「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって

――ご指摘の通り、「純粋」で「愛すべきいいやつ」というイメージを、勝手にもっていました。

 

もちろん、障害者に主体性がないわけではありません。そうしたイメージで見られているということがわかっているので、日常的に、ちょっとした「障害者らしくなさ」を “あえて” 示すべく振る舞う人だっています。「風俗とか行っちゃうちょっとスケベなおれ」「ギャンブルにはまっちゃうわたし」「恋愛のことで常にあたまがいっぱいなわたし」などは、ときに「障害者らしさ」に逆張りするかたちであえて呈示された「わたし」だったりすることもあるでしょう。というか、そもそも健常者の「期待」に沿いようのない身体の持ち主だっているはずです。

 

しかし、そうした健常者の「期待」に沿わない障害者たちの姿は、健常者を不安にさせたり落ち着かなくさせたり気まずくさせたりするので、しばしばその「らしくなさ」を非難されたり、無視されたりしてしまいます。社会学者のアーヴィング・ゴッフマンはこんな風に言います。

 

「人びとは、障害者は障害者らしく、無能で弱々しいもの、彼らに劣るものと期待している。肢体不自由の者がこのような期待に背こうものなら、彼らは怪しみ、不安になるのだ」(ゴッフマン 1963=2001: 180)。

 

こうした健常者からのネガティブなリアクションを恐れ、障害者はしばしばこれを先取りするかたちで、無難に「障害者らしく」、みずから振る舞おうとしてしまいます。つまり、「障害者役割」は、一方的に押し付けられるものだという以上に、障害者自身がみずから健常者の「期待」に沿ってふるまい、「あるべき障害者像」を体現してしまうことによって、かえってゆるぎないものになってしまうことがあるのです。

 

 

――「障害者役割」が障害者の振る舞いを制限しているのですね。

 

もちろん、なかには戦略的に、あえて「苦難に挑むわたし」を生きようとする人もいるでしょう。そのように振る舞う自由が、当然かれら障害者にはあります。しかし、かれらが「苦難に挑むわたし」として振る舞うのは、そのように振る舞わなければ主流社会に受け入れてもらえないからなのかもしれないという視点を持たねばならないでしょう。

 

ならばなおのこと、健常者は、そんなかれらの姿に「感動」してしまう自分へのつっこみとともに、うっかりかれらに無理をさせてしまってはいないか、常に気にかける必要があります。健常者と障害者のあいだに「感動する/させる」という回路しか用意されていないのだとすれば、そのこと自体が排除や差別の結果にほかならないのではないでしょうか。

 

 

感動してるヒマがあったら、まずはその障壁を取り除け

 

――「感動ポルノ」の「感動」が隠蔽しているものとはなんでしょうか?

 

ステラ・ヤングさんの同スピーチでは、彼女のキャッチーな表現それ自体もさることながら、以下の部分がより重要なものだと思います。

 

「私たち障害者が乗り越えるのは、皆さんが思っているようなことではありません。身体に関わるものではないのです。私はあえて『障害者』という言葉を使います。なぜなら私は障害の社会モデルを支持しているからです。私たちが住む社会からもたらされる障害は身体や病状よりもひどいという考え方です(…)闘う相手は自分たちの身体や病名ではなく、私たちを特別視し、物として扱う世界です」

 

この一節の含意をうまくすくい取るためには、「障害の社会モデル」と、それが批判する「障害の個人モデル」というもののみかたを理解しておく必要がありますね。

 

「社会モデル」については、日本では、2016年4月に施行された障害者差別解消法に反映されていることによってようやく理解が広まりつつあります。

 

既存の障害観である「個人モデル」は、障害者が困難に直面するのは「その人(の個人の身体能力)に障害(欠損)があるから」であり、それは個人の責任において対処し、克服すべきものだとする考えかたです。

 

一方の「社会モデル」は、個人の身体に問題を見出そうとするのではなくて、社会こそが「障害(障壁)」をつくっており、それを取り除くのは社会の責務である、という考えかたをします。つまり、障害者は「できない」のではなく「できなくさせられている」。これです。

 

社会には多様な身体をもつ人びとがいます。にもかかわらず、社会は特定の身体の存在を無視しています。学校、職場、建物や街のつくり、情報へのアクセス、そして、慣習、制度、文化など、どれをとっても健常者を基準にできあがっている。そんな社会のありかたこそが障害者を不利な状況に追いやっているのです。

 

にもかかわらず、求められてきたのはいつも、障害者「個人」の努力なんです。障害者は、自分の身体を、あらゆる犠牲を払ってでも既存の社会のありかたに「合わせよう」としてきました。それができないと、排除されます。社会モデルは、そのことに対する、率直な異議申し立てでもあるわけです。

 

なのに「感動」は、障害者が、社会のつくりだした不利を「克服」すべく「努力させられている」という側面を隠蔽してしまいます。障害者自身が自分の身体と個人的に「折り合い」をつけ、克服すべきものとして障害を捉える「個人モデル」──別名「個人的悲劇モデル」とも呼ばれます──を、結果的に温存してしまうのです。

 

ステラ・ヤングさんの議論のポイントは、「社会からもたらされる障害は身体や病状よりもひどい」という部分にありました。つまりこれは、「健常者が押し付けている困難を乗り越えようと障害者が努力するさまを観て感動する健常者」というマッチポンプ的なおこないがもつ欺瞞への、徹底した批判です。健常者は、障壁を乗り越えようとする障害者の姿に感動してるヒマがあったら、まずはその障壁を取り除けよ、というはなしではないでしょうか。障害者には、「がんばらなくていい権利」があるはずです。

