山形浩生は何を語ってきたか

▶シノドスの電子メールマガジン「αシノドス」

https://synodos.jp/a-synodos

▶真の教養を身に着ける「シノドス・サークル」

https://synodos.jp/article/20937

貧乏人に耳を傾ける

 

荻上 開発支援の話は、「市場に100%任せておけ」という話も批判される一方で、ウィリアム・イースタリーが批判するように、「ビッグプラン」を思い描いてODAをじゃぶじゃぶやっても、現地でニーズの全くない箱モノばかりに消費されては意味がない、そんな市場ニーズ無視な「傲慢な援助」じゃだめだというような批判的検証も重要です。「設計主義100% vs市場主義100%」という構図そのものが、現実的な支援の場では通用しない。

 

山形さんは普段は会社員として、途上国開発支援や調査にかかわり、途上国の市場をいかにブーストしていくのかというのをリアルで体感されていますね。開発経済学の分野は傍から見ていると、「総論」部分はおそらくある程度の段階で止まっていて、個別の方法論をいかにシェアするかが重要視されている段階とも見られるのですが。

 

山形 実はまさに来月、翻訳したての『貧乏人の経済学: 貧困削減をもういちど根っこから考える』という本を出版します。開発経済学および経済学全般でも次世代のホープと呼ばれている、エスター・デュフロとアビジット・バナジーの共著本で、開発支援がテーマになっています。

 

ジェフリー・サックスのように、どーんと援助して一気に貧困から脱出してやれば、あとは彼らが自力で立ち上がっていきますよと考える人たちと、ウィリアム・イースタリーの批判のように、形だけどーんと援助すると、むしろみんなやる気をなくすからだめだと考える人たちと、両極端の主張がある。しかし、大きな話のなかでいいとか悪いとかいっていても仕方がないから、個別のケースを見て何が効くのかを考えていこうという話を延々としています。

 

たとえば、貧乏な人はお金がないのになかなか貯金をしません。お金が貯まらないから物が買えないので、貧困から脱出できないという悪循環に入る。

 

そこで、援助一発どーん、な考え方の人は、「貧乏人でも簡単に使える銀行口座を補助金でつくったら、みんな貯金するようになるよ」って話をする。それに対して、個別のケースを見る人たちは、「貧乏人には貯蓄できないいろんな理由があるんだから、そんなでっかい口座をつくっても無駄だよ」と反論して、実際にいろんな人の貯金口座を調査するんですね。すると、貯金したいと思っていてもできない様々なケースが浮かび上がってくる。

 

たとえば貯金してお金をためて、それで肥料を買って畑に使ったら、収穫が増えてもっとお金が稼げるはず。だけど、なかなかそれができなのはなぜなのか。肥料が必要になるのは次の作付けのときなので、それまでに宴会があったりして、ちょっとずつお金を使っているうちになくなってしまう。でも彼らはみんな、貯金の必要は知っている。けれど、なんとなくできない。これは先進国に住む我々がダイエットに失敗するのと全く同じ理由で、大きな目標は知っているんだけれども、目先の誘惑には弱いという性質に起因していると。

 

ならば、それに対抗するような貯蓄の方式を考えてあげる必要があることがわかる。ということで、たとえば入金しやすいが引き出し手数料は高くつくというような貯蓄口座を提案するとか、いろんな例を山ほど出してくる。大きな問題として1か0かで議論をしても仕方なくて、結局は、個々の状況を見て、そこで働く細かい人間の心理も汲んだうえで、効果のでる対応をしないとうまくいかない。それを先進国の人たちは「貧乏人を甘やかすんじゃない」とか、「連中は根性がないからできないんだ」と好き放題いいますが、むしろ先進国の我々だって根性なんてないでしょ(笑)。

 

荻上 根性なくてもそこそこ生きていける社会をつくってきたわけですからね。

 

山形 会社に勤めていれば、黙っていても保険料が給料から天引きされる仕組みがある。だから我々はちゃんと保険の備えができているのであって、それらを全部自分でやれとかいわれても、やらないわけ。援助の世界も同じ。ただ、個別の例を見るのは面白いけれども、大きな話ができないというのは、かっこいいことがいいにくくなる分、面倒ではあります。

