2020.12.23

ヒトはなぜ賢いのか?――『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック(白揚社)

今西康子(訳者)翻訳家

文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉

著者:ジョセフ・ヘンリック (著), 今西康子 (翻訳)
出版社:白揚社

私たちヒトは、この地球上で他に類を見ないとてもユニークな動物だ。その遺伝的進化の最大の駆動力となってきたのは文化である、という考えのもと、なぜヒトはそのような独自の進化の道を歩むことができたのか、それはいったいどの時点からなのかという、いわば人類の起源、人類の誕生の秘密に迫ろうとするのが本書である。

本書の原題は『The Secret of Our Success: How Culture Is Driving Human Evolution, Domesticating Our Species, and Making Us Smarter』。著者ジョセフ・ヘンリックは、ハーバード大学 人類進化生物学教授 兼 ブリティッシュコロンビア大学 心理学部・経済学部教授である。航空宇宙工学と人類学の学士の学位を取得後、航空機メーカーのエンジニアとして2年間勤務。その後1993年からカリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学を学び直し、修士号および博士号を取得した。そうした学際的な経歴と知識をもつ著者らしく、本書では、その20年間にわたる研究の成果と、人類学、考古学、民族誌学、言語学、行動経済学、心理学、進化生物学、遺伝学、神経科学、スポーツ科学など、広範な分野の最新の知見をもとに緻密に理論を展開していく。取り上げる材料は、ヨーロッパ人探検家の苦闘の記録、移動性狩猟採集民の生活、チンパンジーや人間での実験、太古の人類の化石や石器、ヒトゲノム、経済ゲーム等々、多岐にわたる。

本書ではまず、ヒトの体の構造や生理、さらには心理や行動までもが、文化に駆動される長い遺伝的進化の道を歩むなかで形成されてきたもの、すなわち「文化─ 遺伝子共進化」の産物であることを徹底的に検証する。文化を考慮せずにヒトの特性を理解しようとすることは、魚が水中で適応進化してきたことを無視して魚の進化を研究するようなものだという。ここでいう「文化」には、道具、技術、経験則、習慣、規範、動機、価値観、信念など、成長過程で他者から学ぶなどして後天的に獲得される、ありとあらゆるものが含まれる。ヒトという動物がいかに文化的な種であるか、つまり、文化を装備することで生態環境に適応してきた種であるかということをとことん思い知らされる。

文化進化の産物が、ヒトの解剖学的構造や生理機能を変化させていったということは比較的理解しやすい。たとえば、加熱調理のための火や切断用具などを得て、消化機能がアウトソーシングされたことで、歯が小さく、消化管が短くなり、解毒能力が低くなった。あるいは、水容器を得たことで持久狩猟が可能になり、その結果、長距離走に適応した身体が形成されていった、など枚挙にいとまがない。

けれども、ヒトの心理や行動までもが文化によって形成されてきたとはどういうことなのだろう。それを考える際のポイントとなるのが、「長い年月の間に文化として代々受け継がれてきた大量の情報は、一個人が一生かけても考え出すことができないほど優れた知恵に満ちている」という事実である。

ヒトは賢そうに見えるし、たしかに賢い。けれどもそれは、生まれつき個々人の脳に備わっている発明の才や創造力によるのではなく、「祖先代々受け継がれてきた知識や技術や習慣など、膨大な文化遺産の宝庫から、知的アプリケーションをふんだんにダウンロードして利用しているから」なのだと著者は言う。たとえば、十進法、分数、三次元座標、時間区分、左右の概念、基本色名、表記体系、滑車、車輪、てこの原理等々。こうした精巧な知的ツールが脳内にインストールされているおかげで、私たちは生得的能力をはるかに超える能力を発揮することができるのだという。子どもたちはよく、なぜ勉強しなくてはならないの?と問うが、この事実を認識すれば、学ぶことの意味を十分に納得するのではないだろうか。

もちろん、価値ある文化的情報は、こうした知的ツールだけにとどまらない。長い年月の間に、動植物に関する知識なども含め、その地域での生存や繁殖に有利なありとあらゆる情報が蓄積されて、優れた「集団脳」と呼ぶべきものができあがっていく。そうなると、試行錯誤を繰り返しながら自分で工夫するよりも、すでに適応的なスキルや習慣を身につけている他者を模倣する「社会的学習」のほうが圧倒的に有利な状況が生み出される。そのような状況下で、ヒトの模倣行動にますます磨きがかけられるとともに、手本にすべき人物、つまり成功実績や名声のある人物を敬おうとするプレスティージ心理や、それに伴う社会的地位(ステータス)といったものが生まれ、さらに一連の社会規範ができあがっていく。協力行動や、親族関係、集団の調和維持などに関する社会規範を犯した者には悪評などの制裁が加えられ、規範を守る者には報酬が与えられるうちに、ヒトに規範心理が植えつけられていった。そして、集団を利する社会規範をもつ集団のほうが、他集団との競争で有利になるために、ますますこうした傾向に拍車がかかり、人類の「自己家畜化」が進んだのだと著者は説明する。

私たちはつい、自分の頭で考えずに、権威者の意見になびいたり、多数派に同調してしまったりする。うわさ話が好きで、世間の目や評判を気にしてしまう。しきたりや人間関係のしがらみから自由になりたいと思いながら、それに縛られてしまうこともある。けれども、このような性質は、長い進化の歴史のなかで培われてきた、ヒトという動物の特性なのだと認識すると、今までとは少し違った見方ができるような気がする。

そしていよいよ本書の最後で、著者が「始動時の問題」と呼ぶ難問に挑む。

文化がある程度まで蓄積されてくると、高い社会的学習能力をもつ個体が自然選択において有利になり、そうした個体によって、ますます文化が蓄積されていく。著者によると、ヒトでは文化と遺伝子がともに進化してきたのだが、初期の段階では、遺伝子レベルの進化を引き起こすほど文化が蓄積された状況というのはなかなか生まれない。わざわざ習得するほどの文化が十分まわりになければ、脳を大きくしてもコスト倒れに終わってしまい、当然、ヒトの遺伝的進化はなかなか進まない。では、その一番初めの、脳容積の拡大に見合うだけの文化的情報が蓄えられている状態、というのはいかにして生み出されたのだろうか? 人類が、文化に駆動される遺伝的進化の道に踏み出したときに突破したこの一線を、著者は「進化のルビコン川」と呼んでいる。ヒト以外のどんな現生種も越えることができなかったこのルビコン川を、人類はどのようにして渡ったのだろうか? 互いに絡み合う二つ進化プロセスでこれを説明しようとする、著者の仮説が披露される。

私たちは現在、装備している文化の質と量からみても、また、集団脳の規模拡大の鍵とされる人々の結びつき度合いからみても、これまでとはまったく異なるレベルに達しようとしている。私たちはこの先、いったいどこに向かうのだろう。ヒトと文化の緊密な関わり合いの歴史を振り返り、人間の本性を深く掘り下げていく本書は、私たちの未来を考える上で大きな力になってくれるに違いない。

プロフィール

今西康子翻訳家

神奈川県生まれ。訳書に、ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(白揚社)、ジャスティン・シュミット『蟻と蜂に刺されてみた』(白揚社)、カール・ジンマー『ウイルス・プラネット』(飛鳥新社)、エイミィ・ステュワート『ミミズの話』(飛鳥新社)、キャロル・S・ドゥエック『マインドセット』(草思社)、アンドリュー・パーカー『眼の誕生』(共訳、草思社)、エドワード・ホフマン『カバラー心理学』(共訳、人文書院)など。

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