きなぼくも、小さいぼくがいないと立っていられない。お互いが不安の象徴であり、そして寄り添うことで立像になっているという「入れ子」関係の作品ができました。

 

荒井 これは2005年の制作ですね。最近の作品とは雰囲気がずいぶんちがいますね。

 

今野 そうですね。ずっと「人は自分をみることができない」というテーマで彫り続けてきたんです。自刻像を制作した後も、「入れ子」の構成を使って、しばらくは一人のモデルを「分離した人物群像」として作っていました。

 

 

 「はっきりとした迷い」 2007年 ライムストーン、大理石、鉄、木 1350×900×1150

「はっきりとした迷い」 2007年 ライムストーン、大理石、鉄、木 1350×900×1150

 

 

一人の人物を構成する要素が、お互いに関係性を持ちつつも、完全に分離していて「ひとつになれない」みたいなのを表現したかったんです。

 

荒井 「分離していて、ひとつになれない」って面白いですね。

 

今野 でも、それは全部自分なんです。そこから、2010年につくった「揮発する肖像 No.2」のように、自分がみえないところに何人もの自分がいて、連鎖しているイメージへと変化していきました。「分離」するよりもずっと遠い感覚というのかな、「自分にもみえない自分の部分」に移動して行ったような感覚です。「分離」を突きつめていったら、結果的に「密接」にたどり着いたんです。

 

 

「揮発する肖像 No.2」 2010年 大理石、アルミニウム 370×180×180

「揮発する肖像 No.2」 2010年 大理石、アルミニウム 370×180×180

 

 

荒井 今野さんの作品を時系列的に追うと、もともとは写実的な人物像からはじまって、独特な身体のフォルムを直感的に強調した像になり、「自分が分離していてひとつになれないような不安」へと深まってきた。それが最近では、複数の人間が融合していて、人間と人間の境界があいまいになっていたり、個人の自立性のようなものがあやふやになっている作品が多いですね。

 

 

 「あいとなるものもの」 2014年 大理石 1300×800×580

「あいとなるものもの」 2014年 大理石 1300×800×580

 

 

さっき制作中の作品に触らせてもらって実感したんですけど、石って、とにかく半端じゃなく重くて硬いんですね。こんなに「存在感」や「手ごたえ」がはっきりしたものって、「あいまいさ」や「あやふやさ」を表現しにくいと思うんですけど、なぜそういったテーマの作品を作り始めたのでしょうか?

 

今野 どうしてなんだろう……自然と、そうなっていったんですよね……。震災直後から制作を始めたミケランジェロの「フィレンツェのピエタ」をモチーフにした未発表の作品があるんですけど……。

 

 

 「られる人」 2011年-制作途中 大理石 

「られる人」 2011年-制作途中 大理石

 

 

荒井 これ、すごいなあ……。

 

今野 自刻像以降、ずっと自分の身体をテーマにした作品を作っていました。でも、あるとき限界……ではないな……満足できなくなってきたんです。そこで身近な男性をモデルに彫ってみたけど、それもやっぱりなにかが違う。それで、ずっと彫ることに抵抗があった異性を……いや、なんだろう、もっと大きな、男女がいるというか……「自分」ではなくて「人間」を作るって方向にシフトしてきたんですよね。

 

なんだろう、「ポジティブなエネルギー」のようなものを作りたかったんですよね。それまでは「自分」というモチーフを通して、「存在への不安」というものをテーマにしていたんです。ものが「ある」ことに対する心許なさというものを、「自分」と「石」という媒体を通して考えるというか……。

 

やっぱり、東日本大震災がひとつの転換点だったような気がします。あの震災では、さまざまなものが「なくなってしまう」という場面を嫌というほどみさせられました。でも「なくなってしまう」という感覚は、ぼくにとっては逆に「あった」ということを強く感じさせられて。その「あった」という感覚に対する思いから、「ある」という肯定的なエネルギーをなんとか形に出来ないかと。

 

 

断絶した個が接し合って起こる摩擦熱

 

荒井 「存在への不安」から「“ある”という肯定的なエネルギー」へ興味が移っていくことって、何かわかるような気がします。今野さんの意図とはちがうかもしれませんが、ぼくなりの経験というか、「自分文脈」のなかにも同じような感覚があります。

