2017.09.25

迫害、避難、不足する支援――ロヒンギャ難民たちの現状とは

ジュマ・ネット共同代表、下澤嶽氏インタビュー

国際 #ロヒンギャ#難民#ミャンマー#バングラデシュ

ミャンマーで国籍を持たず、迫害の対象となり生活するロヒンギャの人々。昨年ミャンマー警察と衝突して以来、その迫害が加速、多くのロヒンギャたちが難民となり、隣国バングラデシュに避難した。40万人ともいわれる難民の流出に、国際社会の対応は遅れ、難民たちは危機的な状況に陥っている。バングラデシュで少数民族の支援を行っている、ジュマ・ネット共同代表で、現場視察経験をお持ちの下澤嶽氏にその現状を伺った。(取材・構成/増田穂)

軍の過激派組織掃討作戦が激化

――そもそもロヒンギャの人々はどういった経緯で迫害されるようになったのですか。

ロヒンギャはミャンマーのラカイン州に住むイスラム教徒、インド・アーリア系の人々です。外見や文化的特性はバングラデシュの人々と共通するものが多くあります。言語はインド語派東部語群ベンガル・アッサム語に属するロヒンギャ語を使用しており、バングラデシュ南東部で使用されているチッタゴン語に近いですが、類縁とされるベンガル語との相互理解はかなり難しいといわれています。

ロヒンギャの人々のミャンマーでの定住化がどう進んだのか、諸説あり論点となっています。ミャンマーが独立した1948年以前からイスラム教徒の居住事実はあったようですが、ミャンマー独立直後、日本軍に対抗した英国軍がイスラム教徒を動員し行なった「ムジャヒッドの乱」でミャンマーの主要宗教である仏教徒と彼らの間で抗争が発生し、これまで良好な関係とは言えませんでした。

民族対立感情を残した状況から、1960年代にミャンマーが軍事政権に移行すると、この地域のイスラム教徒を「違法な移民」として決め付けるようになっていきました。1982年に成立した市民権法では、ロヒンギャは1948年1月の独立時点でビルマ国内に居住してない者として国籍を剥奪されてしまい、無国籍者となってしまいました。そのため人口の詳細はよくわからず、100万人とも130万人とも言われています。その後は、もともとあった差別感情のため、ミャンマー政権によって強制労働、強制移住などの対象となり、厳しい抑圧と監視の対象となっていきました。

路上にすわりこむロヒンギャの母親 雨に濡れたビニールシートに子どもが寝ている
路上にすわりこむロヒンギャの母親 雨に濡れたビニールシートに子どもが寝ている

――現在大規模なロヒンギャ難民の流出が国際社会の注目を集めていますが、今回の大規模迫害、難民流出の背景には何があったのでしょうか。

2016年10月9日にロヒンギャ武装集団によりミャンマーの警察官9名が殺害される事件があり、ミャンマー軍はテロ武装グループの掃討作戦の中で、一般市民も巻き込みながら、銃殺、刺殺、放火などを続け、ロヒンギャ市民約7万人がバングラデシュ側に逃れることになりました。ミャンマー政府によるとこのときの襲撃集団は「アカ・ムル・ムジャヒディン」だったとしています。この組織はその後のアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)の母体となった組織で、ラカイン州にイスラム教徒の独立国家をつくることを目標に、設立されました。すでにこの頃から、外国のテログループとの関与が疑われていました。

ミャンマー政府側は非合法なテログループとして、徹底的に排除すべき対象としています。そうした状況に引き続いて、2017年8月25日、警察の駐屯地30箇所が一斉に攻撃される事件が起きました。今回は「アカ・ムル・ムジャヒディン」が発展的に他グループと合流した「アラカン・ロヒンギャ救世軍」の犯行声明がありました。これを受けてミャンマー軍は以前よりもさらに厳しい武装グループの掃討作戦を展開したと思われます。その作戦上でミャンマー軍の行為が逸脱し、多くの市民が殺戮・レイプ・放火の被害に会うなどしたため、恐怖心に駆られたロヒンギャの人々約40万人がバングラデシュ側に避難しました。

