2017.11.29

エボラ出血熱――西アフリカ・シエラレオネの人々はいかに対応したのか

岡野英之 / アフリカ地域研究

国際 #等身大のアフリカ/最前線のアフリカ#エボラ出血熱#シエラレオネ

シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

悲劇に見舞われた国・シエラレオネ

西アフリカにシエラレオネという国がある。この国は1991年から2002年まで11年間にもわたる内戦を経験し、さらに2014年から2015年までにエボラ出血熱の流行を経験した。私はシエラレオネの政治や社会について研究しており、2008年からほぼ毎年現地を訪れていた。

しかし、エボラ出血熱が流行したことにより、2014年には訪問を中断せざるを得なくなった。深刻になったのはこの年の6月以降である。国中がパニックに陥った。幸いにも私の友人にはエボラ出血熱で亡くなった者はいなかったが、携帯電話でやりとりをする友人たちからは、「市場のモノの値段が高騰して金がない」「エボラのせいで仕事ができずに金がない」といった不満の声が聞かれた。金の無心をされて、その時初めてシエラレオネへ送金したことを覚えている。当時、首都では朝から晩まで救急車のサイレンが鳴り響き、住民はコミュニティを守るために自発的に検問を設置したのだという。

シエラレオネでの流行は、2016年3月にWHO(世界保健機関)によって出された終息宣言をもって幕を閉じた。それ以降、新規の患者は発生していない。終結宣言から半年ほどたった2016年8月、私は再度シエラレオネを訪れることができた。エボラ出血熱に気を付けるよう注意を促す看板やポスターが残され、町には少しだけエボラ出血熱が流行したころの名残があった。しかし、それ以外は以前と変わらぬように見えた(写真1、写真2)。そして、それから1年後の2017年8月に再び訪問した時には、エボラ出血熱の流行の経験を示すようなものはほとんど残っていなかった。

写真1.首都フリータウンの中心部

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(2016年8月撮影。エボラ出血熱以前の様子とあまり変わらなかった)

写真2.エボラ出血熱の啓発を行うポスター

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(2016年8月に筆者撮影。地方政府の庁舎に貼られていた)

私はこの2回の訪問でエボラ出血熱の対策に関わった現地の人々に話を聞いて回った。本記事では、私が行った2年間の調査に基づいて、シエラレオネの人々がエボラ出血熱にどのように対応したのか、そして、どのような対策が封じ込めに効果をあげたのかについて述べることにしたい(注1)。

(注1)エボラ出血熱発生最中の隣国ギニアの状況について述べた中川(2015)も合わせて参照していただきたい。

致死率が高く、感染しやすいエボラ出血熱

エボラ出血熱はウイルス性の感染症であり、そのウイルス(エボラウイルス)は1976年にスーダン(現南スーダン)で発見された。それ以降、アフリカを中心に数十回の発生が確認されている(CDC,2017)。

エボラ出血熱の致死率は50から90%にも達する。ただし、インフルエンザと比べると感染力は弱く、空気感染もしない。血液や体液に直接接触することによって感染する。西アフリカでエボラ出血熱が広がった主な経路は、患者を看病した家族・親族への感染と、葬儀の参列者への感染であった。参列者が感染したのは、現地の葬儀では遺体に触れたりキスしたりするからである。生きている患者には劣るが、遺体にも感染力はあるのだ。

ウイルスに感染してから発症するのは7~21日後である。初期症状は嘔吐、発熱等であるが、次第に重篤化し、嘔吐・腹痛・下痢が激しくなり死に至る(注2)。治療薬はなく、自然治癒を待つしかない。発症してから7~14日で死亡するか、回復するといわれている。

自然宿主は野生動物である。コウモリが有力だとされているが特定には至っていない。まず野生動物からヒトへと感染し、そして、ヒトの間で広がる。そのため、エボラ出血熱はたいてい狩猟などで人々が野生動物と接触する地域で発生する(国立感染研究所,2014)。すなわち、多くの場合、農村地域に突然、出現するのである。

(注2)出血熱という名の通り、重篤化すると体の開口部(目や鼻など)や皮膚から出血をする場合もある。しかし、そうした症状が出る者は患者の10%未満である(国立感染研究所,2014)。

