2016.04.06

フィリピンはなぜ米軍を受け入れるのか――安全保障と基地問題を考える

竹田いさみ×中野聡×荻上チキ

国際 #荻上チキ Session-22#米軍#フィリピン#再駐留

フィリピン最高裁が米軍の事実上の再駐留を認める「比米防衛協力強化協定(EDCA)」について合憲判決を下した。フィリピンはどのように米軍を撤退させ、なぜ今、受け入れるのか。アメリカ・フィリピン・日本の3カ国にわたる国家、社会関係史を研究する一橋大学社会学部教授の中野聡氏と、海洋安全保障の専門家、獨協大学外国学部教授の竹田いさみ氏が解説する。TBSラジオ荻上チキSession-22 2016年01月14日放送「米軍がフィリピン再駐留へ。その歴史的背景とは?」より抄録。(構成/大谷佳名)

■ 荻上チキ・Session22とは

TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら → http://www.tbsradio.jp/ss954/

「憲法判断としては無理がある」

荻上 今回はフィリピンの歴史、安全保障を学ぶと共に、沖縄の基地問題、そして安全保障を考える上でのヒントを探っていきたいと思います。

ゲストをご紹介します。まずは、アメリカ・フィリピン・日本の3カ国にわたる国家、社会関係史を研究する、一橋大学社会学部教授の中野聡さんです。

中野 よろしくお願いします。

荻上 そして海洋安全保障がご専門の獨協大学外国学部教授の竹田いさみさんです。

竹田 よろしくお願いします。

荻上 今回の最高裁の合憲判決について、どうお感じになっていますか。

竹田 安全保障の観点から言えば、フィリピン政府および東南アジア諸国にとっては非常にプラスなことになります。なぜならアメリカ軍の存在は東南アジア全体にとって非常に重要なものだからです。今は中国の存在感が大きいので、バランスをとるために米軍に来てもらいたいといずれの国も思っています。

荻上 フィリピン国軍はどれくらいの規模になっているのですか。

竹田 基本的には国内治安部隊ですから、海外派兵して外国の部隊と戦闘することが前提ではないです。ですから海軍も陸軍も非常に規模が小さいです。

荻上 ということは他の国のサポートが必要なわけですね。

中野さんは、今回の最高裁判決についていかがですか。

中野 フィリピン国内の反応を見てみると、例えば保守派上院議員の一人にエンリレという大長老政治家がいますが、彼は今回、「最高裁は勇気のある決断をした」と称えています。

つまり、最高裁の判断は非常に政治的なものであって、「勇気のある」と言っているのは裏を返せば憲法判断としては相当に疑問があるということを、エンリレのような政治家すらも分かっているということです。

フィリピンのメディアの反応を見ていても、憲法判断としては難しいところがあるという点は一致しているけれども、南シナ海の問題などを考えた時にこの判断をどう見るべきかという観点から色々な議論が展開されているというのが僕の印象です。

荻上 最高裁自身、「憲法判断としては無理がある」という自覚がありながらも、政治的判断として合憲と判断した、と読めるわけですか。

中野 そのように私は見ています。フィリピン政治の仕組みを見るにはアメリカを参考にすると分かりやすいでしょう。アメリカと同様にフィリピンでも最高裁は司法として非常に強い権威があります。最高裁の決定は非常に重い意味を持ちます。その一方で、時として国益を含めた政治的な判断を下す存在でもあります。

アメリカでも、2000年の大統領選が大接戦になってフロリダの開票結果が連邦最高裁で争われるところまで行って、結局、共和党系の判事が多数を占める最高裁がブッシュ候補の勝利につながる判断をして、これが非常に政治的だったと批判されたことがあります。フィリピンも似たような所があります。

判決文は新聞で引用されている限りでみると「憲法に定めたところの上院による新たな承認を必要とする案件ではない」と書かれているようです。これは私個人の印象としても少々無理があるように感じられます。(放送後に公開されたフィリピン最高裁判決文の全文PDFは下記のアドレスから入手できます。

http://ja.scribd.com/doc/295614801/Supreme-Court-Decision-on-EDCA

荻上 日本でも似た事例として砂川事件の裁判がありますよね。当時はアメリカが日本の安全保障を満たすために駐留することの是非について間接的に問われました。そして実際に最高裁の判決に対してアメリカの政治的な介入があったのではないかという疑いが、公文書を元に指摘されています。フィリピンでも似たようなことがあるのでしょうか。