難民キャンプでは、難民たちの証言が次々と報道されており、「夫が家から引きずり出され、拷問されたうえ、両手を縛られたまま首を切られて殺された」「家の中に数十人を閉じ込め火をつけ、さらにその家に子どもを投げ込んだ」「逃げる途中若い女性たちは、ミャンマー軍に連れていかれたまま行方がわからない」といった、掃討作戦上で行なわれたミャンマー軍の逸脱した行為が証言されています。また、避難途上で、家族が川で溺れたり、ちりぢりになっていまだに再会できていない人もいました。

9月10日にアラカン・ロヒンギャ救世軍が一方的な休戦宣言をしましたが、ミャンマー軍はこれを受け入れず、あくまでもこの掃討作戦を継続する姿勢です。そのためさらに難民の数は増える可能性があります。難民の数は現在のところ40万人という推定の数字が新聞報道などでも見られますが、正確な数字はわかっていません。難民たちは、陸路または河川を横断しながら、バングラデシュ側に逃れてきています。ミャンマーとの国境に近いバングラデシュ南東部のコックスバザール県ウキア郡、テクナフ郡の道路や丘陵斜面などでは、こうした難民で溢れています。難民たちはおそらく国有地と思われる場所で簡単なビニールテントを勝手につくり、生活を始めています。

拡大するキャンプ
拡大するキャンプ

支援に消極的なバングラデシュ政府

――避難先の現状はどのような状態なのでしょうか。

僅かな荷物しか持たず、避難先には充分な食料や水もなく、現地は非常に危機的な状態で、路上で物乞いする難民も多くみかけます。また同地域は現在雨季のため、難民たちは長距離を雨に濡れながら移動してきました。その結果、体が衰弱し、病気になっている老人、乳幼児が多数いる状態です。

バングラデシュ政府は、こうした難民たちに対して自ら積極的な支援活動を行なっていません。NGOや国際団体にも活動の許可を与えておらず、制限をしています。そのため、多くの難民は飢えと病気を抱えて危険な状態にあります。ときおりバングラデシュの民間人とおもわれる車がやってきて食料援助が散発的に道路脇で行なわれることがありますが、その量はまったく足りていない状態です。路上に座っているロヒンギャ難民の多くが、物乞いをしながらその日をしのいでいます。

バングラデシュ政府が食料支援を赤新月社やNGOに許可することで、緊急事態を乗り越えることができます。また、安定した飲み水の確保、医療サービス、燃料の薪の確保、トイレの整備、児童生徒への教育支援などが徐々に重要な課題になってくると思われます。

――バングラデシュ政府はなぜそんなにも支援活動に消極的なのですか。

92年のロヒンギャ難民発生時、多くのNGOが活動をここで行ないました。その際に中東アラブ諸国からNGOに届いた資金の一部が、イスラム過激主義者のグループの活動資金になっていたと指摘されたことがNGO関係者の間でよくありました。

2017年7月の現地新聞の報道によると、バングラデシュの諜報機関は17つのNGOが、中東アラブ諸国からの資金をイスラム原理主義者やテロ活動者のために流用している疑いを持っていることを明らかにしています。これらのNGOの多くはバングラデシュのイスラム過激派政党ジャマティ・イスラム政党のコントロール化にあり、その資金は同政党の政治活動資金となっている疑いを持っています。ただ詳細についてはわかっておらず、政府はこうした動きに敏感になっていると思われます。

――そうした中でもいつくかの国際人道支援団体が活動をしていると聞いています。どのような団体が支援活動をしているのですか。

今回の視察では、国際移住機構(IOM)、国境なき医師団(MSF)、ユニセフのパネルボードを数ヶ所で見かけました。残念ながらWFPの活動らしきものを確認する機会はありませんでした。IOMとユニセフは衛生教育、MSF簡単な検診と浄水設備などを扱っていましたが、おそらく多くのものは2016年10月以後に実施してきた事業のようで、登録されたキャンプか10月の際につくられた非登録のキャンプにだけ活動拠点があり、今年8月以降に流入した路上に溢れている難民への活動をしているようには見えませんでした。

おそらく、急な難民の流入に対して、対応が追いついていないのかと思います。UNHCRは二つしかない登録キャンプの中でだけ活動を行なっており、新しい難民の対応は許可されていませんでした。バングラデシュで難民支援をする場合は、バングラデシュ政府の事前の許可、承認がなくてはできません。バングラデシュはまだ正式にNGOや国際機関に「難民の支援をしてほしい」と言っていません。そのため、NGOや国際機関が活動を望んでも、バングラデシュ政府が消極的な態度であれば、充分な活動ができない、または非常にスローな展開になるのです。

