東日本大震災と日本の転機  

まず、今回の震災で被災された方々に、お見舞いを申し上げたい。被災地の方々にあっては、以下の議論など気楽なものに思われるかもしれないが、どうかご容赦を頂きたい。

 

 

真相と流言のあいだのジレンマ

 

現在、マスメディアによる報道、およびインターネットで交換される情報のかなりの割合は、福島第一原発の事故に端を発する放射性物質の影響をめぐるものに占められている。この点に関して、今もっとも読まれるべき書物のひとつが、1937年に出版された清水幾太郎の『流言蜚語』だろう。

 

この本のなかで清水は、情報の不足に加え、一定程度の「材料」が提供されているときに流言蜚語が生ずると述べる。報道によってa・cのみが与えられ、bが抜けているとき、想像で補われるb’、b’’……が生まれるという訳だ。

 

では「真実のb」が報道されさえすれば良いのだろうか。清水は、それほど単純ではないという。結局のところ、何が「事実」なのかを、万人の同意するかたちで定義できる情報というのは、じつは非常に限られたものだからである。

 

社会や政治に関わる事象、また人々が関心をもつ事象の多くでは、ごく一部の内通者や専門家以外には、何が「事実」なのかを判断することができない。しかもその「事実」も、多くの人々にとっては、直接ではなく報道を通して触れられることになり、その発表自体の真偽が疑われる余地をもつことになる。

 

すると、事実の真相の発表は、しばしばそれ自体が新たな流言蜚語の発生源になってしまう。結局の所「本当の報道と流言蜚語とを区別することは出来ない」のである。流言蜚語を情報統制によって禁止しても、それが新たな「情報の不足」をもたらし、流言の源となってしまう。かといって「真相」を次々と明らかにしたところで、新たな流言を生んでしまうことになりかねない……というジレンマがあるのだ。

 

 

ひとたび「信頼性」が失われると

 

多くの人々にとって「事実」が何か分からなくても、通常それほどの混乱が生じないのは、報道がもつ「信頼性」によるものである。プロの記者、その所属先であるマスメディア、それを監督する政府……などといったかたちをとる、一連の「体制」のようなものへの「信頼性」である。

 

この「信頼性」は必ずしも確たる根拠をもたないし、もちようがない。しかしそれがなくなったときにこそ、流言の発生が不可避となる。そしていったん生じたら、流言なのか事実なのかの区別が重要でなくなり、長い時間が経つまで打ち消すことができなくなる。

 

清水によるこうしたジレンマの指摘は、「情報公開が十分ではない」という内外からの批判(それ自体は妥当な批判であるが)に対し、日本政府や関係者がかなりの程度情報をオープンするようになった後も、一向にここでいう「流言」が止まないこと、混乱が収まるどころか拡大するばかりにすらみえる事態を、見事に予言しているようにわたしにはみえる。

 

清水は、その「信頼性」をどうしたら担保できるか、具体的な見通しを語っている訳ではない。それもそのはずで、そんなことに簡単な答えを出せる人間などいるはずがないのだが、筆者が個人的に考えるのは、以下のようなことである。

 

 

 

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