『わが闘争』とナチズム後のドイツ

歴史の授業における『わが闘争』

 

『わが闘争』の再版をめぐる議論では、このテクストを学校の授業でどのように扱うかにも関心が集まった。『わが闘争』(注釈付)を全国的に歴史の授業で使用するようにしたいというヴァンカ連邦教育研究相の発言も報じられた。ただし、『わが闘争』を授業で利用すること自体は、実は、すでに長く行われてきている。

 

W・ホーファーの編集で1957年に刊行されたナチズムに関する史料集は今日にいたるまで改訂版を含めて通算100万部以上を売り上げているロングセラーだが、『わが闘争』のいくつかの箇所についてはここにすでに抜粋が収録されていた(注16)。

 

『わが闘争』からの抜粋が歴史の教科書に史料として掲載されるようになったのは、アイヒマン裁判、アウシュヴィッツ裁判等の影響により、歴史の授業でナチ時代が詳しく扱われるようになった1960年代半ば頃のことである(注17)。『わが闘争』はその後も教科書に掲載され続けてきており、2016年の調査によれば、バイエルン州のギムナジウム中等段階で認可されている5社、ギムナジウム上級段階で認可されている4社の教科書のすべてに抜粋が掲載されているという(注18)。

 

教科書に掲載された史料が実際の授業でどのように使用されているかを知ることは難しい。しかし、『わが闘争』に限らず、授業でナチ時代を扱う場合に、負の歴史として明確に距離をとるという以外の立場からなされることはまずもって想定できない。

 

そのうえで、『わが闘争』は史料として、すなわち、「史料批判(注19)」の作業を経て、それに基づいてナチ時代に関する歴史記述を支え、理解を深めるための素材として使用されることになるだろう。ただし、ナチ・イデオロギーとヒトラーに対する否定的評価が社会的規範として確立しているだけに、史料批判の作業と倫理的判断が無自覚に混ざり合って教員と生徒のあいだのコミュニケーションが阻害されるという授業実践の例も報告されている(注20)。

 

バイエルン州政治教育センターから刊行された冊子では、『わが闘争』という扱いに注意を要するこの史料をどのように教材として利用するかが検討されていて興味深い。ここでは、『わが闘争』(注釈付)の刊行を踏まえて、『わが闘争』の成立と構造、自伝的記述の虚実、ナチ運動の聖典としての機能、ヒトラーの世界観、『わが闘争』の内容とナチ体制下の政策の呼応、戦後の歴史文化のなかでの『わが闘争』の位置づけという6つの観点から、授業でこの大部の史料集のどの箇所を(注釈を含めて)利用し、どういう問いを立てることで、生徒に何を学ばせるかという提案がなされている。

 

たとえば、ヒトラーが反ユダヤ主義者になったのはいつか、第一次世界大戦での自分の前線体験をどのように描写しているかといった点で事実に反する記述がある箇所を取り上げるという提案がある。そうした嘘や誇張の背景には『わが闘争』の出版を通じて民族至上主義運動の主導権を獲得しようとするヒトラーの意図があったことを生徒に気づかせるのが目的である。

 

また、世界観を述べた部分の文体の特徴(修辞的疑問、二元論、誇張、根拠のない主張)や概念(生物学的概念・軍事的概念の多用)を検討するという提案もある。この作業を通して、ヒトラーの主張を批判的に分析するだけでなく、政治的・イデオロギー的なテクストを批判的に読む能力全般を養うこともできるだろう(注21)。

 

 

神話としての『わが闘争』、史料としての『わが闘争』

 

『わが闘争』は、ナチ時代に特殊な意味をもっただけでなく、戦後ドイツの過去との取り組みにおいても象徴的な位置づけを与えられたことで重ねて神話化されてきた。しかしナチズムを理解するための史料として見たとき、『わが闘争』には、本来、どれだけの重要性を与えるのが適切なのだろうか。『わが闘争』(注釈付)の刊行に対して、歴史家と歴史教員はメディアや政治家ほどの反応は見せなかったが、その背景にはこの問題がある。

 

『わが闘争』とヒトラーだけからナチズムを理解することはできない。それができると考えるのは危険でさえある。ドイツでは、歴史を個人ではなく構造から考えるという1960年代以降の歴史学研究における社会構造史の流れが80年代には歴史教育にも波及した。娯楽・出版・メディア事情を見る限り、ヒトラーを特別視する傾向は今なおかなり広く存在するとはいえ、歴史教育においては、他のヨーロッパ諸国の歴史教科書と比較してドイツの教科書では、ナチズムをヒトラー個人から説明しようとする傾向は弱いとされる(注22)。

 

もちろん、ヒトラーという人物を抜きにしてナチズムを考えることはできない。しかし、その場合でも、ヒトラーについては『わが闘争』以外にも重要な史料は多数ある。これらを踏まえて考えると、『わが闘争』がナチ時代に関する重要な史料のひとつであることに間違いはなく、『わが闘争』(注釈付)の出版は歓迎すべきものではあるが、歴史学と歴史教育に対する実質的な影響は限定的なものにとどまると思われる。

 

『わが闘争』がドイツ社会でもつ特別な象徴性が、今後、急激に失われるとは考えにくい。ドイツの記憶の文化における『わが闘争』の象徴的な位置づけと、歴史の史料としての『わが闘争』の価値のあいだにある乖離は簡単に消えるものではないだろう。『わが闘争』が当時もった危険性と今日もつ危険性のそれぞれをその大きさにふさわしく認識するプロセスは、それでも、このテクストが史料として読まれ、批判的に分析されるなかで徐々に進んでいくと考えられる。その点で、著作権消滅を機に新しい注釈付史料集が刊行され、その存在がドイツ社会で広く認知されたことにはやはり意味がある。

 

 

【注釈】

(注1)Vgl. Marion Neiss, „Mein Kampf“ nach 1945. Verbreitung und Zugänglichkeit, in: Zeitschrift für Geschichtswissenschaft, 60 (2012), S. 907-914. ただし、本文の抜粋に注釈をつけたものが出版されたことはある。

(注2)Institut für Zeitgeschichte (Hrsg.), Hitler. Reden, Schriften, Anordnungen. Februar 1925 bis Januar 1933, 13 Bde., München: Saur, 1992-2003.