私は92年に、NGOスタッフとしてロヒンギャ難民の対応をした経験がありますが、政府とUNHCRが調整役となり、キャンプ地を確定し、居住する難民世帯の割り振りを決め、NGOにもキャンプごとに役割を調整していました。当時は支援団体の調整会議も定期的に開催されていたため、確実な支援活動が可能になっていました。しかし、今回はNGOの姿が皆無で、そういった基盤が一切できていないことがわかりました。

――そもそも、バングラデシュとミャンマーの関係はどのような状態なのでしょうか。今回の支援の現状も踏まえてお聞かせいただけますでしょうか。

バングラデシュとミャンマーの関係は、ロヒンギャの課題が一番の外交課題と言えます。バングラデシュ政府としては、ロヒンギャの人々は自分たちに近い文化を内包しているとはいえ、そのまま受け入れるという意向はこれまでもありませんでした。バングラデシュ政府は、ロヒンギャ難民については、辛抱強くミャンマー政府と協議し、難民帰還を促してきました。双方の国境警備隊の間でときおり銃撃戦が発生することもありましたが、重大な問題に発展することはありませんでした。

しかし、今回のアラカン・ロヒンギャ救世軍がバングラデシュとミャンマー国境をはさんで活動を活発に行っている様子が伝えられています。このことをめぐって、双方の関係を悪化させる火種になっており、新たな課題になりつつあると言えます。今後は、これらの武装グループの把握と対応をめぐって、両国がどのように連携するのかが注目されています。

散発的に行なわれる民間人の食料配布にむらがる難民たち
散発的に行なわれる民間人の食料配布にむらがる難民たち

長期的な支援の必要性

ー―お話を伺うとさまざまな支援が行き届いていないのだと感じますが、現在行われている支援の中で、特に大きな課題はなんでしょうか。

現時点では、政府がNGOや国際機関への活動を許可していないこと、そして全体の調整と指揮をとっていないことが一番の問題です。その次に必要なのは、キャンプ地をそれぞれ特定し、世帯者リストをつくり、キャンプごとにリーダーを決め、物資配給の混乱を避けるためのシステムづくりをし、難民弱者にも確実に支援が届くような体制をつくることです。

最優先する物資は、食料、水、医薬品となります。そして雨露をしのげるシェルターの建築資材です。その次には、台所用品、バケツ、水おけ、石鹸といった日用品になるかと思います。その後は、衛生上の観点から、トイレや井戸の設置が求められるでしょう。

最後に、滞在が長期化する場合は、児童生徒のための学校・図書館、母子保健の充実、医療サービス、職業訓練などの支援が有功と思われます。

ビニールシートでなんとか雨露をしのぐ難民たち
ビニールシートでなんとか雨露をしのぐ難民たち
ロヒンギャ難民は年寄り、子ども、中年女性が多く若い男女が少ない
ロヒンギャ難民は年寄り、子ども、中年女性が多く若い男女が少ない

――情勢次第では、実際に難民の長期化も考えられますが、こうした現状に国際社会はどのように対応していけばいいのでしょうか。

バングラデシュ政府が一番望んでいる解決は、難民のミャンマーへの安全な帰還だと思います。国際社会がすべき1番の対応は、そのための外交交渉をミャンマー側とこれからも続けていくことだと思います。92年の難民流入のときも時間がかかりましたが、約30万人中、約22万の難民が帰還しています。バングラデシュ政府が慎重な態度でミャンマー政府と交渉を続けたことと、UNHCRが帰還作業に立ち会うという条件で、実現したことでした。難民の中には帰還を望まない人もおり、バングラデシュに数万人が残る結果となりました。

今後の交渉が長引く可能性は大きいので、国際社会は次のことを見ていく必要があると思います。

(1)バングラデシュ政府が的確に難民の支援ができるような資金的援助と長期的視点になった支援計画づくり

(2)ミャンマー政府・軍に対して、掃討作戦上での一般市民に対する人道的配慮と人権保護を訴えること。市民団体が出す声明、ミャンマー大使館への要請、マスメディアを通じての発言、SNSでの発信などは、そうした国際世論を強化していくと思います。

(3)ミャンマー政府にロヒンギャ帰還難民を受け入れるように促していくこと。あくまでも自主的な帰還が原則で、UNHCRなどの第三者機関の関与が重要だと思います。また帰還を促すためにも、ミャンマー政府はロヒンギャの人々の権利や国籍についても、なんらかの緩和策を提示することも重要だと思います。

