フィリピンで日本軍は何をしたのか?

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2つの事件と被害証言

 

荻上 そうした中で「事件」と呼ばれるものもいくつかあったようですね。

 

中野 はい。事件の事例は多数にのぼりますが、具体的にイメージを持っていただくということでひとつあげるならば、まずラ・サール大学の事件がよく知られています。これは今もマニラ都心部のタフト通り沿いにあるカトリック系の大学です。これも頑丈な建物だったので、ドイツ系の修道士やスペイン系の人々、フィリピン人などが避難していました。このまったく無抵抗な人たちが、突然乱入してきた日本兵によって銃剣によって惨殺されたのです。

 

それからもうひとつ挙げるとすれば、ベイビュー・ホテル事件。このホテルは、占領中、日本軍が宿舎としても利用していました。エルミタというマニラ都心部に避難していた市民の中から日本軍が女性を選んで連行し、ベイビュー・ホテルに集めて集団レイプが横行したという事件です。この事件は日本軍の戦時性暴力の最悪の事例のひとつとして記憶されています。この二つの事件は被害証言もしっかり残っています。

 

荻上 被害証言をいくつか聞き、事件の状況を立体的に浮かび上がらせていく作業も必要ですよね。

 

中野 そうですね。被害事実に関しては精度の高い資料が残っているのも、マニラ市街戦の大きな特徴でもあるんです。被害者の中に富裕層、すなわち証言を正確にできる能力のある人たちが多かったということもあります。

 

また、米軍はすでにこのとき、日本軍の戦争犯罪を戦後告発しようとしていたので、マニラ市街戦が始まる前から戦犯調査の準備を始めていました。このため戦争犯罪が起きてから調査までの期間がすごく短かった。生き残った被害者はみんな病院にかつぎこまれたのですが、その病床の脇で宣誓口供書をとっていったのです。ですから、加害者を特定するのは難しい一方で、被害事実については詳細な記憶に基づいた記録が残っているのです。

 

荻上 そうした様々な証言がある中で、今日は中野さんに選んでいただいた資料をいくつかご紹介したいと思います。まずは『マニラの悲劇』という本です。これはどういった資料なんですか?

 

中野 これは先ほどお話した宣誓口供書を集めて収録したもので、日本軍の戦争犯罪を告発する内容ですが、興味深い経緯をたどって日本人の目にふれることになります。1949年に長崎の原爆の悲劇を人々に伝える記録として永井隆の『長崎の鐘』が出版されて戦後初めてのベストセラーになります。この際にGHQが出版の条件として付録として合冊されたのです。

 

荻上 日本側の被害だけでなく、加害も合わせろというわけですね。11章からなるものですが、その中から第2章「ラ・サール学校の虐殺」を抜粋します。

 

「1945年2月12日、月曜日、昼食をすませた直後、砲弾を避けるために我々は皆建物の南側の階段の下に集まっていた。そこへ二十名の兵士を連れた日本軍士官が入ってきて二人の使用人を拉致し去った。五分後、二人は戻されてきたが、どちらもひどく傷ついていた。ついで士官は何か命令を下した。

 

ただちに兵士たちは、われわれに銃剣を向けはじめた。男も女も子供たちも区別がなかった。若干のものは、辛うじて階上に逃げることができた。兵士たちは彼らを追いかけた。若干の人々は礼拝堂の入口で刺された。他のものは同じく堂内で刺された。誰かが士官に抵抗しようとしても、たちまちピストルで討たれるか、白刃を浴びせられるかに過ぎず、その結果、刺突による負傷のほか、若干の人々はさらに重い傷をうけた。

 

子供たちの中には、二才か三才、またはそれ以下の幼児すらも混っていたが、それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに遭ったのである。刺突を終えると、日本軍は屍体を略奪し、階段の下に投げ込み、積み上げた。生きている人々の上に屍体が重なった。即死したものは多くはなかった。少数のものは一、二時間のうちに息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため次第に衰弱していった。

 

兵士たちは出てゆき、やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。午後の間、彼らはしばしばわれわれを監視するために入ってき、犠牲者の苦痛を見て笑ったり嘲ったりした。われわれは、夜にいたるまで、そこにとどまっていた。その間に、負傷者の多くが死んでいった。」出典:『日本の原爆記録2』(日本図書センター、1991年)、121頁。

 

荻上 次に紹介する記録はどういった資料でしょうか?