中野 介入はおそらくなかったと思いますが、最高裁の判事達がフィリピンの国家安全保障や米比関係の持つ意味をひしひしと感じながら判断を下したことは間違いないと思います。

米軍への歓迎ムード

荻上 最高裁の判決には市民レベルでも報道レベルでも疑問の声が出ているんですね。

中野 1990年代に米軍基地を完全撤退させた時の国内の反基地運動に起源をもつようなナショナリズムは少数派とはいえ今でも健在です。左翼運動家たちが最高裁の前で抗議行動をする模様もちゃんと報道されています。ですから、もちろん反対論はあると思いますし、知り合いの大学知識人も「やれやれ」という反応が多いです。

その一方、先ほど少し話に出ましたが、フィリピン国軍に対する国民の信頼感の低さという問題があります。それが米軍を一部歓迎するような雰囲気につながっているわけです。国軍が頼りない、というのは国内で続く内戦への対応においても言えます。

日本ではあまり知られていませんが、2013年11月にレイテ島を超大型台風(フィリピン名ヨランダ)が襲ったときに、米軍が災害救援にさっと駆けつけるという、東日本大震災と似たようなことがありました。これも「比米防衛協力強化協定(EDCA)」が結ばれるきっかけになりました。米軍がフィリピンの度重なる自然災害の救援にもっと力を貸してくれるだろうという期待がフィリピンにはあるんです。

荻上 日本でも同様に、東日本大震災で米軍がかなり手助けしてくれたことで、米軍あるいは自衛隊に対するイメージが変化したという世論の動きがありましたよね。米軍にとっては人道的見地が大前提としてある一方で、何らかのプランとして考えている側面もあったりするのでしょうか。

竹田 常にあると思います。スマトラ沖の大地震でも、もともとインドネシアとアメリカの関係はあまり良くなかったのに、大津波と地震が発生してすぐに救援に駆けつけました。一つの外交カードとして救援が常にあるんです。

荻上 そこで支持率を確保することで、安全保障に関するアメリカの様々な政治もやりやすくなるわけですね。

さて、フィリピン国内では今回の判決に対して社会の側の反応もさまざまで、それでも司法の解釈としては妥当性の問題が残っている。一方で、政府レベルでは歓迎しているという話がありました。このギャップはどう考えれば良いでしょうか。

竹田 ギャップがあるのは健全でしょう。一体化しようと思うほど全体主義で一方向へ向かってしまうわけですから。多様な意見が存在して常に政府を批判する勢力がいるのは健全な状態ですし、民主主義の国だなと感じます。

フィリピンの方はみなさんおしゃべりが上手で、議論をすることが国民性に染み込んでいるようです。フィリピンの日刊紙を読んでも、ニュースよりもオピニオンの方が多いんですね。そうしたことからも、フィリピンは民主主義で自由な国だと伺い知れます。

荻上 そうした議論が、政府の側としては一つの抑止力となるわけですね。

竹田氏
竹田氏

力の空白を埋めた中国

荻上 1992年にアメリカ軍が完全撤退した後、フィリピンの安全保障上の変化はどういったものだったのでしょうか。

竹田 アメリカ軍の撤退は東南アジア、南シナ海の「力の空白」を意味します。それを埋めたのが中国でした。同じ年に中国は領海法を制定し、「東シナ海から南シナ海まで全部自分のものだ」と宣言しているんです。これが契機となって中国の海洋進出が活発化していきました。人民解放軍の海軍の艦艇を南シナ海で循環させ、制空権も確保していきます。

また、中国南部のベトナムに接する海南島という島で「リゾート開発」という名の実質的な軍事基地化を進めていきます。これで中国は南シナ海に睨みを効かせることができる。米軍がいなくなったことにより、南シナ海と東シナ海を一体化できるようになったわけです。

中野 1992年当時、米軍基地撤去の前後では、こうした地政学的な変化を予想する議論が、アメリカでも十分には行われていなかったと思います。90年代前半は冷戦後のアジア太平洋の安全保障をめぐって新しい構想が作られていった時代で、それが日米安保の再編にもつながっていきます。

1995年のナイ・レポート(「東アジア太平洋戦略」第3次報告書)を読んでも、南シナ海をめぐる米中の軍事的対峙の可能性を考慮した内容にはなっていません。その時点においてはアメリカにとってフィリピンはそれほど地政学的に重要ではなかったのです。そういう意味では今アメリカがフィリピンに強い関心を向けていることは非常に久しぶりだという印象を受けます。

