フィリピンはなぜ米軍を受け入れるのか――安全保障と基地問題を考える

憲法解釈でギリギリ合憲

 

荻上 ここまで竹田さんには安全保障の観点から語っていただきました。竹田さんとはここでお別れになります。ありがとうございました。

 

竹田 ありがとうございました。

 

荻上 ここからは、フィリピンがどうやってアメリカ軍を完全撤退されたのか、その経緯を伺っていきたいと思います。

 

中野 少し遡りますが、1992年に米軍が撤退する流れを生んだのは1987年の(現行)フィリピン憲法です。その前年の1986年にマルコス独裁体制が打倒されます。それまでの独裁体制を支えていた1973年憲法の反省の上に作られた、たいへん革新的で民主主義的な内容を含む憲法です。

 

その中の18条25項は「1991年に比米軍事基地協定が失効したのち新たに外国の軍事基地、軍隊、軍事施設をフィリピンにおくことは、上院が批准に同意するか、または議会が必要と認めたときに行う国民投票によって過半数の同意によって批准された条約によらなければ、これを認めない」ということが書かれています。当時すでに1991年には基地協定が失効することが分かっていたので、もしこの縛りがなければ、政府間協定でまた基地協定を更新することもあり得たんです。

 

荻上 そんなことが閣議決定で決められてしまうかもしれなかったんですね。

 

中野 それがこの憲法によって無理になり、きちんと条約を結ばなければいけなくなったので、フィリピン政府は世論の納得を得るために、アメリカに対してかなり困難な交渉を行うことになります。そして一旦は交渉が妥結し、基地駐留を含む新しい条約を調印しましたが、フィリピンの上院が批准を拒否したわけです。それで基地協定が失効すると新しい条約もないということで自動的に撤退せざるを得なくなりました。

 

荻上 なるほど。つまり、基地協定の更新を議会が承認しなかったために、どんなにネゴシエーションしようとも基地駐留は認めない、ということになったんですね。

 

だけれども、憲法自体は今も変わらないわけですよね。同じ憲法で今回は合憲と判断されたというのはなぜでしょうか。

 

中野 今回合憲判断が下った背景にあるのは「EDCAが定めているのは外国の基地ではない」ということです。つまり、フィリピン軍の基地を米軍が使用するだけなのだ、といっているわけです。

 

また、今日の番組では「駐留」という表現を使っていますが、現地の報道では「ローテーション」という言葉が使われています。在韓米軍や在日米軍では同一の部隊が同一の基地にずっと駐屯しているわけですが、フィリピンについては、憲法解釈のギリギリのラインとして、ずっと同じ基地に同じ部隊が駐屯するのではない、これはローテーションしているんだ、という形にしようというわけです。

 

このようにトリッキーな内容で、事実上、基地駐留の復活に他ならないにも関わらず、フィリピン最高裁は憲法18条25項にはギリギリ觝触しないという判断を下したわけです。どこかの国と似たようなことをしているわけですね。

 

荻上 日本の「個別的自衛権の範囲だからセーフだけど、集団的自衛権は……」という憲法解釈の議論と対応して、フィリピンではここが論点になっているわけですね。

 

 

「反日」経由の「親米」

 

荻上 戦時中のアメリカと日本との関わり方はどういったものだったのでしょうか。

 

中野 フィリピンは1898年から1946年までアメリカの植民地でしたが、いずれは共和国として独立する方向でいこうと両国で認め合っていたんです。1935年には10年後の完全独立を予定する自治政府が発足します。そして様々な準備が進んでいる最中に太平洋戦争が始まり、日本は南方作戦を展開していく中でフィリピンを占領していきます。そしてたいへんなことになったわけですが、そのたいへんなことをへて、結局、フィリピン共和国は予定通り1946年の7月4日に独立することになります。

 

荻上 フィリピンからすると、日本は「アジアの解放」とか言っているけど、もともとあと一年で独立することが決まっていたわけですね。

 

中野 はい。すでに大統領も副大統領も選挙で選ばれていましたし、女性参政権も日本よりも先に実現していたんです。

 

さらに話を巻き戻すことになりますが、もともとフィリピンは日本で言うと戦国時代の末期くらいからスペインが植民地化していきます。しかし、1898年にスペインとアメリカの戦争によって、アメリカがフィリピンを獲得します。実はこの時、フィリピンはすでにスペインから独立しかけていたんです。それをアメリカが応援するようなふりをしながら結果的には裏切り、植民地にしていったのです。

 

