カザフスタンにおける日本人抑留者

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昨年10月、安倍晋三総理大臣が日本の総理として9年振りに中央アジア・カザフスタン共和国を訪問、ナザルバエフ大統領との首脳会談を果たした。カザフスタンは近年、石油や天然ガス、ウランなど豊富な天然資源を背景にした目覚ましい経済発展や、日本人を含む多くの宇宙飛行士を宇宙に送り出している「バイコヌール宇宙基地」の置かれている国として、日本でもその名を知られるようになってきている国である。

 

ところが、ナザルバエフ大統領との首脳会談を終えた安倍総理は、首都アスタナの大学で行われたスピーチにおいて、政治対話でも経済協力でもない、かねてより中央アジアを訪問したかったある特別な理由を明かした。

 

 

「私には、この中央アジアの地を、是非とも訪れてみたい、もう1つの理由がありました。70年前の戦争の後、多くの同胞が、この地に抑留されました。祖国に思いを残したまま、悲しい最期をこの地で終えた方々も少なくありません。そうした御霊に、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御冥福をお祈り致しました。こうした尊い犠牲の上に、現在の日本の平和がある。この重みを噛みしめながら、中央アジアの皆さん、世界の友人と手を携え、世界の平和と繁栄に積極的に貢献していく。その決意を新たに致しました。」

 

「訪れた先々では、かつて抑留された日本人たちの建てた建物が、皆様に大事にされ、立派に残っている様子を見聞きしました。アルマティの科学アカデミーがそうでしょう。お隣ウズベキスタン、タシケントにあるナボイ劇場。シムケントや、テミルタウにも、たくさん残っていることを、御存知だろうと思います。毎朝、この中央アジアの大地に昇る朝日を見て、その地平線の先にある、祖国、ふるさと、そして家族へと、思いを馳せたであろう、先人たちの姿を偲ぶとき、今も胸が詰まります。しかし、強制された労働であっても、決して手を抜かなかった。父祖たちは、そこに誇りを託したのだと思います。」

(平成27年10月27日カザフスタンにおける安倍内閣総理大臣政策スピーチより)

 

 

ここで安倍総理が述べたように、終戦後カザフスタンを含む旧ソ連領内には、60万人とも70万人ともいわれる日本人がソ連軍によって満洲や樺太から強制連行され、飢えと寒さと絶望の中、森林伐採や鉄道建設、炭鉱労働など過酷な労働を、数年から十数年にわたり強いられた。いわゆる「シベリア抑留」である。

 

 

シベリア抑留

 

1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦を布告。当時日本の統治下にあった満洲や南樺太などに侵攻を開始した。日本のポツダム宣言受諾後もソ連軍の侵攻は続き、軍人だけでなく多くの軍属、民間人が犠牲になった。また、戦争終結により武装解除しソ連軍の捕虜となった軍人や、ソ連軍に逮捕された民間人の多くが抑留者となり、中央アジアやウクライナを含むロシア全域や、モンゴルや北朝鮮など各地に貨車で強制連行された。

 

第二次世界大戦でドイツと戦い2千万人ともいわれる犠牲者を出したソ連では、戦争で荒廃した国土復興のため大量の労働力を必要としており、ソ連はその労働力不足を補うため、60万人とも70万人ともいわれる日本人を抑留者として各地に強制連行したのである。

 

なお、当時のソ連の最高指導者スターリンが極秘指令「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」を発した8月23日はシベリア抑留が始まった日として、2003年以降毎年千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑で追悼式典が開催されている。

 

 

カザフスタン

 

当時カザフ・ソヴィエト社会主義共和国としてソ連の構成国だったカザフスタン領内にも約5万9千人の日本人が抑留され、これまでに判明しているだけで少なくとも1,457人が生きてふたたび祖国の土を踏むことなく亡くなったとされている。

 

 

