山形浩生は何を語ってきたか

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大文字の固有名詞で語る時代は終わった

 

荻上 最近は、SFの分野などでも、量産されている作品群の中で良質なものを読みなおそう、発掘していこうという動きが続いています。どの分野でも、読むべき本の再紹介みたいなまとめは、「○○がすごい」系のムックから2ちゃんのまとめに至るまで、あれこれ出ていますから。

 

一方で「衰退」したなと思うのは、「固有名詞」の力ですね。山形さんが翻訳する文章は、固有名詞をあまり重要視しないというか、この人が偉いんだぞという形じゃなくて、この人がいってることが面白いという、あくまで手法を紹介するスタイルをとっているように思います。そのうえで、おかしいなと思った点は、訳者解説でツッコミをいれてしまう。

 

芹沢一也はかつてのあり方を、「オレの父ちゃん強いんだぞ競争」と呼んでいました(笑)。誰の翻訳者であるのか、どんな大文字の哲学者を「召喚」できるのかという、イタコ芸のような、あるいはカードゲームのような文法がありました。「オレのターン、カント!」「こざかしい、デリダ!」みたいな。最近はそうした文法も見なくなってきた。非常にいいことだと思います。

 

山形 カントが偉かった時代は2世紀ぐらい続いたんでしょうけど、今、特に発展が著しい分野では、注目すべき学者の入れ替わりも早く、新しいものを追っかけたほうがいい。経済学の場合は、クルーグマンやコーエンなど新しいプレイヤーが次々と出てきて、ちゃんと各分野が競争・発展するようになっている。その一方で、「やっぱりもう一回ケインズ読まなきゃ」とはっと気づいたりするのは面白いところではありますが。

 

進化生物学や脳科学の分野は、通俗本でも面白い書き手がたくさん出てきていて、その人たちは一線の科学者でもあるんですね。素粒子物理学やM理論の分野では、昔から科学者がいいライターでもあるというケースが非常に多かった。それこそブルーバックス全盛時代がそうでした。

 

一方で、今、素粒子物理学の世界で「湯川秀樹がかつてこういった」といっても、「それがどうしました」という話になる。ニュートンの本でも、ここは使える、ここは使えないというのは物理学でだいたいもう仕分けされていて、ニュートンそのものを読む必要はなくなってきている。あえて今プリンキピアとかケプラーの話を読むとか、くだらなくて面白いんですけどね。哲学や宗教学でも、二千年経ってもキリストが何をいったという話にはなるし、経済学でもアダムスミスやマルクス、ケインズを振り返ることはもちろんある。でも、だいたいは、使えないから読まれないんですよ。無理して読まなくていい。

 

ぼくはかつてニューアカデミズムの悪口をいっていましたけれども、何とか先生がこういっている云々じゃなくて、もうちょっと気楽に、そこから自分につながる道を考えてみようよということをいっていたわけですね。そこをおそらく、みんなにありがたがってもらったんじゃないでしょうか。

 

もちろんそのあとも、デリダがどうしたとか、新しい偉人探しも出てますが、そのご威光というか影響力が続く期間も、昔ほどではない。それは哲学者の役割が昔とは違ってきているせいなのかもしれないし、かつて哲学が担っていた領域を、他のところにもっていかれたせいなのかもしれない。ただ、いろんな考えに対して、じゃあそれは、自分あるいは今いるこの世界にどう関係があるんですか、ということをいえるようになったのは、ぼくの悪口がもたらした良い副作用だと思います。

 

 

逃げ道となる分野をもつ

 

荻上 個別のテーマでしっかりとした処方箋を提示しよう。この動きには長所短所あって、大文字の固有名がない裏返しとして、共通の話題というのが分野間でなくなって、言論の推進力を確保するのに一手間かかるようになっているような気もします。

 

山形 専門家と論争していてよくあるのが、内容へのレスではなく、「何いってんだコノヤロー、ふざけんじゃねー」という態度を返されることです。ある一つの領域にいると、そこから逃げられなくなるので、ここが違う、変な方向にいっているぞといわれたときに、「はいそうですか」といえない立場に自分を追い込んでしまうようなところがあって。

 

荻上 「この陣地ではオレ無敵」と振る舞ってしまうと。

 

山形 そうですね。自分が今までやってきたことを否定されるような感じになってしまうので。だからそれを避けるために一つおすすめしたいのが、マイナーな分野を一つもっておくこと。メジャーなほうでいじめられてこれはつらいと思ったら、少しマイナーなほうに逃げてみて、しばらく時間をおいてみるといい。

 

ぼく自身も、昔、田中克彦の『チョムスキー』を読んで「これはすごい」と真に受けていたら、あんなのあり得ないよと言語学の人にさんざんいわれて、そのときは反論したりしたんですけれども、しばらく他のことを見て戻ってきてみると、ああ確かにあいつらのいう通りだったと思ったりした。

 

経済関係で途上国援助の話をするときも、以前は「もっと市場にがんがん任せりゃいいんだよ」みたいな話が主流で、ぼくもそう思っていた時期があった。でも、しばらく日本や途上国の状況を見てみると、「市場だけではつらいかも」と客観的にわかるようになり、自分の不十分さが見えてくる。

 

ぼくの批判の仕方は、いきなり正面から木刀で殴りつけるような真似をするからダメだというふうによくいわれます。確かに、「こういうのがあるんじゃないですか」ともう少し優しく指摘して、「ああそういえば」と相手が自分で気がついたようなふりをできる余裕を与えてあげると、もっと円満に話が進むんですけどね。でもそれだと、読んでいる人が面白くないと思うので、木刀で殴ってしまう(笑)。

 

まったく違う興味でやってきたことがいつか重なるという経験はかなりあります。たとえば、ぼくがLinuxの本を訳したのは、単にパソコンおたくでUNIXをただで使えるなんてすごいじゃんと思っていたからなんですが、一方でそれとはまったく違う興味で経済をやっていたら、いつの間にか2つが融合して「インターネットの経済学」というテーマが生まれていた。あるいは、レヴィ・ストロースがいっていることと同じようなことが、別の分野でもいわれていることにある日気がつく。

 

違う方面から攻めているものと交わったときに、もう一段普遍性のあるネタだとわかるような場面は多々あります。他の分野に目配りしておくと、生産的に話を広げやすくするための一つの糸口にもなると思いますね。他の分野から学ぶこともあるし、関心領域も広がるからメインの活動にも役立つし、精神的にもいい(笑)。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.268 

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