 

「自分が生まれてきたこと」や「いま自分が生きていること」って、自分の力ではどうにもならない、いろんな偶然が重なった結果だと思うんですよね。それは別に「両親二人が出会って自分が生まれた」っていうだけじゃなくて、もっともっと広くて大きな話です。

 

ぼくらの世代だと、祖父母が戦争を生き延びられたっていう社会的な要因もあるし、それよりさかのぼって、先祖たちが生命をつなぐ前に戦災や病気や災害で死ななかったこととか、それこそ精子と卵子の受精確率がどうこうといった生物学的な要因まで含めて考えたら、たぶん天文学的な確率ですよね。

 

そんな無限に散らばるピースのうち、どれか一つでも欠けてたり、入れ替わってたら、少なくとも「いまの、この自分」は存在していないわけで……、じゃあ、そう考えると「いまの、この自分が存在していること」って、ものすごい「たまたま」なんじゃないかと。それが怖くて不安で仕方がなかった時期がぼくにもあったんですよね。だから、文学の道に入っちゃったのかもしれないんですけどね。

 

天文学的な確率で「たまたま」存在していることを、はかなくて頼りないこととしてネガティブに捉えるか、神秘的でありがたいこととしてポジティブに捉えるかって、同じことの両面のような気がするんです。ぼくの場合は、震災直後に子どもが生まれたことがきっかけで、いまはどちらかというとポジティブな側面をつよく感じていますが……。

 

今野 ぼくたちが「たまたま」存在しているということに対する、そういった細やかな感覚というのは、ネガ・ポジどちらの側面にも深く共感することができるからですよね。

 

ぼくの場合、もともとはネガティブな方向性に作品が進んでいたんですが、震災を機にその方向性で考えることができなくなってしまったんです。あまりの出来事に、これまでの方向性が振り切れてしまったというか……。

 

ん、なんでしたっけ? ……境界線の話でしたね。

 

荒井 そういえば、そうでした(笑)。

 

今野 「自分」をテーマにした作品制作のなかで、対象に近付こうとして、まるで顕微鏡をのぞくみたいにどんどん世界が小さくなっていっていくことに、ずっと閉塞感は覚えていたんですよ。いよいよ駄目だと思っていたとき、ちょうど新しいアトリエを作っていたら震災が発生しました。

 

「自分」をテーマにしていくなかで、ぼくはアプローチの仕方を勘違いしていたのかもしれません。大学院生のとき、自分の裸を一人で撮影して、現像して、その資料を大学の一番人のいない奥の作業場でこそこそみながら自刻像を制作していたんですね。で、大学を出たあとは、できるだけノイズを排除して、とにかく自分の制作だけに集中できる環境を目指してきました。アトリエを何度も移転して、周囲に民家も人もいないという、制作をする上では理想的ないまの環境に行き着いたんです。

 

でも、確かに制作には集中できる様にはなったけど、「これでいいのか」「何か違うんじゃないか」と、一人でずっと考えていたんです。

 

3月11日は、アトリエのある地域も大きな揺れがあったんですが、普段から夕方の冬山は風が強いので、木々が揺れているのには慣れてしまっていて、鉄パイプの大枠があるだけで屋根も壁もないアトリエには人工物が周りに車とプレハブしかなくて、ただ車だけが不穏に揺れるのをしばらく見続けていました。

 

その後、同じ生活圏で、市街や都市部にいた身近な知人や家族に聞いた話と自身の体験の間に大きなギャップがあったことを知りました。感覚を研ぎ澄まそうとして得た環境のはずが、自分の周りにあるものの多くを排除してしまっていたことで、身近であったはずの震災を感じることができなかったということに大きなショックを受けました。

 

それがきっかけというか、「ひとつじゃないもの」というか……「ひとつのもの」を構成する「周囲のものたち」との関係性みたいなものというか……、言葉にするとすごく月並みになってしまいそうだけど、そういう言葉たちに分類する前の、もっと混沌とした、断絶した個と個が接し合うことで起きる摩擦熱のようなイメージですかね。そういった、ひとつの「存在」を支える「存在」みたいなものを表現したくなったんです。

 

 

 

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