2014年インドネシア政変――ヘビメタ大統領・ジョコウィの誕生と「新しい風」

インドネシアン・ドリーム

 

7月9日、約1億5千万人の有権者が投票日を迎えた。大きな混乱もなく、朝から投票が行われ、即日開票作業が始まった。過去2回の直接大統領選挙でも、世論調査機関による開票速報が随時伝えられ、かなり正確に公式集計結果に近い数字を示してきた。そのため、今回も大勢はすぐに判明し、両者の対決にピリオドが打たれるものと思われていた。

 

その開票速報の多くが、ジョコウィの勝利を示していた。約52%の得票率で、プラボウォの47%に5ポイント差をつけた。地域別で見ても、ジャワ人のジョコウィは、やはり最大票田のジャワ島を中心に票を集め、副大統領候補のカラは、スラウェシ島の盟主だけあり、同島での集票に大きく貢献した。このペアで全国の票を狙うという陣営の作戦は、見事に的中した。メガワティは、目に涙を浮かべながら勝利宣言を行い、ジョコウィ支持者たちもお祭りムードとなった。

 

しかし、プラボウォ陣営は、あっさり負けを認めるほど、まともな勢力ではなかった。開票速報が出て、敗北が決定づけられないように、彼らは詐欺師に近い調査機関を雇って、陣営に都合のよい「開票速報」を発表させた。当然プラボウォ優勢となる。この「お手盛り速報」を根拠に、ジョコウィ陣営の勝利宣言にクレームをつけ、勝負は実際の票集計が終わるまで分からないと訴えた。

 

選挙管理委員会の公式な集計結果発表は7月22日を予定していた。この間に、各地で手作業の集計作業が行われ、全国で40万を超える投票所の開票結果を村、郡、町、市、県、州と集約していき、最後に中央の選管が全国の数字を発表する。ジョコウィ陣営の懸念は、プラボウォ勢力がこのプロセスに介入し、途中で投票用紙や票の改ざんを試みる可能性だった。地方選管の職員を買収か脅迫することで、数字の書き換えが行われ、最悪の場合、勝敗がひっくり返るシナリオが懸念された。実際、4月の議会選では地方選管職員の買収が大きな問題となっていた。

 

とはいえ、5ポイントの差を埋めるのは並大抵の介入ではない。3ポイント入れ変えれば勝敗が逆転するとはいえ、それでも300万以上の票を盗む必要がある。それは不可能に近い。そんな大規模な不正は隠し通せるものではない。当然、有権者も黙ってないであろうから、大きな混乱を招く可能性がある。そうなったら最悪である。それを回避するためにも、集計作業を透明にしないとダメである。どうやったら透明になるか。そう考えたボランティアたちは、今度はITに詳しい青年を中心にフェイスブックで仲間を募った。独自の全国集計システムをネットに構築し、末端の投票所の開票結果を写真でアップし、その集計が村から州まで上がってくるプロセスをすべて透明化させた。もちろんこれは公式な集計ではないが、投票所の開票結果自体は公式なデータなので、それをきちっと集計していく作業は、誰がやろうと問題はない。

 

こうしてボランティアたちは、「選挙を守ろう」というサイトを立ち上げ、誰でも票集計を監視できるシステムを2日間で作り上げてしまった。選管が技術的に難しいと何年も言い続けてきた集計の可視化システムである。このボランティアの活躍で、懸念されていた事態を防ぐことができた。そして選挙結果の正統性を大きく高めることができた。またしても「新しい風」が政治を動かしたのだった。

 

7月22日、選管はジョコウィの正式な勝利を認定した。得票率53.15%。プラボウォは46.85%。開票速報とほぼ同じ結果である。この日、インドネシアの政治に新しい歴史が刻まれた。軍人でも富裕層でもなく、庶民の出の人が初めて大統領に選ばれたという歴史である。一般庶民でも大統領になれる。インドネシアン・ドリームが実現した日である。

 

 

勝利宣言をするジョコウィとカラ(ジョコウィのフェイスブックから)

勝利宣言をするジョコウィとカラ(ジョコウィのフェイスブックから)

 

 

もうひとつの戦い

 

