タイ・プーミポン国王の崩御とこれから――問われる皇太子のメディア戦略

2人の王位継承権保有者:皇太子とシリントーン王女

 

国王と別行動をとることが多くなった皇太子と反対に、もうひとりの王位継承権保有者であるシリントーン王女は、国王と共に行動することが多かった。

 

ここでまず整理しておきたいのは、プーミポン国王の家族構成である。国王には子どもが4人おり、この中で王位継承権を持つのは、皇太子と、第二王女で皇太子の妹であるシリントーン王女である。タイの憲法では1974年以降、王女への王位継承が認められている。これが、プーミポン国王が亡くなった直後に王位継承について様々な憶測が飛び交った所以でもあるわけだが、ここではそれには言及しない。ともあれ、王位継承権保有者同士を、タイ国民は常に比較しながら見てきたと言える。

 

両者を比較してみるとき、国王との紐帯がより強く映ったのは、第二王女であるシリントーン王女であった。シリントーン王女は、タイの王室史上初めて国内で学業を修めた人物でもあり、国内に居住していたこともあって、国王の行幸に帯同することが多かった。75年に王位継承権を付与されると、ほぼすべての行幸に帯同している。

 

73年に国王は初めて政治に介入し、注目度が増していたこともあり、新聞はこぞって国王の動向を大きく報じた。国王に関する記事に掲載される写真には同行するシリントーン王女も一緒に写る。道なき道を、国王と共にラフな格好で歩くシリントーン王女の姿は、汗を流して各地を訪問し、国民のために働くプーミポン国王のイメージと共通する印象を、国民に与えたと考えられる。メディアへの登場頻度から見ても、国王と共に写るシリントーン王女に注目が集まったのは、必然であろう。

 

皇太子とシリントーン王女とのこうした違いは、国王による意思だったのか、それとも本人たちの意思によって生じたものかはわからない。シリントーン王女の王位継承権授与の式典が、国王自身の誕生日に執り行われたという点では、国王はシリントーン王女をより重視していたと捉えることができる。しかし、シリントーン王女の公務は「国王の名代」としての活動よりも、「王妃の名代」としての活動が中心で、国王の代理は皇太子であると考えていたようにも捉えられる。国王亡き今となっては、それは推測するほかない。

 

 

問われる皇太子のメディア戦略

 

19日には、いくつかのメディアは、皇太子が近日中に即位の意向を固めるのではないかと報じたが、即位から戴冠までの短い期間で、皇太子はいかなる国王として自身を「見せる」のかを決めなければならない。戴冠式は、国王の火葬が行われる1年後を待って挙行されると言われている。それまでが、皇太子にとっては正念場になるだろう。

 

年齢のこともあり、今から新たにプーミポン国王のような国父としてのイメージを定着させることは難しいだろう。その上、これまでプーミポン国王と行動を共にすることが少なかった皇太子は、シリントーン王女に比べて国王との共通性や類似性を前面に出すようなメディア戦略も困難である。

 

プーミポン国王には、かつて「宣伝部長」ともいうべき側近がいた。まるで国王を先導するかのように9月16日にこの世を去った、ゲーオクワン・ワチャロータイである。宮内事務所長官も努めたこの人物は、1950年代から国王の映像を全国各地に届けるため、尽力した人物である。彼をはじめとする撮影班無しで、国王の活動がこれほど国民に知られることはなかっただろう。

 

皇太子は、ゲーオクワンのような「宣伝部長」を得ることができるのか。そして、これまでとは方向を転換させ、メディアを通して自身を積極的に国民に「売り込む」のか。皇太子を取り巻くメディア状況の変化に、注目する必要がある。

 

 

参考文献

玉田芳史. 2013. 「民主化と抵抗――新局面に入ったタイの政治」『国際問題』No.625. pp.18-30.

 

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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