竹田 1992年のアメリカ海軍のレポートでは、「中国の脅威は心配しなくていい。南シナ海に進出することはない」とほぼ断言しています。その当時の中国には外洋進出するほどの力はなかったからです。

荻上 その後、中国が軍事力を強化していく中で、パワーバランスの変化も起きていったわけですよね。リスナーの方からこんな質問が来ています。

「フィリピンでもしも米軍が撤退しなかったら、その後の中国の動きは変わっていたのでしょうか。」

竹田 変わっていたと思います。中国にとって一番の脅威であり、なおかつ一目置いているのはアメリカですから。米軍がそこにいれば、やたらなことはできないでしょう。

逆思いやり予算

荻上 そうした中で今、アメリカ軍がフィリピンに戻ってくる意味とはどういったことなのでしょう。

竹田 やはり、アメリカも東南アジア諸国もフィリピンが地政学的に非常に重要だと認識したからです。米軍が戻ってくることに関しては少なくとも政府レベル、安全保障政策の面から見ると大歓迎です。

シンガポールなどは、フィリピンから米軍が撤退したら代替基地を提供すると言ったくらいですから。みんなアメリカが本格的に戻って来てくれると信じたいわけです。おそらく予算制約がありますし、そこそこのレベルでしか戻れないとは思いますが。

荻上 アメリカも、基本的には各国の軍事力でそれぞれカバーしながらネットワーク的に対応しようという方向にシフトしようとしている。なおかつ予算削減しようとしている状況なので、フィリピンとの関わり方も以前と同じような駐留に戻るわけではないんですね。

竹田 米軍には駐留できるだけの予算はないです。フィリピン政府もそうした予算は提供できません。

荻上 日本には「思いやり予算」がありますが、フィリピンにはそうしたものはないのでしょうか。

竹田 あるのは「思いやり」の気持ちのみです。お金は出せないんですね。ただ、米軍はフィリピンのコーストガード(沿岸警備隊)に対して、中古ではありますが大型の巡視船を低利で売る、という形で武器や治安の装備品の提供を始めています。

中野 フィリピンでは、スービック海軍基地もクラーク空軍基地も施設の老朽化が進んでいます。ですから本格的に南シナ海を睨んでの基地運用を始めるためには、アメリカがもう一度恒久的な施設を整備しなければなりません。

EDCAが定めたのは、米軍が基地的な施設を作って、それをフィリピン側に移管したうえで米軍が使用するという仕組みです。「これは米軍基地ではなくフィリピン国軍の施設なんだ」とした上で、そこを米軍が使用するという形になっているんです。

荻上 なんだか「逆思いやり予算」のような感じですね

中野 1992年に米軍が撤退するまでフィリピンはアメリカから基地使用料にあたる援助を受けています。アメリカにとってフィリピンに基地を置けばコストがかかりますが、沖縄をはじめ日本に基地をおいた場合は逆に「思いやり予算」を措置してもらえるわけです。

荻上 それでは、なんだか日本が損しているような気がしますが……。 

憲法解釈でギリギリ合憲

荻上 ここまで竹田さんには安全保障の観点から語っていただきました。竹田さんとはここでお別れになります。ありがとうございました。

竹田 ありがとうございました。

荻上 ここからは、フィリピンがどうやってアメリカ軍を完全撤退されたのか、その経緯を伺っていきたいと思います。

中野 少し遡りますが、1992年に米軍が撤退する流れを生んだのは1987年の(現行)フィリピン憲法です。その前年の1986年にマルコス独裁体制が打倒されます。それまでの独裁体制を支えていた1973年憲法の反省の上に作られた、たいへん革新的で民主主義的な内容を含む憲法です。

その中の18条25項は「1991年に比米軍事基地協定が失効したのち新たに外国の軍事基地、軍隊、軍事施設をフィリピンにおくことは、上院が批准に同意するか、または議会が必要と認めたときに行う国民投票によって過半数の同意によって批准された条約によらなければ、これを認めない」ということが書かれています。当時すでに1991年には基地協定が失効することが分かっていたので、もしこの縛りがなければ、政府間協定でまた基地協定を更新することもあり得たんです。

荻上 そんなことが閣議決定で決められてしまうかもしれなかったんですね。

中野 それがこの憲法によって無理になり、きちんと条約を結ばなければいけなくなったので、フィリピン政府は世論の納得を得るために、アメリカに対してかなり困難な交渉を行うことになります。そして一旦は交渉が妥結し、基地駐留を含む新しい条約を調印しましたが、フィリピンの上院が批准を拒否したわけです。それで基地協定が失効すると新しい条約もないということで自動的に撤退せざるを得なくなりました。

