「世界史上最大の悪」ホロコーストはなぜ起きたのか

荻上 優生思想の元で、人種だけでなく、同性愛者や障害者などが、迫害の対象になっていました。優生思想に基づいた障害者排除は、日本でも長らくありました。ドイツ国民は当時、「おかしい」と言えない状態だったのでしょうか。

 

石田 「安楽死政策」は極秘裏に始まったのですが、次第に世間に知られるようになり、動揺が広がります。カトリックの司教で有名なガーレンという人がいますけど、彼は自分の説教の中で、この政策を公然と抗議しました。それで、一時的に殺害は止まりました。でも結局は、また復活してしまった。

 

世論がもっと強く反発すれば、止まるという可能性はあったと思います。

 

荻上 それができなかったのは、声を出して抵抗すると狙われる危険があったり、暴力にされされたり、そうした恐怖感があったからなのでしょうか。

 

石田 そうです。ただね、ナチ時代のドイツは、普通の平均的なドイツ人にとって決してそんな不都合な社会じゃないんですよ。普通の平均的な、というのはつまり、キリスト教徒であり、健康な人、ナチにとって危険な思想を持たない穏健な人のことです。9割以上の人がこれに該当しますから、ナチ時代のドイツは大多数のドイツ人にとって生きにくい時代ではなかった。ナチ・ドイツは少数派の犠牲の上に成り立っていた社会なんです。

 

 

優生思想は、どのようにホロコーストにつながったか

 

荻上 さて、この優生思想は、ホロコーストにどのような経緯でつながっていくのでしょうか。やはり、第二次世界大戦の存在が大きかったのですか。

 

石田 大きいと思います。つまり、ドイツの戦争目的は何かということですね。ドイツは第一次世界大戦で負けて、植民地を含めた多くの領土を失いました。ですから国民の世論としては、失った領土を取り戻したいという思いがあったんですね。

 

ヒトラーは領土を取り戻しただけではなく、今までにない新たな領土をも獲得して、これを「生存圏」と呼びました。ここに自分たちの新しい帝国を作るのだと。ヒトラーは政権を握った時からこの計画を構想していて、軍部とも連携しながら準備を進めていました。

 

その具体的な流れとしては、まず、1939年にドイツがポーランドに侵攻します。これが第二次世界大戦の始まりですよね。その1週間前にドイツはソ連との不可侵条約を結んでおり、ポーランドは二国間で分割され、東側はソ連、西側はドイツが占領するんですね。

 

ドイツは西側のポーランドをさらに半分にして、一方をドイツの領土の中に編入するんですよ。新しいドイツの領土が誕生する。ところがここは、直前までポーランド人が住んでいたんですね。それでここを、当時の言葉で「ゲルマン化」します。

 

つまり、ドイツの領土にするわけだから、そこをドイツ文化が横溢する地域にしなければならない。そこで、ポーランド人を対象にドイツ人になれるかどうかの選別をするんです。

 

ポーランドを含め、東ヨーロッパには昔からあちこちにドイツ系の住民がいたんですよ。この人たちは長い歴史のなかでドイツから移り住んで、ドイツ系といってもほとんどドイツ語は忘れています。しかしドイツへの帰属意識が強い人を、ヒトラーはこの時、呼び戻すんです。ドイツの国籍は持っていないんですけどね。彼らを、ポーランドからドイツに編入したところに移住させるんですね。

 

そして、そこにもともと住んでいたポーランド人やユダヤ人については、ドイツが獲得したもう一方の旧ポーランドの領土(総督府領)に追放し、そこにゲットーをつくってユダヤ人を押し込める。ヒトラーは、このような政策を実行していくんです。

 

荻上 周縁に追いやっていくやり方だったんですね。

 

石田 そうです。ところが、ポーランドのユダヤ人は数が多いんですね。それこそ人口の10%以上、200万人以上いるわけです。ナチにとっては「ユダヤなきドイツ」が理想だったので、戦争が始まる前から国内のユダヤ人の追放、強制出国を行っていたのですが、占領地には、さらにたくさんのユダヤ人がいたんです。