西アフリカで発生した未曽有のパンデミック

エボラ出血熱は、2013年の年末にギニアの農村部で発生したことを皮切りに、その隣国であるシエラレオネとリベリアを含めた3カ国を中心に拡大した(注3)(図1)。最初の感染者が発生したのは、ギニア南東部のメリアンドゥ村である。村の中で遊んでいた3歳の子どもがコウモリと接触して感染し、その子どもから、家族、村人、そして、医療従事者へと広がった。感染した者が移動することにより、エボラは近隣の町(ゲゲドゥとマセンタ)へと運ばれた。これらの町はシエラレオネ・リベリアの国境近くに位置しており(図2)、乗り合いバンがそれぞれの町からシエラレオネやリベリアへと運行していた。エボラは国境を越え、シエラレオネやリベリアへと拡大した。

図1.ギニア、シエラレオネ、リベリアの3国

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図2.エボラ出血熱が最初に発生した地域周辺の地図

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この流行は先例がないほど大規模であった。本流行は複数の国へと拡大し、その感染者は2万8616人、死亡者は1万1310人という未曽有のものであった(しかも、未報告の件数があるため、実際にはその1.2~1.7倍の感染者がいたと推定されている)(McNeil, 2014)。過去の発生では、感染者は最大でも500人にも満たず、都市部で広がったことも国境を越えたこともなかった。

2015年にはそれぞれの国でエボラ対策も軌道に乗り、患者の数は減少した。WHOは、リベリアには2015年5月9日、シエラレオネには11月7日、ギニアには12月29日に、それぞれエボラ終結宣言を出した。エボラ終結宣言は、最後に発見された患者が回復してから42日後(最長潜伏期間である21日の2倍)に出されるものである。しかし、その後も、原因は不明だが何度か新規感染者が発生した。シエラレオネでは2016年1月に2名の新規感染者が発見されたものの、その感染は拡大せず、改めて3月にエボラ終息宣言が出された。また、ギニア、リベリアでも数名の新規感染者が何度か発生した。その後、2016年6月にそれぞれの国に改めてエボラ終結宣言が出された。それ以降、エボラ出血熱の新規感染者は発見されていない。

本流行においてシエラレオネでは約1万4000人の感染者が発生し、そのうち約3900人が死亡した。その数字が意味するのは、本流行の全感染者の約半数、そして、死亡者の約35%がシエラレオネに集中しているということである。シエラレオネの人口は700万人弱なので、500人に1人がエボラ出血熱に感染した計算になる。

(注3)この三国の他、ナイジェリア、セネガル、マリ等にも感染が拡大したが、初期段階で封じ込めに成功している。これらの中で最も多くの感染者を出したナイジェリアでも感染は20名に留まっている。

人口が希薄なシエラレオネ

シエラレオネでの感染拡大を理解するためには、その社会・地理的状況をふまえる必要がある。シエラレオネでは交通インフラが十分に整備されておらず、幹線道路であっても舗装されていない箇所がある。そのため徒歩あるいはバイクでしか辿り着けない農村があり、そこでは自給自足の生活をしている人も多い。人口密度はそれほど高くなく、町や都市といっても、私たちが考えるよりもずっと小規模である。首都フリータウンこそ約100万人の人口を擁するが、10万人以上の都市はほかには存在せず、人口1万人以上10万人以下の都市が10か所あるに過ぎない。

図3は、シエラレオネの「都市(City)」と「町(Town)」と「村(Village)」の関係を図式化したものである。「都市(地方都市)」には病院や大きな市場あり、地域のハブとして機能している。そこで働く人も商売をしていたり雇われたりしていて、貨幣経済が浸透している世界である。「町」とは人口は2000-1万人ほどの規模で、小さな市場やクリニックがある。周辺の村の人々が買い物に来たり、市場でモノを売りに来たりする。市場があるとはいうものの、町に住む人は周辺地域に畑を作り、自給自足の農業をしている場合が多い。「村」は1.5~5㎞ごとに点在しており、通常75-250人ほどが居住している。村では自給自足が基本である。村と村の間はブッシュ(藪)が広がる無人地帯である(もちろん、村周辺には畑がある)。

図3. 都市・町・村の位置関係

図3

(筆者作成)

