2015.09.08
インドネシア大虐殺はなぜ起こったのか
知られていない大虐殺
昨年、「アクト・オブ・キリング」という、世界各国で様々な賞を受賞した異色のドキュメンタリー映画が日本でも上映され、センセーションを起こした。
それは50年前にインドネシアで起こった共産党関係者の大虐殺の際に、殺害に手を染めた人々が誇らしげにその時の状況を再現して見せるというもので、その設定の奇抜さが評判を呼び、また人を殺すという行為にまつわる心理を描いたものとして関心を集めたのであるが、同時に歴史を振り返る機会も与えてくれた。
映画を見た多くの人が「あんな事件が本当にあったとはまったく知らなかった」と語った。わずか50年前の、しかもインドネシアという比較的近い国において、である。
毎年何十万人もの日本人が訪れているバリ島(バリもれっきとしたインドネシアのひとつの州である)でも起こっていたのだというと人々はもっと驚く。そしてインドネシア史を専門としているこの私は、人々が知らないというそのことに驚きショックを受けた。
この事件はインドネシアの人々であれば皆知っている。何しろ少なくとも50万人、ひょっとすると100万人もの人が殺されたというのであるから、隣近所、親戚、友人、知人をたどっていけば、誰かが殺されているというケースも少なくない。
しかもそれらの人々の多くは警察や軍などの治安部隊に殺されたのではなく、まったくごく普通の市民や村びとたちによって殺されたのである。少なくとも彼らが忽然として姿を消してそのまま戻ってこない、という事実は知られている。
直接殺害に携わっていなくても、彼らを殺害現場に運んだ運転手、穴を掘って埋葬するのを手伝わされた人たちなども含めば「関係者」の数だけでもかなりのものになる。
それだけ大きな事件であったが、この一連の血なまぐさい事件を経て権力を握ったスハルト政権は、歴史を自らの都合のよい方へ書き換え、都合の悪い部分には封印してしまった。その事件を人々がようやく口にすることができるようになったのは、32年間も権威主義的独裁を続けたスハルト政権が1998年に崩壊したのちのことである。
事件のきっかけ
では、なぜそのようなすさまじい事件が起こったのであろうか? 事件の直接の発端は、1965年9月30日から10月1日にかけての深夜、陸軍の7人のトップの将軍たちが大統領親衛隊に自宅で襲われ、そのうち6人が殺害されたというものである。
彼らは革命評議会と名乗り、この将軍たちが国家転覆の陰謀を図っていたので、それを事前に阻止したと発表したが、まもなくスハルト少将率いる部隊によって粉砕された。
そしてスハルトらは、この事件の背後にはインドネシア共産党がいたとして、これ以後大規模な共産党攻撃を開始した。関連施設の襲撃、焼き討ちに始まり、党関係者の逮捕、さらには殺害へとエスカレートしていったのである。
インドネシアの共産党は、合法政党で、公称で300万人の党員を擁し、青年団や婦人団体、労働組内、農民組合など傘下の組織のメンバーは1000万人を超える大勢力だった。1955年の国政選挙で第四位となり、国会議員はもちろんのこと、閣内にも大臣ポストを得ていた。
当時のインドネシアの大統領スカルノは、強烈な民族主義者で、反帝国主義、反新植民地主義を唱えていた。1955年にバンドゥンで29ケ国を集めてアジア・アフリカ会議を開催したことで知られるように、新興諸国、第三世界の盟主として世界的な名声を得ていた。
そのようなイデオロギーゆえに、共産主義とも共闘し、民族主義、宗教、共産主義が三位一体となってそのバランスの上に国家建設を進めるべきだという「ナサコム」体制を提唱し、実践していた。
1960年代中ごろになると、反新植民地主義の立場から、イギリス主導のマレーシア建国に対して粉砕をめざす闘争を挑んでいたスカルノ大統領は、中国など共産圏の国々や、新興独立国の支持を求めいっそう左傾化していった。欧米諸国とは疎遠になり、1965年1月には、最後は国連からも脱退した。
マレーシア問題でインドネシアの標的とされていたイギリスや、ドミノ理論に基づく東南アジアの共産化を恐れ、ヴェトナムにも介入していたアメリカなど西側諸国は、何とかこの勢いを止めなければならないと考えていた。9月30日の事件はそのような矢先に起こったのである。そのためにCIA陰謀説などもささやかれている。
なぜ民間人が加害者になったのか
その事件の真相はいまだにミステリーである。しかし、それにもまして奇妙なのは、それ以降の経緯である。6人の将軍を殺害した行動部隊を粉砕したことで、事件そのものは解決したはずにも関わらず、1965年10月末から1967年頃までの間にインドネシア各地で共産主義者と見なされた人々に対する攻撃が続き、前述のような大虐殺が行われたのである。
軍隊が直接手を下したのではなく、軍隊の支持を受けた民間人がかかわった。それまで同じ町の、同じ村の、あるいは同じ職場や学舎の仲間だった人々を、たとえイデオロギー的に相いれないからと言って実際殺害することなどできるものだろうか? 私はまずこの大きな疑問から、スハルト体制の崩壊とほぼ時を同じくして加害者・被害者双方から聞き取りを始めた。
その中でわかって来た一つのことは、治安当局から、「お前たちが共産党の殺害者名簿に入っていた。あいつらを殺さなければお前たちが殺されるぞ」と言って不安を掻き立てられたということである。