 

ナチのイデオロギーとして、ユダヤ人を自分たちの占領下にずっと置いておくわけにはいかない。ですが、追放する先がないという状況になるんです。

 

ドイツがフランスを倒した1940年には、フランスの植民地のマダガスカル島にユダヤ人を追放する計画が浮上します。その準備が進められましたが、実行するためにはイギリスの降伏が必要でした。でもイギリスは降伏しなかったため、この計画は流れてしまいます。

 

するとドイツは次に、独ソ戦に期待するんです。1941年6月にドイツがソ連に侵攻するんですが、ソ連との戦争に勝ったら、広大な領土が手に入ると考えました。そこにユダヤ人を追放すればいいという、非常にあいまいで、楽観的な観測を立てたんですね。ところが、この独ソ戦争が、ナチの思いに反して、袋小路に入ってしまった。その結果、民族移住計画が頓挫してしまったんです。

 

荻上 追い出しながらも場所を決めて住まわせ続ける政策が、機能しなくなったということですね。

 

石田 総督府領のゲットーはどこも食糧が不足し、衛生環境も劣悪。疫病が蔓延するという悲惨な状態でした。

 

しかもその場所は、ドイツがソ連と戦争するうえで軍事的に大事な場所なんです。そこにユダヤ人の塊がいるというのは非常にまずい。「いっそのこと安楽死させた方がいいんじゃないか」と、そういう話が平然と出てくるようになります。

 

そして、1941年の夏から秋にかけて、ユダヤ人に対する処置として考えられたのが、ガス室をつくって「効果的」に虐殺するという方法でした。

 

荻上 政策が徐々に拡大していったのではなく、ある地点で虐殺という方向に踏み切ったと。

 

石田 そうです。移住政策から絶滅政策への転換が起りました。その転換が起きたのが41年の秋から42年の冬にかけてです。42年1月20日に行われた、有名なヴァンゼー会議では、すでに行われた政策転換を、ナチ党と政府・関係省庁のトップが確認し、これからの詳細を検討しました。ホロコーストは、この後、いろいろな形をとって本格化していく。

 

ドイツは戦争末期まで、ホロコーストをやり続けました。なぜ、戦争の役に立たないのに、こんなことをしたのか、という疑問が当然湧いてくるでしょう。ですが、戦争末期になると、戦争に負けても「ホロコーストだけはやり遂げる」と言われていたんです。

 

荻上 こちらの方が題目になっていった。

 

石田 非合理なことでおかしいという人がいますけど、ナチはそう考えていました。それ自体が目的になってしまうんですね。ヒトラーは戦争に負けても、ユダヤ人を絶滅に導いたことが、自分の誇りだと考えていました。

 

荻上 ユダヤ記念館がイスラエルにありますよね。過去のいろんな経緯もそこでは触れられたりしているのでしょうか。

 

石田 そうです。ユダヤ博物館はドイツにもありますよ。ベルリンのユダヤ博物館が特に有名です。イスラエルの記念館と同様、ユダヤ人がコンセプトを作り運営していますが、そこではホロコーストはそんなに大きく扱ってない。

 

今日はホロコーストの話をしてきましたが、ドイツにはユダヤ人とドイツ人、ユダヤ教徒とキリスト教徒の共存の歴史があるんです。ベルリン・ユダヤ博物館はむしろそこにスポットを当てて、過去から未来に生かす知恵を得ようとしています。

 

ドイツ人とユダヤ人の関係を語るとき、ホロコーストを避けることはできませんが、ドイツ人とユダヤ人が互いに学びあい、支え合った歴史を忘れてはいけないというのが、ベルリン・ユダヤ博物館のメッセージなんですね。

 

荻上 共存の歴史を忘れたからこそ、ホロコーストのような残虐な事態に繋がってしまったのですね。だからこそ現在に生きる私たちは、今後こうした歴史により着目していく必要があるのでしょう。石田さん、本日はありがとうございました。

 

 

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