都市や町は車道で結ばれており、公共交通機関(乗り合いバン)が走っている。一方で村は、車道上に位置するところもあるが、車でアクセスできないところも多数ある。車でアクセスできない村に行くには、藪の中を通る道(Bush Path ヤブ小道)を歩くしかない(バイクが通れる場合もある)。ヤブ小道を通ってしか辿り着けない村にも、在住の保健師(ヘルスワーカー)がいることがあるが、重い病気には対応できない。重病人が出た場合、村の若者がヤブ小道を通って徒歩あるいはバイクで病人を車道まで運び、そこから乗り合いバンを使って都市の病院まで連れて行く。

都市がハブとなったシエラレオネの感染拡大

シエラレオネでのエボラ出血熱拡大は、国境地帯であるカイラフン県クポンドゥ村に住んでいた呪医から始まる(注4)。この呪医は、ギニアから国境を越えてやってきたエボラ感染者に治療を施し、その過程で感染者の体液に触れた。この呪医は4月28日に発症し、2日後に死亡した。その後、葬儀が行われた。この呪医はこのあたりで有名であったため、近隣の村々から数多くの参列者がやって来た。葬儀は伝統的な作法に則って行われ、一連の儀礼の中には遺体に口づけをしたり触ったりする行為も含まれていた。その結果、多くの参列者が感染し、彼らを介してエボラ出血熱は近隣の村へと拡大した。

エボラ出血熱の感染が広がっていることに気づいたのは、クポンドゥ村から約8kmの場所にあるコインドゥという町のコミュニティ保健員であった。この保健員は、ギニアでの感染拡大を受けてエボラ出血熱についての研修を受けていた。葬儀に参列した複数の者が熱・嘔吐・下痢といった症状を示していることに気づいた保健員は5月24日、カイラフン県の保健省県事務所に、エボラ出血熱と疑われる患者が発生したことを報告した。それと同時に、地方都市であるケネマ市の政府病院に患者から採取したサンプルを送った。ケネマ政府病院にはラッサ熱(エボラ出血熱とは異なるウイルス性出血熱)の研究施設があり、ウイルス性出血熱の患者を隔離できた。ケネマ政府病院での検査の結果は陽性で、5月25日、シエラレオネ政府はWHOに対してエボラ出血熱が発生したことを報告した。

ケネマ政府病院に勤め、ラッサ熱の研究者でもあったシェイク・ウマル・カーン医師は26日、コインドゥ一帯へと調査隊を派遣した。感染経路の調査をし、感染者と接触した者を町にある保健センターへと隔離した。また、エボラ出血熱がいかなる病気で、どのように対処しなければならないかを住民に周知した。しかし、エボラ出血熱に対して知識を持たない住民は、調査団の措置に対して不満を感じ、中には保健センターに隔離された患者を取り戻した住民もいたという。その結果、カイラフン県にエボラが広がっていった。

こうした流れと同時にダルという町、そして、ケネマ市にもエボラ出血熱が押し寄せることになった。思い出してほしい。村で病気になった者は地方都市の病院へと運ばれるのである。エボラをダルへと運んだのは、コインドゥの保健センターで働いていた看護師であった。5月18日、具合を悪くした彼女はケネマ政府病院に行くことにした。乗り合いバンで途中のダルにたどり着いたところで症状が重篤化し、ダルのコミュニティ保健センターに入院した。彼女は24日に死亡した。彼女の実家はダル周辺にあり、そこで葬儀が営まれた。エボラは、彼女が入院したコミュニティ保健センターのスタッフや葬儀の参列者に拡大し、ダル周辺に感染が広がった。

ケネマ市でも感染が拡大した。葬儀に参加するなどして感染した者が次々とケネマ政府病院に運ばれ、ケネマ政府病院は収容能力以上に患者を受け入れざるを得なかった。治療や検査に忙殺される中、看護師や医師もエボラ出血熱に感染した。エボラ出血熱対策を主導したカーン医師も感染し、死亡した。こうして、7月初旬までにはカイラフン県とケネマ県でエボラ出血熱が深刻化し、さらに7月には首都フリータウンや地方都市ポートロコへと飛び火するなど、シエラレオネ全土へと拡大していった。