荻上 なるほど。つまり、基地協定の更新を議会が承認しなかったために、どんなにネゴシエーションしようとも基地駐留は認めない、ということになったんですね。

だけれども、憲法自体は今も変わらないわけですよね。同じ憲法で今回は合憲と判断されたというのはなぜでしょうか。

中野 今回合憲判断が下った背景にあるのは「EDCAが定めているのは外国の基地ではない」ということです。つまり、フィリピン軍の基地を米軍が使用するだけなのだ、といっているわけです。

また、今日の番組では「駐留」という表現を使っていますが、現地の報道では「ローテーション」という言葉が使われています。在韓米軍や在日米軍では同一の部隊が同一の基地にずっと駐屯しているわけですが、フィリピンについては、憲法解釈のギリギリのラインとして、ずっと同じ基地に同じ部隊が駐屯するのではない、これはローテーションしているんだ、という形にしようというわけです。

このようにトリッキーな内容で、事実上、基地駐留の復活に他ならないにも関わらず、フィリピン最高裁は憲法18条25項にはギリギリ觝触しないという判断を下したわけです。どこかの国と似たようなことをしているわけですね。

荻上 日本の「個別的自衛権の範囲だからセーフだけど、集団的自衛権は……」という憲法解釈の議論と対応して、フィリピンではここが論点になっているわけですね。

「反日」経由の「親米」

荻上 戦時中のアメリカと日本との関わり方はどういったものだったのでしょうか。

中野 フィリピンは1898年から1946年までアメリカの植民地でしたが、いずれは共和国として独立する方向でいこうと両国で認め合っていたんです。1935年には10年後の完全独立を予定する自治政府が発足します。そして様々な準備が進んでいる最中に太平洋戦争が始まり、日本は南方作戦を展開していく中でフィリピンを占領していきます。そしてたいへんなことになったわけですが、そのたいへんなことをへて、結局、フィリピン共和国は予定通り1946年の7月4日に独立することになります。

荻上 フィリピンからすると、日本は「アジアの解放」とか言っているけど、もともとあと一年で独立することが決まっていたわけですね。

中野 はい。すでに大統領も副大統領も選挙で選ばれていましたし、女性参政権も日本よりも先に実現していたんです。

さらに話を巻き戻すことになりますが、もともとフィリピンは日本で言うと戦国時代の末期くらいからスペインが植民地化していきます。しかし、1898年にスペインとアメリカの戦争によって、アメリカがフィリピンを獲得します。実はこの時、フィリピンはすでにスペインから独立しかけていたんです。それをアメリカが応援するようなふりをしながら結果的には裏切り、植民地にしていったのです。

これに対して国内の独立革命政府はアメリカに対して抵抗します。あまり知られていませんが、「フィリピン・アメリカ戦争」、「比米戦争」と呼ばれるもので、当時としてはたいへん大きな戦争だったんですね。

荻上 それは何年ごろでしょうか。

中野 一番せまく取ると1899年から1902年と言われています。しかし、イラク戦争が終わったのはいつか、というのと同じで、ずっとゲリラ的な抵抗が続くんですね。このように見ると、フィリピン人はアメリカの一方的な征服に対して勇敢に抵抗して戦ったことがあるわけですから、もう少し反米的になってもおかしくないのですね。

実際、アメリカに対するナショナリズムは今でもありますし、「もともとはアメリカがフィリピンを侵略したんじゃないか」という議論はもちろんあります。しかしその一方、フィリピンが全体としては親米的な国だというのも事実です。

その理由についてはもう少し詳しく説明する必要がありますが、やはり日本人として忘れてはいけないのは、日本軍の占領と戦争がいかにひどかったか、ということだと思います。

荻上 太平洋戦争当時の日本に対してアメリカがカウンターとして機能したということですね。

中野 はい。そもそも独立が決まっていて、ほぼ独立国のような生活を送っていたところに日本軍が侵略してきたので、フィリピンの人々の戦争経験は他の東南アジアの植民地と少し違っていて、ナチスドイツに侵攻されたフランスなどの西欧諸国みたいなイメージがあります。しかも、戦争中の日本の支配は本当にひどいものでした。経済的にも破壊され、どんどん生活が困難になっていきました。