ジョコウィの「プラボウォとの戦い」は、ほぼ決着がついた。プラボウォ陣営は「選管はインチキだ。集計に不正があった。勝者は我々だ」と逆ギレし、選挙結果に対する異議を憲法裁判所に申し立てた。そのため、憲法裁が判決を下すタイムリミットである8月21日まで、選挙結果の最終的な判定は持ち越される可能性がある。しかし、ジョコウィの勝利が憲法裁でひっくり返ることは、ほぼありえない。得票の差が開きすぎている。逆転を正当化するだけの証拠は揃えられない。ただ、悪あがきをしていれば、陣営の政党連合が自分から離れていくのを食い止められる。憲法裁がダメだったら選管を刑事告訴してもいい。同時に、次期国会で特別調査委員会を立ち上げて、選管の不正を追及する。拳を振り上げた以上、徹底抗戦でいく。こういう思惑であろう。

 

しかし、プラボウォ陣営は脆く崩れていくと思われる。まずプラボウォ連合にいるゴルカル党が寝返る可能性が大きい。臨時党大会を開いて、党首のバクリを解任し、新党首の下でジョコウィ政権に協力して、再び与党の旨味にありつこうと考える党幹部は多い。その手引をするのが、副大統領になるユスフ・カラ元ゴルカル党首である。今のところ、ジョコウィ連合は、次期国会での議席保有率が37%に留まっている。しかし、ゴルカル党が寝返れば過半数となる。次期政権の政策を国会で安定的に通過させるためには、ゴルカル党の取り込みが最も現実的な選択となる。国会第一党の党首になるメガワティは、間違いなくその安定を望むであろう。

 

こういう従来の党利党略がはびこる日常政治の駆け引きが、「プラボウォとの戦い」という選挙フィーバーの後に待ち構えている。これがジョコウィの「もうひとつの戦い」の相手である。これまで、プラボウォという「民主主義への脅威」と戦うために、ジョコウィ陣営は結束してきた。そのため、陣営内部の問題に、メディアのスポットライトが当たることは少なかった。ジョコウィに群がる人たちは、これから「勝利の配当」を当然とし、政治的な影響力を駆使して既得権益の増大を図るであろう。それはどういう人たちか。

 

まずメガワティを取り巻く退役軍人たちである。プラボウォとライバル関係にある退役軍人たちが彼女を通じてジョコウィ陣営に入っている。守旧派・反改革で知られる彼らは、ジョコウィ政権の発足で、閣僚や国営企業の監査役など、権力と利権につながるポストを求めている。こういう圧力をはねつけることができるか。

 

また、闘争民主党の議員も、「庶民派ジョコウィ」とは感覚的に程遠い人たちが多い。彼らの大きな関心は、議会選挙で使った大量のお金をどう回収するかであり、任期中にいかに稼ぐかである。10年間の野党生活から抜け出し、これから与党の旨味を堪能しようと考えている人たちは少なくない。ジョコウィ陣営の他の政党も、同じような傾向にある。

 

このような勢力は、プラボウォに象徴される「反民主主義」ではない。むしろ今の「質の悪い民主主義」を謳歌したい人たちである。彼らにとって、ジョコウィはすぐに煙たい存在になる。既得権益にメスを入れる行政改革の数々や、汚職撲滅運動、市民の政治参加など、ジョコウィが重視する政策を、国会の内外で妨害しようとするであろう。彼の後ろ盾になっているメガワティでさえ、ジョコウィの感覚と大きな距離がある。彼女も副大統領になるカラも、エスタブリッシュされた政治エリートであり、その世界の「常識」に沿って、ジョコウィに政権運営を期待するであろう。

 

「利害関係を遠ざけるのです。これが市民に信頼されるリーダーになる秘訣です。私に失うものはありません。政治に負けたらソロに帰るだけです」選挙前、ジョコウィは筆者にそう語った。そして選挙期間中、ジョコウィは極力ボランティアに頼って選挙キャンペーンを進めてきた。この「ボランティアをしたい」と思う市民のハートが彼の唯一の武器であり、今後もそうであろう。既存のエリート政治の力学から自律するためにも、彼は意識的に草の根の政治参加を重視し、市民の声をバックに政権のリーダーシップを発揮しようと試みるはずである。

 

この「ボランティア主義」と「草の根主義」が、これから「新しい風」としてジョコウィを支え、政治に変革をもたらし、民主主義の質的向上につながる可能性がある。「ヘビメタ大統領」の戦いは始まったばかりである。

 

 

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

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