以上の経緯からわかるのは、エボラ出血熱が都市をハブとして拡大していったことである。カイラフン県の村々でエボラ出血熱が広がると、その患者はケネマ市に運ばれ、ケネマ市で感染が拡大した。そのあと今度は公共交通機関を通じて周辺農村および、別の都市に広がり、別の都市でもまた同様に、周辺農村、さらに別の都市へとウイルスが運ばれることになった。

(注4)呪医とは、まじないを使って病を治す祈祷師・霊媒師のような存在であり、薬草を使った治療もする。

シエラレオネ政府と国際社会の対応

国際社会は、エボラ出血熱に迅速に対応した。WHOはエボラ出血熱の報告をシエラレオネ政府から受け取ると、即座にカイラフン県にオフィスを設置した。6月には国際NGO「国境なき医師団」が治療センターを設置し、血液検査のための施設も造られた(前述のようにシエラレオネでエボラ出血熱の発生が確認されたのは5月25日である)。WHOのチームリーダーは当時の様子を振り返り、以下のように語る。「当時、コミュニティからの反発は大きかった。中には調査団が村に入ることを拒むような場合もあった」(WHO, 2014)。

エボラ出血熱が全土へと拡大する中、大統領アーネスト・バイ・コロマは非常事態宣言を発令した。7月31日のことである。それ以降、先進国や国際機関からは医療物資が大量に送られた。検査施設、手袋や個人防護具(PPE)、体温計、救急車といったものである。援助機関に勤務するある外国人は当時の様子について、「9月頃からフリータウンの空気が変わって来た。朝から晩まで救急車のサイレンが聞こえてきた」と語っている。

非常事態宣言が出されたのにも関わらず、封じ込め対策はうまくいかず、エボラは拡大を続けた。2014年9月、アメリカの疾病予防管理センター(CDC)は、このまま状況が改善しなければ、20015年1月までにシエラレオネとリベリアであわせて55~140万人が感染すると推定した(ギニアは含まれていない)。しかしながら、実際の感染者はギニアを含めた3カ国をあわせて約2万8000人に収まった。当初の拡大の勢いを弱めることができたのは、感染拡大に伴って住民もエボラ出血熱に対して理解を示すようになったからである。当初は困難を極めたエボラ出血熱対策であったが、住民の協力を得られたこともあり、次第に体制が整えられていった。図4で示すようなフローが確立していったのである。

図4.エボラ出血熱対策のフロー(Yamanis et al. 2016に基づき筆者作成)

図4

こうしたフローで対処することで、新規感染者数は徐々に減少していった。本記事では、その対策において重要であった事項を、医学的な措置・社会的な措置の2つにわけて考えてみることにしたい。

隔離施設の設置が看病する家族への感染を防いだ

まず医学的な措置として重要であったのが、治療センター(treatment center)のほかに隔離施設(holding center)を造ったことであった。治療センターとは、血液検査によって感染が確定した者を収容し、治療する施設である(エボラ出血熱には治療薬は存在しないため、治療といっても症状を和らげる措置がなされるに限られる)。それに対して隔離施設は、発熱や嘔吐などエボラ出血熱と疑わしき症状を見せたものを一時的に隔離しておく場所である。町レベルの各地に設けられた。

隔離施設を作ったことで生じた大きな変化が、患者の家族への感染を防ぐことが可能となったことである。疑わしきは隔離施設へ収容したのである。隔離施設では血液サンプルを採取し、検査施設へと運ぶ。そこで陽性の結果が出れば、患者は治療センターへと運ばれる。患者を出した世帯は、軍・警察の監視下におかれ、他世帯との接触は絶たれる。エボラ出血熱の生存者に話を聞いたところ、軍と警察がひとりずつ家のそばの木陰で一日中見張っていたという。畑に出るのは許されたが、やはり他人と接触しないよう見張られていた。隔離世帯には支援物資が届けられたため、食事には困らなかったという。

繰り返される啓発活動

次に、社会的措置として重要であったのは、住民を巻き込んだ啓発活動が重ねられたことである。援助機関は、コミュニティや業界団体のリーダーなど影響力がある者に対して重点的に研修を実施した。その研修のメッセージは「患者に触るな」「手を洗え」「117(エボラ出血熱のホットライン)に電話しろ」というシンプルなものだ。当初、研修は、WHOが医療従事者や保健省の役人向けに始めたものであった。その後、エボラ対策のために医療専門ではないNGOや国際機関にも予算が付いた。そこで多くの援助機関が一般人向けのエボラ出血熱の啓発活動をはじめることになった(写真3)。

