赤旗はなぜ十字架を恐れるのか――中国キリスト教の苦悩

まわりくどい伝言

 

北京で全人代、全国政治協商会議が開催されていた、3月15日のことである。香港の『明報』に、興味深い報道があった。全国政治協商会議委員であり、中国カトリック呼和浩特教区司教でもある孟青録氏が、「昨年すでに中央から、浙江省に十字架破壊の停止指示が出ている」と証言したのである。

 

浙江省では2014年1月頃から、「違法建築」を理由とした教会会堂や十字架の破壊が、地方政府の手で進められていた。この「三改一拆」と呼ばれた運動は、同4月に温州市の三江教会が、1000人を超えるとも言われる武装警察隊と信徒らのにらみ合いの末に破壊されたことで、海外メディアからも注目を集めるにいたる。

 

温州は、近代以降欧州等に多くの移民を送り出した地であり、国外との人的ネットワークが、海外の思潮、特にキリスト教流入を促してきた。「東洋のエルサレム」と呼ばれ、総人口の10数パーセントがクリスチャンであると推定されている。温州は改革開放以降、欧州のファッションモードをたくみに模倣しつつ、アパレル産業を興して急成長を遂げた。21世紀以降は獲得した資本を不動産に投資し、「温州人=地上げ屋」との風聞が全国各地で絶えなかった。

 

経済力を持ったクリスチャンは「老板基督徒(社長クリスチャン)」と呼ばれ、彼らの経済力が地域全体の信仰活動を支えている。温州農村部だけでも、400以上の教会堂が存在する。こうした土地柄が背景となり、温州は、共産党政権による宗教バッシングのターゲットにされやすかった。1958年には温州市平陽県が、「無宗教区」を作る実験地にされたこともある。海外メディアが注目したのは、宗教、特にキリスト教への扱いが、米国が関心を寄せる「人権問題」であるとともに、そうした歴史の記憶も作用したからであろう。

 

上記報道は、そうした海外からの関心に、中国側が間接的に答えたものだと考えられる。問題の敏感性から考えて、委員が個人の判断でリークしたとは、到底考えられない。海外メディアが北京に集まるこの時期をねらって、委員に意を含めた上での発信に違いない。

 

おもしろいのは、発信者の人選である。取り壊しの対象になっているのは、中国南方の浙江省、しかも主にプロテスタント教会である。にもかかわらず、それについて語ったのは、浙江省から遠く離れた内蒙古自治区の委員で、カトリック教会愛国会副主席の孟司教であった。近くにいる者は、かかわらない。それだけこの問題が、対岸から語らないと自らにも延焼しかねない、危険な火事なのだということであろう。

 

 

社会主義改造とキリスト教

 

言うまでもなく、中国共産党が選挙も経ずに統治の合法性を主張できるのは、それが「プロレタリアート階級の前衛」だからであった。彼らによれば、つまるところ西洋自由主義は、ブルジョワ階級による富と権力の独占にほかならず(その根拠として彼らは、西側の選挙には資金が必要で、富裕階層でないと議員になりにくい事実等を指摘する)、真の「民主」はプロレタリアート独裁でしかありえない。そして、「その前提としてプロレタリアートの前衛組織、つまり共産党の統治が必要だ」と主張するのである。

 

こうした国体の論理に、あらかじめ党の存在が必然として組み込まれているわけで、結局これが、中国における「国」と「党」の渾然一体とした関係を生む。また中国共産党は、国体の論理に組み込まれたことで、ある意味、日本国体における天皇と同じ地位を占めることになる。つまり、単なる権力機関なのではなく、価値を創成し権力を正当化する権威としてもふるまうのである。

 

日本では、安倍政権の批判はできても、天皇制を否定することは難しい。米国では、オバマ政権の批判はできても、彼が手をおいて宣誓した『聖書』を否定することは難しい。権力は批判の対象たりうるが、権威への挑戦は、たとえ「民主主義国家」においてであっても、難しいのである。神聖不可侵な権威となった中国共産党も、同様に批判の埒外に超然と存在することになった。

 

また、権威は価値の創生者である。明治日本において、政治制度は伊藤博文の設計になるとしても、『教育勅語』のような道徳的価値は、権威たる天皇が発信者であった。ところが中国では、執政者たる胡錦濤前総書記が自ら「八つの名誉と八つの恥」という道徳訓話を行い、習近平政権も「社会主義核心価値」を発表、これをもって国民を教育せんとつとめている。こうした封建王朝的とも見える現象も、彼らが単なる権力なのではなく、権威でもあるのだという点をふまえれば、不思議ではなくなる。

 

彼らが強調する諸価値は、おおむね「社会主義」と「愛国主義」に収斂する。「資本主義の最終形態は帝国主義である」とのレーニンの立場を継承し、資本主義への戦い(民主革命)と帝国主義への戦い(民族革命)が、弱小民族国家においては両立すると主張する。こうして中国共産党は、「プロレタリアートの前衛」および「中華民族の前衛」となるのである。そして、前者の立場を代表する価値が「社会主義」、後者の立場を代表する価値が「愛国主義」である。日本的文脈からは、あたかも左翼と右翼が混線したかのように見える。

 

通常、自由主義的民主主義においては、政治が価値の客体、社会が価値の主体になる。政治の論理や政策は、自律的社会が持つさまざまな価値により検証、批判される。例えば、原子力発電、脳死の法制化、同性愛婚等をめぐる制度や政策は、絶えず社会の諸宗教や様々、生命倫理、エコロジー思想等の検証を受けている。

 

だが中国では、主体と客体が逆転する。価値の創生者たる党が主体で、社会はそれに雷同する客体になる。検証、批判にさらされるのは社会の側で、社会の構成員に党の「社会主義」「愛国主義」に反するかのような振る舞いがあれば、ただちに「反革命」「漢奸」といったレッテルがはられ、政治的権利が剥奪されてきたのである。

 

それが制度として可視化していったのが、1950年代であった。各レベルの政府(中国には地方公共団体が存在せず、行政機関は末端まで国家の出先機関となる)はもちろん、都市部における居民委員会(日本の自治会に近い組織)や単位(福利厚生をも担う職場)、農村部における人民公社、生産大隊、生産隊に至るまで、党組織が指導し、大衆への「社会主義」「愛国主義」教育を行っていった。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

・川口俊明「全国学力テストの失敗は日本社会の縮図である――専門性軽視が生み出した学力調査の問題点」
・神代健彦「道徳、この教育し難きもの」
・大賀祐樹「懐疑的で楽観的な哲学――プラグマティズム」
・平井和也「世界の知性は新型コロナウイルスをどう見ているのか」
・川名晋史「誰が、なぜ、どこに基地を隠したか」
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