とくに戦争末期には日米決戦の舞台となり、中国大陸からたくさんの日本軍がフィリピンに移動してきます。日中戦争の経験を経た日本軍がフィリピン各地で「ゲリラ掃討」という名のもとに残虐行為を展開していきます。その戦争犯罪は後に戦争犯罪裁判で裁かれていきます。その内容も大変にひどいものでした。そうした経験がフィリピン人の記憶に染み付いているんです。

また、首都マニラは1945年の2月から3月にかけて1ヶ月間の市街戦で灰塵に帰します。これに民間人が巻き込まれてしまい、言われている数字では10万人亡くなったとされています。そのうちのかなりの数が単なる戦争の犠牲者ではなく、日本軍による集団殺害や残虐行為によるものでした(注)。

(注)【SYNODOS】フィリピンで日本軍は何をしたのか?/中野聡×荻上チキ https://synodos.jp/international/16290

そういう歴史があったからこそ、かつてアメリカによって一方的に征服された国ではあるけれども、フィリピンの人々から見ると、第二次世界大戦は自分たちの自由をアメリカ人とともに戦う中で回復したという感覚がいっそう強いところがあるのだと思います。

荻上 その時代を経て、反日経由の親米という流れになっていくわけですね。

中野氏
中野氏

戦後の反米ナショナリズムと基地問題

荻上 戦後フィリピンにおいて米軍の基地の位置付けはどういったものだったのですか。

中野 最初の「暫定基地協定」を結んだのは、なんと太平洋戦争が終わる前の1945年5月でした。その時はまだこれから米軍が日本に攻め込もうとしていたところでしたから、まず対日戦争のための基地が必要でした。また、1946年に予定される独立後まで戦争が続くこともあり得たので、独立後のフィリピンに米軍基地を維持するためにも基地協定が必要だったわけです。

またフィリピンとしても、大戦でこれほどの戦争被害を受けてしまったのはアメリカがしっかり守ってくれなかったからだ、という気持ちもあるんですね。だからこそ、国を守るためには米軍の存在が必要だという現実的な判断もありました。

第二次世界大戦の時は、マッカーサーが「アイシャル・リターン」と言って、日本に奪われたフィリピンをすぐに取り返すと約束していたのに、実際の戦争ではヨーロッパにおける戦いを優先してフィリピンの解放が遅れてしまった。だからこそフィリピン側としては、今度こそ米軍にもっと責任を持ってプレゼンスしてもらいたい、そして自力をつけるまでは守ってもらいたい、という気持ちがあったのも事実です。すなわち出発点ではフィリピン側が望んで米軍基地を維持したという側面があったわけです。

しかし、その構図はその後ずいぶんと変わっていきます。1950年代、60年代になるとアジア冷戦やベトナム戦争との関係でアメリカがフィリピンに基地を維持することが重要になってきます。その一方でフィリピンの中では、いつまでもアメリカに依存したままでいいのか、とアメリカに対して自己主張する意味での「対米ナショナリズム」が育っていきます。

それと相前後して、日本と同様に、米兵による基地周辺での犯罪が頻発していきます。フィリピン側が裁判権を行使できずに米兵がアメリカに帰国するケースが多数にのぼります。ここから基地をめぐる反米ナショナリズムが生まれる大きな流れができていきます。それが1960年代の末ごろ、とくに学生運動の時代に非常に強まっていきました。

荻上 反基地闘争という流れにもなっていくわけですね。

中野 その後に、マルコスの時代がやってきます。彼はフィリピン人に対してはナショナリストとしてふるまい、またアメリカに対してはフィリピンのナショナリズムをうまく手なづけられるのは俺だけだ、というかたちで売り込んでいきます。そのなかで基地問題については「アメリカが置きたいから基地を置いているのだ、そのためにフィリピンは使用料をもらうべきだ」と言い始めます。そうした形で事実上の基地使用料として軍事援助を獲得するようになるのが1970年代末からのことになります。

一方でアメリカ側からみると、ベトナム戦争が終わって、この先どれだけアジアに基地を維持すべきかわからない。また航空機の航続距離が伸びてきたとか、艦船の補修機能も日本の方が優れているとか、色々な要素があってスービックやクラークの基地としての価値も相対的に下がってきます。そこには南シナ海問題を見通せなかったなど地政学的な将来像についてアメリカ側による見誤りもあったかもしれません。いずれにしてもフィリピンの基地はむしろお荷物であり放棄すべきだという議論がアメリカ国内でも出てきます。