写真3.啓発活動の様子

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(国連のHPより。撮影者UNICEF/Tanya Bi)

こうした研修の受け皿となった組織の1つが任意団体(association)である。シエラレオネには、職業、地縁、相互扶助、コミュニティ、リクリエーションなど様々な単位の団体がある。例えば、コミュニティ団体とは、同じ地区で暮らす人々が自発的に作った町内会のようなものであり、コミュニティ内で必要な労働(掃除やドブさらいなど)をしたり、決まり事を作ったりする。また、職業団体としては漁業組合やバイクタクシー組合などが挙げられ、商売を円滑に進めるための活動をしている。こうした各種団体が研修の受け皿となった。写真4は私の友人であるが、彼らはバイクタクシー協会の職員であった。このように各種団体が受け皿となり研修を受け、さらに研修を受けた者が近隣の町や村を回り、人々を集め、自分たちが学んだことを伝えたのである。

写真4.啓発活動に参加した友人(啓発活動の際に着用していたTシャツを着てもらった)。

写真4

(2016年8月撮影。彼はバイクタクシー業の業界団体の職員であった)

さまざまな団体が町や村を回ったことにより、人々は繰り返し同じメッセージを耳にし、そのメッセージはあたかもテレビCMが耳に残るように人々に浸透している。私がエボラ出血熱を調べていると語ると、「ア…。あれだろ、患者に触るな、手を洗え…」とシエラレオネの人々は判を押したように答えるのである。

このメッセージは、その人がエボラ出血熱を信じているかどうかに関わりなく浸透している。ある村のリーダーにインタビューをしたところ、彼は何度も研修を受けたというが、エボラ出血熱の存在を信じていたわけではなかったという。彼は言った。

「私は自分の村でエボラ出血熱が発生して初めて、エボラ出血熱は本当に存在したんだと思った」。

ただし、彼のそのあとの行動は迅速であった。研修で受けた通りに行動したのだ。村人に患者に触ってはいけないと注意して回り、政府のコールセンターに電話を掛けたのだ。

自発的に検問を張ったコミュニティ

啓発活動は人々による自発的な対策へとつながった。コミュニティ団体は、コミュニティを守るために自発的に検問を張った。首都であってもコミュニティのメンバーは皆、顔見知りで、誰がどこに住んでいるか知っている。トイレや水浴び場は共同であり、女性たちは外で料理をする(写真5)。近所の子供たちも一緒に遊ぶことが多い。こうした状況のため、近所づきあいは濃いものである。こうしたコミュニティの人々が自分の生活の場をエボラ出血熱から守るために検問を敷いたのである。

検問では、通行人に手を洗わせて熱を測った。コミュニティによっては、若者を動員することで24時間体制で検問を敷いた場所もあった。もし高熱の者がいると「5分間座らせてまた体温を測った」といい、それでも体温が高いと、携帯電話で117(政府のエボラ・ホットライン)に電話し、救急車に迎えに来させたという。隔離施設へと運ぶのだ。

写真5.首都フリータウンのコミュニティ

写真5

(2016年8月撮影、シエラレオネの家にはこうしたテラスがあり、料理・食事、そして、リラックスの時間はここで過ごす。いわば玄関先のテラスは居間なのだ)

検問には、消毒剤入りのバケツ(写真6)、非接触式の体温計、スタッフの飲料水などが必要となるが、こうした備品は国会議員から配布されたという。国会議員が政府から臨時予算を与えられ、その一部がコミュニティへと回され、検問に使われることになったのである。

写真6.消毒剤入りのバケツ

写真6

(2016年8月撮影、聞き取り調査のために訪れたクリニックに設置されていた)

コミュニティ団体による検問は、警察や軍が幹線道路上で行うものとは異なり、コミュニティを守るためであった。首都フリータウンでは50か所以上も検問が設けられたというが、大通りには検問はなく、大通りから脇に入ったコミュニティの入り口に設置された。そのため、コミュニティに出入りしない外国人(援助機関の関係者)の中には検問の存在に気付かない者も多数いた。