多くの場合まず治安当局がそれぞれの地区の共産党事務所を襲撃し、そこで殺害者名簿が見つかったと公表した。そこにはその地方の名士たちの名が連ねられており、彼らを護るためにその取り巻きの者たちが駆り出されたのである。
それと同時に、共産主義者は神を信じない輩で、不道徳で、性的にも乱れているというイメージ作りがメディアによってなされた。これは周到に用意されていたプロパガンダであったようである。
9・30事件で襲われた6人の将軍たちは、射殺されたのち、あるいは生きたまま身柄を連れ去られのちに殺されたのであるが、その遺体には、目玉をえぐり取られたり、性器を切り刻まれるなど残虐かつ性的な拷問の跡があったと報道された。
ずっと後になってから、その時遺体検証に当たった医師たちは、そのような拷問の事実はなかったことを発表するのであるが、その時はそのような話が、活字や電波に乗って大々的に語られたのである。メディアは、事件発生と同時に一部の御用新聞を除いてすべて発禁にされ、厳しい統制下に置かれていたためそのようなことが可能だったのである。
当時のインドネシア駐在アメリカ大使は本省への報告のなかで、「インドネシア共産党の罪、裏切り、残虐性についての物語を流布する秘密の宣伝活動こそが、今一番必要とされている(インドネシアへの)緊急援助だ」と述べており、自分たちも共産党についてのネガティブな噂を流布させることに協力していたようである。こういったメディアの報道を多くのインドネシア人は鵜呑みにし、共産主義者への憎しみを募らせていったのだった。
こうして、主としてもともと共産主義者に反感を持っていたイスラーム組織のメンバー、あるいは、日本の暴力団にも似た、プレマンと呼ばれる、チンピラ集団が実際の殺戮に手を染めた。その殺し方は、目をえぐったり、耳を刃物で削いだり、体を切り刻んだり、信じられないような苦痛を与えることが多かったという。
いったん治安当局が逮捕した者たちを、拘束先から連れ出して集団殺戮を行うというケースもあった。これらの行為は国軍や警察に黙認されていた、というより奨励されていた。
1965年12月にバリに視察に行った日本の領事は、「軍警は・・・これら国民党系分子の行動に対しては傍観的というより好意的支援を与えているかの観がある」と本省へ報告している。
沈黙していた諸外国
狂気の嵐のように続いたこの虐殺を諸外国はどう見ていたのであろうか?不思議なことに人権侵害として非難声明を出したのは中国政府くらいであって、その他は日本を含む西側諸国もあるいはソ連や東欧諸国も沈黙を保った。
東南アジアで共産主義勢力が拡大することを恐れていた西側諸国は、このままじっと静観していて国内勢力によって共産党が一掃されるのを持っているのが賢明だと考えた。
安全保障問題顧問のロストウは、「われわれの政策は沈黙である」と大統領あてに書いていた。それにとどまらず、当時ジャカルタのアメリカ大使館は、インドネシア共産党一掃作戦をたやすくするために、自分たちが作成していた党員五〇〇〇名の名簿を、インドネシア国軍に提供したとさえ言われる。
中ソ論争で中国とイデオロギー的に対立していたソ連や東欧諸国は、中国共産党寄りのインドネシア共産党を擁護しようとはせず、型通りの非難声明を出しただけで強い態度はとらなかった。
政府はともかくも、諸外国の国内世論もまた共産主義者に味方することはなかった。そもそも欧米諸国のメディアは、自国の諜報機関等によってかなりマインド・コントロールされており、真実を把握することができなかった。
たとえばイギリス政府は、駐インドネシア大使ギルクリストの勧めで、外務省情報調査局の高官で宣伝工作の専門家であった ノーマン・レッダウェイを、9・30事件後ただちに派遣し任務にあたらせたが、その活動の中には諸外国のメディアを反スカルノの方向へ誘導するという情報操作も含まれていた。
その場合情報が政府から出たものではないように装うために、「ザ・タイムス(The Times)」「デーリー・メール(Daily Mail)」などの新聞やBBCを活用した。彼は、朝ジャカルタから出てきた自分たちに好都合の情報を、夕方までにはこれらの大手のメディアの記者に伝え、彼らを通じて各地のメディアに報道させたという。
このように政府もメディアも沈黙を保ち、そのことによって虐殺行為がさらにエスカレートしていったのだとすれば、日本を含む欧米諸国にも大きな責任があるといえるだろう。
「アクト・オブ・キリング」に続いて制作され、現在上映されている、同じくオッペンハイマー監督の「ルック・オブ・サイレンス」は、兄を虐殺された弟が、虐殺に手を貸した人々を訪ね歩き、「なぜあなたは兄を殺したのですか」と問い詰めていく姿を記録したものである。
主人公アディは、「過ちを認めることは恥ずかしいことではない。しかもいつでも遅すぎるということはないのです」と筆者に語った。
沈黙を保ったことにより一翼を担った日本も、その言葉の重みを考えてみる良い機会ではないかと思う。
プロフィール
倉沢愛子
1946年生。東京大学大学院修了、コーネル大学大学院ならびに東京大学にて博士号(ともにインドネシア史)。名古屋大学教授を経て慶應義塾大学教授、その後名誉教授。インドネシア社会史。