(4)難民法にもとづく手続きと登録ができるような環境づくりと、登録済みの難民の第三国定住の促進。日本は難民認定、難民の受け入れについては非常に消極的な国といわれています。すでに日本には自力で来日し、日本に居住しているロヒンギャの方々が200名以上います。またその中には難民認定を得た方もおられます。日本がアジアの難民支援のリーダーシップを発揮する意味でも、ロヒンギャ難民の第三国受け入れ国として、積極的な政策を打ち出してほしいと思います。

多くのロヒンギャ難民がミャンマーに戻るだけでなく、人間として生活するために必要な選択の自由が与えられることが重要だと思います。

――日本にできることはなんでしょうか。

まずはロヒンギャ難民への緊急支援を政府、NGOをあげて協力して行なうことが重要かと思います。日本政府は対バングラデシュODAにおいては最大のドナーです。この立ち位置をうまく使ってバングラデシュ政府の立場を理解しつつも、ロヒンギャの人々が正規の難民として法的措置、手続きがとられるよう訴えていくことが重要かと思います。

片方で、ミャンマー政府への働きかけも重要になると思います。ミャンマー政府は民族浄化ではないと主張していますが、国連の調査団が正式に受け入れられれば、その真偽と実態が事実が明らかになっていくと思います。9月19日、アウンサンスーチー氏が正式な演説を行い、「すべての人権侵害への批判」「難民の帰還」「ロヒンギャの人々への権利拡大の可能性」を訴えました。

多くのミャンマー市民は、いまだにロヒンギャを国民として認めない、または異民族としての違和感を強く持っています。こうした状況を私たちはまず理解しておく必要があると思います。その上で、アウンサンスーチー氏の演説は、さらに一歩先を目指すミャンマーの新しい姿を訴えたのだと思います。ミャンマー軍の人権侵害の指摘にだけ集中するのでなく、ロヒンギャの人々がミャンマー国内で国民の地位を得て、安心して共存できるような働きかけを日本政府や日本のNGOができるといいと思います。

根深い溝、解決に向けて

――冒頭でもご説明いただきましたが、改めて、ミャンマー国民がここまでロヒンギャに対して反感感情を抱くのは何故なのでしょうか。これまで両者の関係を改善させるような取り組みは取られてこなかったのですか?

ミャンマー国民の多くが、風貌も宗教も大きく異なるロヒンギャに対して、冷淡な感情を持っているといってまちがいないでしょう。また、一部には「ロヒンギャという民族はいない。彼らはバングラデシュからの移民だ」「彼らはテロリストだ」といった考えを持つ人もいます。82年の市民権法で国籍を剥奪されてからは、これらは国民の間で正当化され、今日に至っています。

15世紀からイスラム教徒がここに居住していた事実を無視し、1948年のミャンマー独立の動乱の中で英国政府によって動員されたベンガル人が多くいた事実だけで、残りのすべての人を違法な移民ととらえられるのか、議論の余地があります。

すでにミャンマー独立から80年が経とうとしており、その間ここにロヒンギャの人々が住み続けた事実があります。そしてバングラデシュに難民化した後もミャンマーへの帰還を実現していること、そして今まさしく難民となっている人の中にもミャンマーに戻りたいとしている人が多いことも事実です。

ARSAという武装グループの実態はまだわかりませんが、暴力で主張を通そうとすることには納得はできません。しかし、こうしたグループを生み出し、攻撃の機会を与えてしまった背景には、ミャンマー政府のロヒンギャに対する高圧的な政策が長くあったことも事実です。これからは「歴史」だけではなく、「現実」を見ながら、話し合いによって解決を探る時期にきているのではないでしょうか?

路上に座り込むロヒンギャ難民の人たち
路上に座り込むロヒンギャ難民の人たち

プロフィール

下澤嶽ジュマ・ネット共同代表

大学卒業後、1988年に(特活)シャプラニール=市民による海外協力の会の駐在としてバングラデシュへ。帰国後、1998年に同会事務局長。2002年7月に退職し、同時にジュマ・ネットを友人たちと設立。2006年7月から2010年3月まで(特活)国際協力NGOセンター事務局長。2010年4月より、静岡文化芸術大学教員。平和構築NGO ジュマ・ネット共同代表。

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