創られた「野生の王国」セレンゲティ――自然保護と地域住民の受難

「野生の王国」が「人間の大地」だったころ―一九五〇年代まで

 

セレンゲティは、今でこそ住民の立ち入りは禁止されて「野生の王国」となっているが、かつて、イコマを含めた近隣民族の人びとはこの地を行きかっていた。彼らは、国立公園ができる以前はどのような関係を近隣民族と築いていたのだろうか。

 

図2は、1950年代のイコマおよびセレンゲティ周辺の民族の分布である。口頭伝承では、イコマと隣接する民族であるナータとンゴレメは「三兄弟」だった。セレンゲティ平原の東側のソンジョ地域に暮らしいていた三兄弟は、季節移動するヌーの群を追いかけて平原を横断し、バングエシ山のイコマの木の下にたどり着いた。イコマとイセニェはそこで子孫を増やし、ンゴレメは農耕に適した土地を求めてさらに北東へ進みイコロンゴ地域に定着した、といわれている。

 

 

図2

 

 

このようにイコマは、民族の始祖伝説からしてセレンゲティ平原を横断している。そして、その後も大きな災害が起こるたびに、セレンゲティを越えて危機を脱してきた。歴史的事実として確認できているのは、一九世紀末におこった、イコマで「足の飢饉」(Hunger of the feet)と呼ばれる大飢饉がある。これは、折からの天候不順による穀物不足とアフリカ全土で大流行したリンダーペスト(家畜および野生動物への伝染病)による家畜の死亡が原因だった。イコマは、食糧を求めて命からがらの思いで南のスクマ地域まで三日かけて一五〇キロメートルも歩いた経験から、この災害を「足の飢饉」と呼ぶようになった。

 

また、エヤシ湖岸のムブル県に住むタトーガは、呪医(omghabu)としてイコマと関係を築いてきた。イコマは、飢饉や疫病の流行といった大きな災害が起こると、タトーガの呪医を招いて雨乞いや治療儀礼を執りおこない、薬を調合してもらっていた。呪医が滞在している間に生まれた子どもにはその名前がつけられることがあり、現在でもキテナナ、ナナイなどタトーガの呪医に由来する名前が残っている。また、イコマは、マチャバと呼ばれる一組の象牙を神として祀るが、このマチャバをイコマに授けたのもタトーガの呪医であると言い伝えられている。このためイコマの人びとは、タトーガを「イコマの父」と呼んでいる。

 

スクマ、ンドロボ、イキズとの間では交易が行われていた。1950年代以前は、イコマの若者の多くはヌーの尾、動物の皮、ダチョウの羽や卵の殻、矢毒などの品々をもってスクマ地域へ交易の旅をした。交易品の中でもヌーの尾は、スクマ地域での需要が大きく、イコマにとっても落し穴猟で多数のヌーを獲ることが可能だったので、主たる交易品となっていた。このような交易関係があったからこそ、「足の飢饉」の際にはスクマに救援を求められたのである。ンドロボはマサイ語を話す狩猟採集民であるが、かれらは時折イコマの集落にやってきて、動物の肉や象牙と交換に穀物を得ていた。また、イコマの人びとは、小規模な不作の年には、スクマよりも近いイキズ地域へ行った。ヤギやヒツジの小家畜、あるいは動物の肉や皮を運んで行って、交換に主食となるキャッサバを得ていた。

 

上述のように他民族と親和的な関係を築いていたイコマであるが、そのなかでかれらが唯一「敵」と呼ぶのがマサイであった。マサイは一九世紀半ばにセレンゲティ平原に拡大してきたと推定されており、それ以来イコマはマサイのレイディング(牛強盗)の対象として襲撃されるようになった。とくに、一九世紀末の災害で多くの家畜を失った時期には、同様に家畜を失ったマサイからのレイディングが激しかったと言われている。

 

こうしてみてくると、現在は保護区の存在によってイコマ地域からの移動は北、北西、西の方向にしか向かうことができないが、かつて保護区ができる以前は、東のソンジョ、南東のダトーガ、南西のスクマとも豊かな民族間関係を築いていたのである。そして、マサイとはレイディングをする・されるという敵対関係ではあるものの、平原を越えて関係があったのである。