そうなるとアメリカ政府はフィリピンに対する基地使用料としての見返り援助を値切りたくなってくるんですね。一方、フィリピン政府の方はますますナショナリズムが強まるなかで、基地使用料を吊り上げたくなります。こうして、お互いの話がつかなくなってくるわけです。

そういう状況が、マルコス政権が崩壊したあと、いっそうはっきりしてきます。フィリピン政府も国内のナショナリズムを無視できないので、困難な交渉をして、できる限りフィリピン側に有利な条件で基地協定を含む条約を結ぼうとします。その一方で、フィリピンのナショナリズムから米軍撤退を求める世論がますます強まっていきます。

それでは、フィリピンの人たちが本当に米軍基地はなくなると思っていたかというと、それは大変疑わしいところがあって、結局アメリカは基地を維持するために手を打ってくるだろうという見方が強かった。そういう状況の中で、1992年6月、ピナツボ火山が大噴火しました。

この時に米軍家族2万人はさっさと逃げてしまいます。噴火の翌月(7月)には、アメリカは膨大な費用がかかる修復の価値がないと見てクラーク空軍基地の放棄を決め、スービック海軍基地のみ使用を継続する条約で日比米両政府が合意します。しかし、灰がマニラにも降り積もるという状況ので、やはりこんなことではいけないという感覚がフィリピン側でも強まったのではないでしょうか。最終的には、1991年9月、フィリピン議会上院の判断として、これ以上ダラダラと植民地的な関係を続けるのは良くない、アメリカとの歴史を一旦清算する必要があるという、そういう意味では「志の高いナショナリズム」が働いて、基地条約の批准が否決され、最終的に基地の撤去に至ったわけです。

このプロセスのなかでは別れ話を巡るいざこざのような側面があったことも事実です。しかしいざ基地がなくなってみると、これまでの反米ナショナリズムの核となる争点が後退していき、その一方である種の歴史的な深みをもった親米感情が戻って来る。そしてもう一度、頼りない国軍を助ける存在としてアメリカが戻ってくるという時には、意外と世論の抵抗が弱かったということが言えるんじゃないでしょうか。

荻上 反米ナショナリズムの受け皿がなくなっていく中で、「ほれ、見たことか!」という言論が育ってきた、ということもあるのかもしれませんね。

そうしたフィリピンと沖縄の基地問題、似ているところと違うところはいかがですか。

中野 鏡だと思うのですが、見ていて元気が出る鏡というよりも、それを通していかに沖縄の基地撤去が難しいかが見えてくる気がします。なぜなら、日本は米軍の沖縄駐留に対して「思いやり予算」というかたちでコストを負担していますよね。フィリピンの場合は逆にアメリカがお金を払っていたわけです。この大きな違いだけを見ても、アメリカが沖縄から基地を引き上げたくない理由がよくわかります。

荻上 お金を払ってくれるし、対中国対アジア全体に睨みを効かせられるということがあるわけですね。

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プロフィール

中野聡歴史学

一橋大学大学院社会学研究科教授

1959年東京生まれ。一橋大学法学部卒業。同大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学博士(一橋大学、1995年)。専門は歴史学。アジア太平洋の国際史をアメリカ、フィリピン、日本の関係を軸に研究している。神戸大学国際文化学部助教授などをへて現職。著書に『歴史経験としてのアメリカ帝国:米比関係史の群像』(岩波書店、2007年)、『東南アジア占領と日本人:帝国・日本の解体』(岩波書店、2012年)など。個人サイト http://nakanosatoshi.com/

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竹田いさみ海洋安全保障

バンコク、ジャカルタ、シンガポールなど東南アジア地域を中心に、世界の現場で調査研究を行ってきた。カバーする分野は、東南アジアの実情、テロなど過激派の問題、海賊など海洋問題。海洋帝国を築いたイギリスの海洋史も詳しい。また、東南アジアや中国を代表する第一線のジャーナリストを動員して、国際問題を討論するメディア・フォーラムを開催し、数多くの国際的なコーディネーションを手掛ける。著書に『国際テロネットワーク<アルカイダに狙われた東南アジア>』、『世界を動かす海賊』、『世界史を動かす海賊』など多数。アジア太平洋賞特別賞などを受賞。上智大学大学院国際関係論修了、ロンドン大学およびシドニー大学に留学。国際政治史で博士号(Ph.D.)取得。読売新聞や朝日新聞の有識者委員、海上保安庁政策アドバイザー、防衛省政策懇談会の委員などを歴任。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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