 

中野 カルメン・ゲレロ・ナクピルというフィリピンきっての女性作家による1967年のコラム記事です。これは戦後時間がたってから書かれた回想になっています。マニラ戦は被害者にとっても大変なトラウマなので、語り始めるまでに時間がかかるわけです。ナクピルさんは最初に語りはじめた被害者の1人として知られています。

 

荻上 最初でも戦後20年以上たっているんですね。では一部抜粋してご紹介しましょう。

 

「私は見た。私に読み書きを教えてくれた叔母の頭がキッチン・ストーブの下に転がっているのを。エルミタ教会の地下の防空壕にたどり着こうとして歩道を私と一緒に這っていた友人の顔面が弾丸で吹き飛ばされるのを。

 

両足を失った従兄が教会の浅い塹壕から這い出してくるのを。医師である私の父の袖をつかみ『助けてくれませんか?多分私は怪我をしています』と言ってふり返った赤ん坊を背負った若い母親の、むき出しになったあばら骨と肺臓を。

 

私は聞いた。一緒に育った友達の少女達が、日本兵たちに引きずられてベイビュー・ホテルに連れて行かれるときの叫び声を。後ろ手を縛られた男達が無表情な日本兵達に機関銃掃射されたときのうめき声を。

 

私は見た。エルミタのバリケードで封鎖された街の地雷や爆弾で、そして日本の狙撃兵の最期のひとりが瓦礫に埋もれた死骸となったあともいつまでも容赦なく続いたアメリカの絨毯砲撃で、あの忘れがたい、言語を絶する大虐殺が行われるのを。」出典:Carmen Guerrero Nakpil, A Question of Identity : Selected Essays (Manila: Vessel Books, 1973), 204-05.中野聡訳。

 

荻上 最後はアメリカの絨毯砲撃で人が亡くなったことも書かれています。日本軍と米軍の加害の歴史を一つのつながりの中で告発しているわけですね。

 

中野 フィリピンではアメリカの絨毯砲撃について語ることがタブー視されていた時代があります。そこには大変複雑な心理的背景があります。

荻上 次に紹介するのは、マニラ戦から1年後、米軍向けの新聞業務をしているアメリカ人の少尉に誘われて食事に出かけたときの思い出ですね。

 

中野 これは2006年の自伝からです。この自伝はマニラ戦で具体的に彼女がどのような経験をしたのか、その酷さも描かれていますが、その一方、戦場の舞台となったエルミタは、戦前、彼女が生まれ育った場所でもあって、自伝でも懐かしく回想しています。

 

戦前のエルミタの、スペイン文化がまだ色濃く残る、植民地的でコスモポリタンな文化に対するフィリピン人のノスタルジアや郷愁、それを全てマニラ戦で失ってしまったという感覚は、とくにマニラの富裕層市民の間で強いものがあります。このような、戦争で何もかも変わってしまったという喪失感をよく表しているのが、これから紹介する自伝の一節です。

 

「私たちは知らない橋をわたり、気がついたときには、もうエルミタに、イサク・ペラル通りのニュー・ヨーロッパと呼ばれるレストランの前に居た……私はジープを下りて、鉄条網の方を凝視し、かつて私たちの家があった場所、マビニ通りとイサク・ペラル通りの角から三軒目の場所を探し出そうとした。

 

『何だい、ただのがらくた置き場じゃないか』と彼は問いかけた。彼に打ち明けるほど親しくなるつもりもなかった私は、かつてエルミタと呼ばれた街を、そして私が生まれた家を探していたのだとは言わずに、レストランに向かって歩き始めた。私は一杯飲まなければとひどく感じていた。」出典:Carmen Guerrero Nakpil, Myself, Elsewhere (San Juan, Metro Manila: Nakpil Publishing, 2006), 190-191. 中野聡訳。

 

荻上 かつての街を知らない者にとっては、「何もない場所じゃないか」と言ってしまうほどの惨状だったわけですね。

 

中野 ちなみに、戦後エルミタは物理的には復興しますが、集団レイプなどの残虐行為が頻発した場所でもあったために、人々が長く住みたいと思う場所ではなくなってしまいました。富裕層は郊外のマカティなどに脱出していきます。そのあと1970年代以降のエルミタはアジア最大の風俗街になっていきます。悪名高い日本人や外国人のセックスツアーの舞台にもなっていく。エルミタがそんな街になってしまったこと自体が、昔のマニラを知るフィリピン人の「心の傷」になっていることを、我々は知っておくべきです。