 

荻上 だからこそついつい「ビッグプラン」を語りたくもなる。いや、実際「大きな話」をすることで、「物語にお金を出す層」に響くという面はあるかもしれない。逆によかれと思って丁寧に透明化して細かく見ていこうという言説を強化すると、援助の額が減ってしまうのかもしれない。個別性ばかり見ているとそうした部分を軽視してしまうような部分もあるので注意が必要だし、共感に訴えていく手法というのもまた必要にはなってくるわけですね。子供たちが何人救えますよとか。

 

大きな倫理性の話と、社会工学的にこれが効く、あれが効くという話、二足のわらじを同時に履き続ける書き手が、これからは各分野で求められてきます。価値論争も、効果測定も、どちらも大事。そのあたりを調節するような論争のプラットフォームがますます必要になってきますね。

 

 

ゲーミフィケーションの可能性

 

山形 特に震災直後、あなたたちの上世代にあたる知識人の振る舞いを見て、やはり空理空論だけの世界ではつらいのかなという感じはしますね。文字通り地面が揺らいでしまって、理念だけでいろんなものにしがみつくには限界がきてしまった。自分なりのフィールドがあればパニック状態でもちゃんとしたことはいえますが、そうでない人たちがみんな一億総懺悔ムードに入ってしまったのは、がっかりしたというのが正直な感想です。

 

荻上 コミュニケーターであり、しっかりとした専門家でもあるというのが今求められているかなと思いますね。山形さんが日本で注目している若手の書き手はいますか。

 

山形 電子マネーを研究している鈴木健さんや、『アーキテクチャの生態系』を書いた濱野智史さんなんかは面白いと思いますね。あとは「PostPet」をつくったメディアアーティストの八谷和彦さんとか。震災の際も、放射線の計測をちゃんと考えようと、youtubeに動画を投稿したりしてましたね。

 

抽象的なものをつくるんじゃなくて、具体的に他人に意味のわかるようなものにまとめあげるということをずっとやってきた人で、震災以降の活動もフットワークが軽くていいですよね。あるものを面白く見せるという手法でいえば、菊池誠さんがやっていたような放射能の測り方講習もよかったと思います。

 

荻上 放射能の測り方は、漫画にもなりましたね。最近「ゲーミフィケーション」という言葉がバズっています。行動経済学などの発想とも近く、遊びの快楽性を導入することにより、「特定の目標を伴う行動」を引き出しやすくしようとするアプローチ。言論活動においても、多くの人に伝えるため、そして多くの人に特定の視点を埋め込むために、ゲーム性に注目したり、ゲーム性そのものを導入したりといった活動を、特に注視されているような印象ですね。

 

山形 そうですね。もちろん、「すべてがゲーム化できるわけじゃないよ」とくさしたい誘惑もありますが、想像以上にいろんなことがゲーム化できてしまっている。たとえば、ゲームでこつこつ学校に通って、彼女に気に入られるポイントを貯めるなんていうくだらない行為でも、みんな喜んでやっていますよね。初音ミクがネギを振るとか、その程度の話であってもいい。

 

思っていることを形にして、そこからフィードバックを得るというのは、いろんなところで進めていくべきだと思います。ゲーミフィケーションの一つのポイントは、それがゲームであるということもさることながら、やってみたらそれに対するリアクションが必ずあって、つまらないことでも最終的な報酬が見えやすくなっているということです。その面白さを上手く使って、いろんなところで具体的な確認をしつつ先に進むというのが理想ですね。そういうのを取り込んでいる活動が、若手のものでも好きだなと。【次ページにつづく】

 

 

1 2 3 4 5
シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

・堅田香緒里「ベーシック・インカムとジェンダー」
・有馬斉「安楽死と尊厳死」

・山本章子「誤解だらけの日米地位協定」
・桜井啓太「こうすれば日本の貧困対策はよくなる――貧困を測定して公表する」
・福原正人「ウォルツァー政治理論の全体像――価値多元論を手がかりとして」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(11)――シンクタンク人生から思うこと」
・杉原里美「掃除で、美しい日本人の心を育てる?」