あるコミュニティでは若者が自警団を組み、夜中にパトロールをし、よそ者がいたら追い出したのだという。

エボラの撲滅は成功した。反省点は…

シエラレオネでは、政府の行政能力が限られ、インフラも十分に整っていない。また、メディアも十分に発達しておらず、農村の人々に情報を浸透させるのは困難であったはずである。それでもなお、一度広がった感染は抑えられ、結果的にはエボラ出血熱を撲滅することができた。

それが可能となったのは、援助機関やシエラレオネ政府が、住民を巻き込むことでエボラ撲滅体制を構築したことである。政府は、国会議員、首長、ローカルNGOなどローカルな場所で発言力のある人物を使って住民に対する啓発活動を実施した。シエラレオネでは年上の者を尊敬する傾向が強い。く、知識人の中には、年上の言うことを疑いなく聞くという人々の姿勢に問題があると考える人もいるほどである。しかし今回は、そうした考え方そうした人々の態度が利用されたのである功を奏した。発言力を持つ人物が啓発活動に加わることにより、人々は「偉い人が言っているのだから本当なのだろう」、あるいは「偉い人には従わなければならない」と思ったのである。こうしたいった人々人びとの心理をうまく利用し、住民をエボラ出血熱対策に巻き込んでいったのである。

ただし、反省点がないわけではない。第一に、そもそも1万4000人もの感染者を出したこと自体が政府の対策の不備によるものだったといえなくもない。また、専門知識のない住民を動員したことにより、ずさんな対策になったことも否めない。住民に検問を任せた結果、エボラかどうかもわからずに隔離施設に入れられた者も数多くいたという(東京新聞,2015)。

第二に、国際社会からは大量の支援がよせられたが、供給が過剰になったものがないとはいえない。例えば、救急車である。各国から救急車が送られた結果、救急車の台数が過剰になり、遺体を運ぶためにもつかわれた。救急車はエボラ出血熱の終息後も使用されて,救急車不足が解消されたという良い面もあるが、エボラ出血熱の際に司令塔となった軍本部の敷地には、使われなくなった救急車がずらりと並んでいる。

また、研修をやりすぎではないのかという声もある。現地の国際機関で働く日本人は、啓発キャンペーンに対してこのように語った。

「みんな〔すべてのNGOや国際機関〕がWHOと同じようにやったんですよ。お金がついてきたから、どの機関もWHOと同じように啓発活動を実施した。うち〔彼の働く国際機関〕なんか保健の「ほ」の字もないのに、啓発事業とかやっちゃったんです。そして、その研修には何度も何度も同じ人が参加して、参加手当を受け取っている。ある意味、小遣い稼ぎになっていた。本当にあれに意味があったんですかね。」

彼の言葉のとおり、国際機関やNGOが同じ内容で繰り返し研修を開いており、彼の疑問ももっともかもしれない。ただし、私が現地で見聞きしたかぎり、研修には一定の効果があったようにも思える。テレビのCMのように単純なメッセージを繰り返し聞くことになったからこそ効果があったともいえるのだ。

救急車の事例にしろ、啓発活動の事例にしろ、大量の支援を送ることがかならずしも無駄かどうかはわからない。人類の脅威となる感染症を抑え込むためには、過剰なくらいの支援があってもいいと思う。ただし、今回の経験から考えると、支援を効率的に分配する制度を構築することも必要なのかもしれない。

おわりに:人々の持つ「潜在力」を無視してはいけない

本記事では、エボラ出血熱の際、シエラレオネの人々がエボラ出血熱にどのように対応したのか、そして、どのような対策が封じ込めに効果をあげたのかについて見てきた。この記事から明らかになったのは、人々はエボラ出血熱が流行する中で自発的な試みを行ってきたことである。

そうした人々の自発的な試みを理解するには、「アフリカ潜在力」という概念が有効かもしれない。この潜在力という考え方は、京都大学を中心とするアフリカ地域研究者のグループが提唱しているものである。アフリカの人びとは、みずから創造・蓄積し、運用してきた知識や制度(=潜在力)を持っている。潜在力は紛争解決や共生を実現するために有効であるし、紛争処理や人びとの和解、紛争後社会の修復にも活用できる。政府が信用できず、時として危害を加える存在となるアフリカ諸国家においては、こうした人々が自ら培ってきた知識や制度が問題解決にとって重要だという(太田,2016)。