1945年当時のカザフスタン。各行政区史を参考に筆者作成。

1945年当時のカザフスタン。各行政区史を参考に筆者作成。

 

 

カザフスタンに強制連行されてきた日本人抑留者は、当時共和国の首都であったアルマアタ(現在のアルマティ)や、ソ連有数の炭鉱都市であったカラガンダ、大きな鉱山のあったバルハシ、ウスチカメノゴルスク、テケリなど、共和国内各地のラーゲリ(強制収容所)に送致、抑留され、都市建設や鉄道建設、農場労働、鉱山労働など様々な強制労働を課せられた。

 

中でも、もっとも多く日本人が抑留されたのがカザフスタン中部に位置するカラガンダ州で、カザフスタンに強制連行された日本人の半数以上にあたる約3万4千人が抑留された。広大なステップに囲まれ気候も厳しく、また多くの抑留者が危険な炭鉱労働に就かされたため、各国の抑留者たちから「カルラグ」と呼ばれ、恐れられた。

 

 

カラガンダに残る「カルラグ」本部跡。現在は博物館として使用されている。

カラガンダに残る「カルラグ」本部跡。現在は博物館として使用されている。

 

 

阿彦哲郎氏

 

この「カルラグ」元抑留者で、現在もカラガンダで暮らす日本人がいる。戦後ソ連によって樺太・本斗町(現在のネヴェリスク)からカザフスタンに強制連行された阿彦哲郎さん(85歳)である。

 

戦前、南樺太は日本領であったが、1945年8月のソ連軍の侵攻により占領され、ソ連の実効支配下に置かれた。終戦当時本斗の青年学校に通いながら町内の鉄工所で働いていた阿彦さんは戦後も本斗町に残り、鉄工所がソ連に接収された後もそこで働き続けていたが、1948年6月突然ソ連警察に逮捕され、樺太・豊原市(現在のユジノサハリンスク)の刑務所に入れられた。6ヵ月刑務所に留置された後裁判にかけられ、ソ連刑法58条で10年の強制労働の判決を受けた。

 

このソ連刑法58条は「反ソ連活動」を罰する法律で、これにより戦後ソ連に占領された満洲や樺太で拘束された多くの日本人が一方的に有罪とされラーゲリに強制連行された。これはソ連の国内法を、国外にいた日本人抑留者にそのまま適用するという極めて理不尽なものだったが、最高で重労働25年を課せられる非常に重い刑であった。

 

 

カラガンダ郊外に住む元抑留者、阿彦哲郎さんと妻エレーナさん。2005年自宅にて。

カラガンダ郊外に住む元抑留者、阿彦哲郎さんと妻エレーナさん。2005年自宅にて撮影。

 

 

阿彦さんも各地のラーゲリを転々とさせられ、カザフスタン中部のジェスカズガンなどで炭鉱労働につかされ衰弱した後、最後はカラガンダ郊外の「スパスク収容所」という、傷病によりまともに働けなくなった囚人たちが集められ、その多くが死を待つばかりの収容所に移送された。

 

1953年にソ連のスターリンが死去、ソ連国内に残されていた日本人抑留者は順次日本に帰国することになった。阿彦さんは幸いスパスク収容所を何とか生き延び釈放されたが、民間人であったためか、同地区から帰国する日本人抑留者の名簿に彼の名が記載されておらず、ひとり帰国できずカラガンダに取り残された。

 

阿彦さんがふたたび日本の土を踏むのは、それから約40年後。ソ連が崩壊した後の1994年になってからのことだった(阿彦さんは2012年に妻とともに永住帰国のため札幌に移住したが、日本での生活になかなか馴染めず、2014年にふたたびカラガンダに戻った)。【次ページにつづく】

 

 

カラガンダ郊外、スパスク収容所跡に立つ日本人抑留者慰霊碑。

カラガンダ郊外、スパスク収容所跡に立つ日本人抑留者慰霊碑。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.265 

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