これに対して国内の独立革命政府はアメリカに対して抵抗します。あまり知られていませんが、「フィリピン・アメリカ戦争」、「比米戦争」と呼ばれるもので、当時としてはたいへん大きな戦争だったんですね。

 

荻上 それは何年ごろでしょうか。

 

中野 一番せまく取ると1899年から1902年と言われています。しかし、イラク戦争が終わったのはいつか、というのと同じで、ずっとゲリラ的な抵抗が続くんですね。このように見ると、フィリピン人はアメリカの一方的な征服に対して勇敢に抵抗して戦ったことがあるわけですから、もう少し反米的になってもおかしくないのですね。

 

実際、アメリカに対するナショナリズムは今でもありますし、「もともとはアメリカがフィリピンを侵略したんじゃないか」という議論はもちろんあります。しかしその一方、フィリピンが全体としては親米的な国だというのも事実です。

 

その理由についてはもう少し詳しく説明する必要がありますが、やはり日本人として忘れてはいけないのは、日本軍の占領と戦争がいかにひどかったか、ということだと思います。

 

荻上 太平洋戦争当時の日本に対してアメリカがカウンターとして機能したということですね。

 

中野 はい。そもそも独立が決まっていて、ほぼ独立国のような生活を送っていたところに日本軍が侵略してきたので、フィリピンの人々の戦争経験は他の東南アジアの植民地と少し違っていて、ナチスドイツに侵攻されたフランスなどの西欧諸国みたいなイメージがあります。しかも、戦争中の日本の支配は本当にひどいものでした。経済的にも破壊され、どんどん生活が困難になっていきました。

 

とくに戦争末期には日米決戦の舞台となり、中国大陸からたくさんの日本軍がフィリピンに移動してきます。日中戦争の経験を経た日本軍がフィリピン各地で「ゲリラ掃討」という名のもとに残虐行為を展開していきます。その戦争犯罪は後に戦争犯罪裁判で裁かれていきます。その内容も大変にひどいものでした。そうした経験がフィリピン人の記憶に染み付いているんです。

 

また、首都マニラは1945年の2月から3月にかけて1ヶ月間の市街戦で灰塵に帰します。これに民間人が巻き込まれてしまい、言われている数字では10万人亡くなったとされています。そのうちのかなりの数が単なる戦争の犠牲者ではなく、日本軍による集団殺害や残虐行為によるものでした(注)。

 

(注)【SYNODOS】フィリピンで日本軍は何をしたのか?/中野聡×荻上チキ https://synodos.jp/international/16290

 

そういう歴史があったからこそ、かつてアメリカによって一方的に征服された国ではあるけれども、フィリピンの人々から見ると、第二次世界大戦は自分たちの自由をアメリカ人とともに戦う中で回復したという感覚がいっそう強いところがあるのだと思います。

 

荻上 その時代を経て、反日経由の親米という流れになっていくわけですね。

 

 

中野氏

中野氏

 

 

戦後の反米ナショナリズムと基地問題

 

荻上 戦後フィリピンにおいて米軍の基地の位置付けはどういったものだったのですか。

 

中野 最初の「暫定基地協定」を結んだのは、なんと太平洋戦争が終わる前の1945年5月でした。その時はまだこれから米軍が日本に攻め込もうとしていたところでしたから、まず対日戦争のための基地が必要でした。また、1946年に予定される独立後まで戦争が続くこともあり得たので、独立後のフィリピンに米軍基地を維持するためにも基地協定が必要だったわけです。

 

またフィリピンとしても、大戦でこれほどの戦争被害を受けてしまったのはアメリカがしっかり守ってくれなかったからだ、という気持ちもあるんですね。だからこそ、国を守るためには米軍の存在が必要だという現実的な判断もありました。

 

第二次世界大戦の時は、マッカーサーが「アイシャル・リターン」と言って、日本に奪われたフィリピンをすぐに取り返すと約束していたのに、実際の戦争ではヨーロッパにおける戦いを優先してフィリピンの解放が遅れてしまった。だからこそフィリピン側としては、今度こそ米軍にもっと責任を持ってプレゼンスしてもらいたい、そして自力をつけるまでは守ってもらいたい、という気持ちがあったのも事実です。すなわち出発点ではフィリピン側が望んで米軍基地を維持したという側面があったわけです。

 

しかし、その構図はその後ずいぶんと変わっていきます。1950年代、60年代になるとアジア冷戦やベトナム戦争との関係でアメリカがフィリピンに基地を維持することが重要になってきます。その一方でフィリピンの中では、いつまでもアメリカに依存したままでいいのか、とアメリカに対して自己主張する意味での「対米ナショナリズム」が育っていきます。