 

荻上 そうした残酷な記憶が爪跡としてフィリピンに残っていて、それが反日感情にもつながってくるわけですよね。ここからは日本とフィリピンの和解の道筋、これからの関係について伺っていきます。

 

 

日本とフィリピンの和解の道筋

 

荻上 こんな質問が来ています。

 

「フィリピンと日本との関係は、同じように多くの日本軍による虐殺が報告された中国との関係とはかなり違います。これはなぜでしょうか。」

 

中野 戦後初期しばらくは、フィリピンはもっとも対日感情の悪い国、と日本人も思っていました。それがいつのまにか変わって、今では最も親日的な国のひとつと誰もが疑わないように変化してきたのは事実です。

 

和解とは、すぐれて感情の問題ですよね。和解の感情を前向きの感情の変化だと捉えると、それが行ったり来たりするのが人間だと思います。そこで、日比関係のなかで、比較的スムーズに前向きに感情の変化が進んだ条件がどこにあったかを考えたら良いと思います。

 

まず、日本とフィリピンの場合では、加害と被害の関係が白黒はっきりついています。日本としてはフィリピンに対しては謝るしかない、お詫びするしかない、そういう戦争でした。その上、日本軍はフィリピンで壊滅しています。すなわちフィリピンは米軍とともに日本と戦って勝っていますから、名実ともに日本に対する戦勝国であるという自覚を持っています。これも大きいでしょう。

 

その後、戦犯裁判がありました。加害者の特定は困難でなかには冤罪の問題も確かにでてきます。そういう問題を含みながら米軍・フィリピン政府によって戦犯裁判が行われ、多数の戦犯が処刑されたのも事実です。そのうえで1953年にキリノ大統領による戦犯の特赦があります。このようにフィリピンの場合は、勝って、罰して、罰したうえで赦すというプロセスをわりあい順序よく踏むことができたということが指摘できると思います。

 

荻上 フィリピン側にとっては主体性のあるストーリーとして語れるわけですね。

 

中野 はい。そのあと日本とフィリピンは、困難な交渉の末に賠償協定を結んでいきます。日本側としては戦時賠償として最大の額を与えます。この金額が高すぎると野党が批判しますが、当時、自民党の側でフィリピン戦をよく知る議員が、この程度の金額ですんだことに対して「敬意を表すべきだ」と反論しています。そういう意味で戦争を知る日本人の側にはずっとお詫びの気持ちがあるし、許されている感覚があったと言えると思うんです。そういう心理的な関係があったことは大きいと思います。

 

民間同士の関係にも変化がありました。フィリピンが日本人海外最大の戦没地だということもあって、1964年に自由な海外旅行が許可されると、多くの人たちが慰霊のためにフィリピンを訪れるようになります。その結果、フィリピンには日本人戦没者の慰霊碑が400もできて、慰霊碑をたずねるツアーも盛んに行われていきます。

 

この場合、戦争被害があったフィリピンに慰霊に行くわけですから、行く人たちは皆、気をつけます。フィリピンの被害をふまえた上で行動します。1962年に皇太子夫妻として訪れた天皇皇后両陛下もそうだったと思いますし、また今回の訪問でもそうですが、それはフィリピンを訪れる日本人遺族全体もそうだったんです。

 

そういうフィリピンの被害をふまえた日本人のふるまいを前提としてですが、それに対してフィリピン人はとても寛容な態度をとって、暖かく迎えてくれました。日本人から見ると意外なほどに歓迎してくれるわけです。そうすると日本人は感謝します。ここに良い循環が生まれてくる。そうしたことが1970年代、80年代に積み重なっていったことは決して小さなことではないと思います。

 

荻上 いつごろそのような潮目に変わったんでしょうか?

 

中野 政府間で言えば、1970年代前半が目に見える変化がおきた時代です。1973年に比島戦没者の碑、カリラヤの碑ができます。1974年にはルバング島で旧日本軍の小野田寛郎さんが救出される事件もありました。当時のマルコス大統領は英雄として日本に送りかえしてくれました。ルバング島で小野田さんたちは住民に被害を与えていたにも関わらず、そうしたことを問わないで日本に帰らせてくれた。そうした積み重ねが、「日比関係は良くなった」という印象を日本側に与えたと思います。

 

荻上 一方で、今さら解決できない問題も様々あったと思います。そうした問題にはどう取り組んでいったのでしょうか?