私はエボラ出血熱の流行下で起きたことを調べてきて、シエラレオネの人々が潜在力のようなものを発揮したのだと思うようになってきた。国際社会やシエラレオネ政府は、エボラ出血熱流行の当初、人々の自発的な試みを考慮せずにエボラ対策に乗り出した。しかし、それはうまくいかなかった。その反省を踏まえ、国際社会やシエラレオネ政府は、途中から現地コミュニティとの協力関係を構築することにした。それが功を奏した。

当初、エボラ出血熱の存在を信じることができないまま、政府や国際社会による対策を拒否することしかできなかった人々に対して、「地元で尊敬される人」を動員して、人づてでエボラ出血熱の知識を伝えていった。それにより、人々は次第にエボラ出血熱の存在について信じるようになり、対策も的を射たものに落ち着いていった。国際社会やシエラレオネ政府は、人々の「潜在力」を味方につけたからこそ、エボラ出血熱を封じ込めることができたといえよう。

感染症による危機は、人類史の中で何度も経験された。人類は近代になって初めて感染症の拡大を防止するための知識を獲得した。しかし、上からの一方的な介入では、人々を感染症対策から拒否させる結果になりかねない。西アフリカでの経験は、そのことを物語っている。

参考文献

・CDC (Centers for Disease Control and Prevention) “Outbreak Chronology: Ebola Virus Disease,” [最終閲覧日:2017年9月18日] https://www.cdc.gov/vhf/ebola/outbreaks/history/chronology.html

・Bolten, Catharine E., Articulating the Invisible: Ebola Beyond Witchcraft in Sierra Leone. Cultural Anthropology website, 7 October, 2014, Available at: http://www.culanth.org/fieldsights/596-articulating-theinvisible-ebola-beyond-witchcraft-in-sierra-leone [最終閲覧日:2016年1月7日]

・Health and Education Advice and Resource Team (HEART) (2014) “Ebola: Local Briefs and Behavior Change.” 22 October. HEART.

・McNeil, Donald G. Jr. (2014) “Fewer Ebola Cases Go Unreported Than Thought, Study Finds,” New York Times Online, 16 December. <https://www.nytimes.com/2014/12/16/science/fewer-ebola-cases-go-unreported-than-thought-study-finds-.html>

・Yamanis, Thespina, Elisabeth Nolan, and Susan Shepler (2016) “Fears and Misperceptions of the Ebola Response System during the 2014-2015: Outbreak in Sierra Leone,” PLOS Neglected Tropical Diseases 10(10).

・The World Health Organization (WHO) (2014)”Sierra Leone: How Kailahun District Kicked Ebola out,” December <http://www.who.int/features/2014/kailahun-beats-ebola/en/>

・国立感染研究所(2014)「エボラ出血熱とは」国立感染研究所ホームページ、8月15日改定< https://www.niid.go.jp/niid/ja/diseases/a/vhf/ebora/392-encyclopedia/342-ebora-intro.html>

・太田至(2016)「「アフリカ潜在力」の探求-紛争解決と共生の実現にむけて」松田素二・平野(野元)美佐編『紛争をおさめる文化―俯瞰税制とブリコラージュの実践―』京都大学学術出版会。

・東京新聞、2015年1月22日朝刊、「エボラ熱 対応不十分」

・中川千草 (2015) 「日常に埋め込まれたエボラ出血熱――流行地ギニアに生きる人びとのリアリティ」シノドス、11月5日 <https://synodos.jp/international/15509>

プロフィール

岡野英之フィールドワークに基く政治研究・武力紛争研究

文化人類学者。1980年三重県生まれ。近畿大学総合社会学部・講師。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。西アフリカや東南アジアで現地調査を行い、武力紛争や平和構築、国家の統治(汚職や人脈)について研究してきた。ここ数年はタイ=ミャンマー国境について調査している。最近の論文に「タイにおけるミャンマー避難民・移民支援と武装勢力」(『難民研究ジャーナル』、2020年)、「シエラレオネにおける国家を補完する人脈ネットワーク――エボラ危機(二〇一四-二〇一六年)からの考察」(末近浩太・遠藤貢 編『紛争が変える国家』所収、2020年)。

この執筆者の記事