 

このようにセレンゲティ平原は、「野生の王国」ではなく、人びとが行きかう「人間の大地」だった。降水量が不安定な自然環境で、干ばつを乗り切るための豊かな民族間ネットワークは、国立公園の設立によって断ち切られていくことになってしまった。

 

 

地域住民の受難

 

イギリス植民地政府が、セレンゲティを国立公園に設定したのは1951年だった。これによって、公園内に生活していたイコマを含む数千人の住民が軍隊によって強制的に移住させられ、150万ヘクタールという日本の四国に相当する広大な面積が、無人の「野生の王国」として創出されたのである。

 

その後は、ワシントン条約によるゾウ保護の国際的な動きや、住民を自然保護に取り込むための観光推進政策が、イコマの人びとの生活に大きな影響をおよぼしてきた。その受難は、大きく以下の三点を挙げることができる。(1)ゾウ保護のための狩猟取締まりの強化、(2)観光が生み出す格差、(3)個体数を回復させてきたゾウによる農作物被害、である。以下では、それらを具体的にみていこう。

 

 

(1)ゾウ保護のための狩猟取締まりの強化

 

イコマの人びとは、狩猟・農耕・牧畜を組み合わせて、降水量の不安定なサバンナ地域に適応した生活を送っていた。狩猟から得られる野生動物肉は、彼らにとって重要なタンパク質源であるとともに、干ばつの年には商品として穀物との交換に使われた。また、狩猟には社会的な意味も大きかった。「狩猟はイコマの男の仕事」とされ、少年時代から弓矢遊びをして狩猟に親しみ、割礼儀礼を終えると本格的に動物を射るようになる。家族のために肉を取ってこられるようになって、初めて「イコマの男」とみなされていた。

 

さらに、現在は保護動物であるゾウは、イコマの人びとも伝統的に守ってきた動物である。「マチャバ」と呼ばれる一対の象牙はイコマの神であり、干ばつが続いたり感染症が流行したりするとマチャバに祈る儀礼をおこなった。ゾウは狩猟の対象にしておらず、やむなく殺した場合には、人間と同じ葬儀をおこなうべきだとされてきた。

 

そんな風に野生動物と共存してきたイコマだが、1980年代にゾウの減少が世界的に報道されるようになると、「自然を破壊する住民」とみなされるようになった。生業としても文化的にも重要だった狩猟は、ゾウを保護するために徹底的に取締まられるようになってしまった。

 

 

29逮捕された密猟者

 

 

象牙目的の密猟が盛んになった時、イコマは象牙買付人に雇われて密猟団の一員になる村人が一部いたものの、積極的には密猟にかかわることはなかった。彼らの主な獲物は、ヌー、シマウマといった季節移動する個体数の多い種で、おかず用に狩っていた。取締りが厳しくなってからは、この日常的な肉のための狩猟を継続するために、公園職員に見つかりにくい猟法(少人数で夜間に行うワイヤー猟)を開発して、「自然保護」に抵抗していった。

 

とは言いつつも、常に逮捕の危険にさらされ、「密猟」「違法行為」として否定的な価値を付与されてしまった狩猟は、イコマの若者の間では「進んでやりたい仕事」ではなくなっている。見つかれば、公園職員から暴行を受けたり発砲されたりして命を落とす例もある。また、逮捕されて裁判になれば、家族は多額の保釈金を支払わなければならず、一家に大きな経済損失を与える。そのため「わずかな肉のために捕まったらばかばかしい。息子には狩猟をやめさせた」という父親も多い。

 

イコマは農耕や牧畜も生業としているものの、自らを「狩猟民」(windaji)と名乗り、狩猟にアイデンティティをおく民族であった。その彼らに、「アフリカゾウの保護」は、狩猟を誇りとして語れなくさせた。一方的に動物資源の利用権を奪われ、民族の誇りを奪われた彼らが、無条件に保護に賛成できないのは当然だろう。

 

 

 

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