 

中野 この和解が上手くいった背景には、戦争を知る世代同士だったということがあります。ところが、それを若い世代に継承する仕組みや教育がない。結果的に、「日本とフィリピンは上手くいっているんだ」という雰囲気だけが伝わっていて、若い世代はフィリピンで過去に何があったのか、知る機会がほとんどありません。その結果、いまでは40代、50代の人間でもフィリピン戦についてほとんど知らないというのが実情だと思います。

 

荻上 たとえば日韓関係のように、慰安婦問題などのもめごとがあればニュースから知ったり学んだりする機会がありますが、和解をしても継承する仕組みがなかったゆえに世代間の分断が進んでしまったのですね。

 

中野 その結果、1990年代くらいになると日本の国民の中からフィリピン戦の記憶がほとんどなくなってしまったように感じます。たしかに、忘却が進むことによって一時的に和解が進むことはありますが、過去を共有した上での和解ではないので、持続性が危ういという問題があります。

 

戦争の記憶は、状況の変化によってすぐに甦ったり、コントロールできない形で暴走したりすることがあります。日中・日韓の関係もそういう面もあると思いますし、1990年代の旧ユーゴスラビア紛争でも過去の記憶が暴力的に甦って、ああいう内戦に到ったという経緯が知られています。そういうことを考えると、過去の記憶を共有した上での和解が必要なのであって、私はそれを「質の高い和解」と呼びたいと思います。

 

荻上 そうすると、忘れてしまったことによる危機もあったのですか?

 

中野 1990年代になるとフィリピン側でマニラ市街戦の忘却に対する抗議の動きが出てきます。中国・韓国と日本がもめているのを横目で見ていますから、「南京事件は世界中の人が知っているのに、マニラ市街戦は誰も知らないじゃないか」と抗議の声を上げる人々がマニラ市街戦の生存者・遺族のなかから出てきたんです。なかでも「メモラーレ・マニラ」という市民団体は20年も抗議活動を続けており、大きな影響を与えてきたと思います。

 

荻上 日本側の対応はどうだったのですか?

 

中野 戦後50年の時(1995年)、マニラ市街戦は日本でまったく報道されませんでした。この時にフィリピンで忘却に対する抗議が始まったと言って良いでしょう。メモラーレ・マニラも結成されますし、記念碑も作られました。

 

では戦後60年のとき(2005年)はどうだったか。依然として日本ではまったく報道がない。フィリピン側では抗議の動きが広がっていきました。それまで日本とフィリピンの友好月間が2月(マニラ戦が起きた月)だったので「これはまずいんじゃないか」ということも言われます。

 

このときは現地の日本大使館がうまく動いて、一種の予防外交を展開しました。当時のフィリピン大使である山崎隆一郎さんがあちこちの式典に出向いて、心からのお詫びをしています。そうするとフィリピン側はこれを評価して受け入れるということで、もうひとつ和解の好循環がその場では進むということがあったのです。

 

ただ山崎さんの謝罪は日本では報道されませんから、日本側ではさらに忘却が進むことになりました。こうしたことにたいして、「これじゃまずいじゃないか」とメモラーレ・マニラなどがやってきた活動がじわじわと影響を与えて、私もその影響を受けたひとりですけれども、日本側でもマニラ市街戦を取り上げる動きが回復してきたのが、ここ5年10年じゃないでしょうか。

 

荻上 今の和解のお話を聞くと、単純に日中・日韓とも比較できない点もあるなと思いました。その上でこれから語っていく点、継続しなければならない点について中野さんはどうお感じになられますか?

 

中野 マニラ市街戦について過去の記憶を掘り返したとしても、それがナショナリズムのぶつかり合いにはならないようないい条件が、日本とフィリピンにはあるように思うんです。共同研究や過去の記録の保存、そしてそれを教育に結びつけていっても、日比関係決して悪くならないはずです。そういう新しい「質の高い和解」をめざしていくべきじゃないかと私は思っています。

 

荻上 そういう共同研究の成功事例となれば、ほかの国との関係にも良い影響を与えるはずですよね。

 

中野 必ず良い影響があると思います。日中関係でできないわけはないと思いますね。

 

 

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