 

このように、「感動ポルノ」は、「社会モデル」の文脈とセットで、きっちりと批判されるべきです。ここまで述べた意味で、わたし自身も、『24時間テレビ』的な「感動ポルノ」への批判的な立場を、基本的には共有しています。

 

 

――では、障害者のがんばる姿に感動してしまうのはダメなのでしょうか。感動しないぞ! とかたくなになるのも、違和感を感じます。

 

もちろん、「感動」してしまうこと自体をすっかり否定してしまうことはできない、とわたしは考えます。たとえば、パラリンピックで競技する短距離走者たちの義肢(ブレード)のフォルムのかっこよさ、美しさにしびれ、うっとりと眺め、感動してしまうわたしがいます。努力によって目標を達成し、結果、ついに自身の身体のありかたを肯定するその姿に、不覚にも涙してしまうわたしがいます。

 

また、入所施設や、親元を離れ、周囲の支えを得ながらやっと地域での自立生活を実現した重度障害者の誇らしげな顔を見て、うっかり泣いてしまいそうになるわたしがいます。そうした自分を、わたしは否定しきることができません。

 

けれど、そうした「感動する健常者」である自分を振り返って、反省する視点を決して捨て去らないことも大切です。自分自身が「障害者に障壁を押し付けている健常者」なのにもかかわらず、という欺瞞が、その「感動」には常に含まれてしまっていることを、わかったうえで引き受けることができるかどうかだと思います。

 

 

「感動ポルノ批判」と「本音主義」の親和性

 

――前田さんは『バリバラ』の「感動ポルノ」批判をどのように観ましたか?

 

ここまで述べてきましたように、たしかに「感動ポルノ」は批判されてしかるべきものです。しかし、ここでわたしが危惧するのは、「感動ポルノ」批判が含んでしまっている、露悪的な、ある種の「本音主義」のようなものとの親和性です。

 

そうした態度は、ネット上で「建前を排して本音を語る」、あるいは、「タブーに挑戦する」というかたちを取りながらヘイトをばら撒いたり、公の場で「本音」という名の暴言をブチまける人が喝采を浴びるようになってしまうような心情と、ときに親和的であるように思えるんです。

 

小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。

 

近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。

 

「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。

 

「差別の問題でも、いつの頃からなのか、ネット論壇の流れは、差別を指摘する言説より、『他人の差別をあげつらう人間の傲慢さ』や『差別されている側に寄り添ったつもりでいる人間のドヤ顔』を揶揄する」物言いの方が、より高いポイントを稼げるようになっています(p139)。

 

たしかに、「文科省推薦!」的な正しさへの懐疑や、「学級委員長」的な言説へのシニシズムそれ自体は、ある程度健全なものなのかもしれません。しかし、バリバラの「感動ポルノ」批判が、「感動」の逆張りに終始するものとして解釈され、「良識」や「偽善」を嗤って「本音」の側につくという共犯意識をつくりだすことに成功しただけなのだとすれば、あるいは、「本音」の共有によって、障害者への負の感情が共通の足場を獲得していってしまうのだとすれば、やはりそれをそのまま素直に肯定することはできません。

 

ですから、「感動ポルノ」はあくまでも、「障害者役割」をいっそう強固にするものであるという意味において、また、「障害の社会モデル」という文脈において、批判されるべきだと考えます。

 

『バリバラ』は、マスメディアが障害者をどのように扱ってきたかを振り返り、自己批判、自己反省を番組内容に反映させようという努力を、今回の「感動ポルノ」特集回に限った話ではなく、それこそ毎週のように続けてきている番組です。

 

ですから、たしかに24時間テレビの真裏に確信犯的な内容をぶつけてくるということ自体はおもしろいなと思うものの、そこだけを取り上げてみても、彼らをうまく評価はできないだろうと思います。これをきっかけに、今後もっとたくさんの人に観られるようになれば、またはなしは違ってくるのではないでしょうか。

 

(注)「そういう大学生」の1人だった前田は、「じゃあ実際の福祉の現場はどうなってるんだろう」ということで、その後、社会調査/取材をはじめることになる。こうした経緯については、前田拓也・秋谷直矩・朴沙羅・木下衆編『最強の社会調査入門──これから質的調査をはじめる人のために』(ナカニシヤ出版)のなかで詳しく述べた。

 

【参考文献】

木ノ戸昌幸, 2016, 『Swingy days』NPO法人スウィング

北田暁大, 2005, 『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス

アッシュ,アドリアン, 2000「米国の障害学」 倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』エンパワメント研究所、43-58.

ダナファー,ニック, 2000「英国の障害者運動」 倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』エンパワメント研究所、75-89.

Hevey, David, 1992, The Creatures Time Forgot: Photography and Disability Imagery, Routledge.

倉本智明編, 2010, 『手招くフリーク──文化と表現の障害学』生活書院

Grue, Jan, 2016, ‘The problem with inspiration porn: a tentative definition and a provisional critique”, Disability & Society Vol. 31, Iss. 6.

石川准, 1992, 『アイデンティティ・ゲーム──存在証明の社会学』新評論

星加良司, 2011, 「障害者は『完全な市民』になりえるか?」, 松井彰彦・川島聡・長瀬修編『障害を問い直す』東洋経済新報社: 229-257.

ゴッフマン, アーヴィング, 1963=2001, 『スティグマの社会学──烙印を押されたアイデンティティ』せりか書房

小田嶋隆, 2015, 『超・反知性主義入門』日経BP社

ステラ・ヤング: 私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく Subtitles and Transcript

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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