 

それと相前後して、日本と同様に、米兵による基地周辺での犯罪が頻発していきます。フィリピン側が裁判権を行使できずに米兵がアメリカに帰国するケースが多数にのぼります。ここから基地をめぐる反米ナショナリズムが生まれる大きな流れができていきます。それが1960年代の末ごろ、とくに学生運動の時代に非常に強まっていきました。

 

荻上 反基地闘争という流れにもなっていくわけですね。

 

中野 その後に、マルコスの時代がやってきます。彼はフィリピン人に対してはナショナリストとしてふるまい、またアメリカに対してはフィリピンのナショナリズムをうまく手なづけられるのは俺だけだ、というかたちで売り込んでいきます。そのなかで基地問題については「アメリカが置きたいから基地を置いているのだ、そのためにフィリピンは使用料をもらうべきだ」と言い始めます。そうした形で事実上の基地使用料として軍事援助を獲得するようになるのが1970年代末からのことになります。

 

一方でアメリカ側からみると、ベトナム戦争が終わって、この先どれだけアジアに基地を維持すべきかわからない。また航空機の航続距離が伸びてきたとか、艦船の補修機能も日本の方が優れているとか、色々な要素があってスービックやクラークの基地としての価値も相対的に下がってきます。そこには南シナ海問題を見通せなかったなど地政学的な将来像についてアメリカ側による見誤りもあったかもしれません。いずれにしてもフィリピンの基地はむしろお荷物であり放棄すべきだという議論がアメリカ国内でも出てきます。

 

そうなるとアメリカ政府はフィリピンに対する基地使用料としての見返り援助を値切りたくなってくるんですね。一方、フィリピン政府の方はますますナショナリズムが強まるなかで、基地使用料を吊り上げたくなります。こうして、お互いの話がつかなくなってくるわけです。

 

そういう状況が、マルコス政権が崩壊したあと、いっそうはっきりしてきます。フィリピン政府も国内のナショナリズムを無視できないので、困難な交渉をして、できる限りフィリピン側に有利な条件で基地協定を含む条約を結ぼうとします。その一方で、フィリピンのナショナリズムから米軍撤退を求める世論がますます強まっていきます。

 

それでは、フィリピンの人たちが本当に米軍基地はなくなると思っていたかというと、それは大変疑わしいところがあって、結局アメリカは基地を維持するために手を打ってくるだろうという見方が強かった。そういう状況の中で、1992年6月、ピナツボ火山が大噴火しました。

 

この時に米軍家族2万人はさっさと逃げてしまいます。噴火の翌月(7月)には、アメリカは膨大な費用がかかる修復の価値がないと見てクラーク空軍基地の放棄を決め、スービック海軍基地のみ使用を継続する条約で日比米両政府が合意します。しかし、灰がマニラにも降り積もるという状況ので、やはりこんなことではいけないという感覚がフィリピン側でも強まったのではないでしょうか。最終的には、1991年9月、フィリピン議会上院の判断として、これ以上ダラダラと植民地的な関係を続けるのは良くない、アメリカとの歴史を一旦清算する必要があるという、そういう意味では「志の高いナショナリズム」が働いて、基地条約の批准が否決され、最終的に基地の撤去に至ったわけです。

 

このプロセスのなかでは別れ話を巡るいざこざのような側面があったことも事実です。しかしいざ基地がなくなってみると、これまでの反米ナショナリズムの核となる争点が後退していき、その一方である種の歴史的な深みをもった親米感情が戻って来る。そしてもう一度、頼りない国軍を助ける存在としてアメリカが戻ってくるという時には、意外と世論の抵抗が弱かったということが言えるんじゃないでしょうか。

 

荻上 反米ナショナリズムの受け皿がなくなっていく中で、「ほれ、見たことか!」という言論が育ってきた、ということもあるのかもしれませんね。

 

そうしたフィリピンと沖縄の基地問題、似ているところと違うところはいかがですか。

 

中野 鏡だと思うのですが、見ていて元気が出る鏡というよりも、それを通していかに沖縄の基地撤去が難しいかが見えてくる気がします。なぜなら、日本は米軍の沖縄駐留に対して「思いやり予算」というかたちでコストを負担していますよね。フィリピンの場合は逆にアメリカがお金を払っていたわけです。この大きな違いだけを見ても、アメリカが沖縄から基地を引き上げたくない理由がよくわかります。

 

荻上 お金を払ってくれるし、対中国対アジア全体に睨みを効かせられるということがあるわけですね。

 

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