(注3)Vgl. Ulrich Baumgärtner, Mein Kampf in der historisch-politischen Bildung, in: Einsichten + Perspektiven. Bayerische Zeitschrift für Politik und Geschichte, 1/2016, S. 5.

(注4)Vgl. Neiss, op. cit., S. 909-913. 一般の古書店では、研究目的での購入に限定したり、目録には掲載しないとの措置がとられることも多かった。なお、どの程度の数の『わが闘争』が個人の手元で所有されているかは分かっていない。

(注5)Vgl. Baumgärtner, op. cit., S. 5-6.

(注6)Vgl. Barbara Zehnpfennig, Ein Buch mit Geschichte, ein Buch der Geschichte: Hitlers “Mein Kampf”, in: Aus Politik und Zeitgeschichte, 43-45, 2015, S. 17-25, hier bes. S. 17.

(注7)Hartmann, Christian et al. (Hrsg.), Hitler, Mein Kampf. Eine kritische Edition, 2 Bde., München; Berlin: Institut für Zeitgeschichte, 2016.

(注8)Vgl. Baumgärtner, op. cit., S. 7; 63.

(注9)Vgl. ibid., S. 7; Gideon Botsch / Christoph Kopke, NS-Propaganda im bundesdeutschen Rechtsextremismus, in: Aus Politik und Zeitgeschichte, 43-45, 2015, S. 31-38, hier bes. S. 32.

(注10)Vgl. Hartmann et al. (Hrsg.), op. cit., Bd.1, S. 6, 11.

(注11)Vgl. ibid., S. 11-12. 『わが闘争』(注釈付)の内容については、拙稿「『わが闘争』(注釈付)の刊行とドイツのヒトラー観」『思想』1112号(2016)133-140頁で紹介した。

(注12)Vgl. Ein Jahr Kritische Edition. “Mein Kampf” verkauft sich 85.000 Mal, in: Spiegel Online vom 03. 01. 2017.

(注13)Vgl. Baumgärtner, op. cit., S. 6.

(注14)櫻庭総『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服』(福村出版2012);武井彩佳『〈和解〉のリアルポリティクス ドイツ人とユダヤ人』(みすず書房2017)126-132頁参照。

(注15)Vgl. Jurist über Nachdruck von „Mein Kampf.“ „Hier testet jemand Grenzen aus“, in: taz.de vom 22. 1. 2017.

(注16)Walther Hofer (Hrsg.), Der Nationalsozialismus. Dokumente 1933-1945, Frankfurt am Main: Fischer Bücherei, 1957. Vgl. Ulrich Bongertmann, Texte aus „Mein Kampf“ im Geschichtsunterricht – schon seit Jahrzehnten! URL: http://geschichtslehrerverband.de/2015/12/25/texte-aus-mein-kampf-im-geschichtsunterricht-schon-seit-jahrzehnten/(最終閲覧日:2017年12月7日)

(注17)Vgl. Thomas Sandkühler, NS-Propaganda und historisches Lernen, in: Aus Politik und Zeitgeschichte, 43-45, 2015, S. 39-45, hier bes. S. 41.

(注18)Vgl. Baumgärtner, op. cit., S. 15-16. ただし、ドイツでは州によって認可されている教科書が異なるため、全体の傾向を論じるためにはすべての州の教科書を調査しなければならない。

(注19)史料批判とは、歴史学研究を構成する重要な基本要素のひとつであり、史料の真正性、作成者と作成時期、作成者の意図、内容と信憑性などを検討することを通じて、史料としての価値を吟味することを言う。ドイツの歴史教育では、中等教育の段階から、個別の歴史的事実についてのみならず、歴史学の方法について学ぶことが重視されている。

(注20)Wolfgang Meseth et al., Nationalsozialismus und Holocaust im Geschichtsunterricht. Eine empirische Befunde und theoretische Schlussfolgerungen, in: dies. (Hrsg.), Schule und Nationalsozialismus. Anspruch und Grenzen des Geschichtsunterrichts, Frankfurt am Main: Campus-Verlag, 2004, S. 95-146, hier bes. S. 127-128; Oliver Hollstein et al., Nationalsozialismus im Geschichtsunterricht. Beobachtungen unterrichtlicher Kommunikation, Frankfurt am Main: Johann Wolfgang Goethe-Universität – Institut für Allgemeine Erziehungswissenschaft, 2002, S. 111-127.

(注21)Vgl. Baumgärtner, op. cit., hier bes. S. 26-30; 37-44.

(注22)Vgl. Sandkühler, op. cit., S. 42. ゲオルク・エッカート国際教科書研究所の調査(2015)による。なお、ドイツのナチズム認識におけるヒトラー中心主義の問題については、前掲の拙稿でも論じている。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

ドイツの歴史教育 (シリーズ・ドイツ現代史)

ドイツの歴史教育 (シリーズ・ドイツ現代史)書籍

作者川喜田 敦子

発行白水社

発売日2005年11月25日

カテゴリー単行本

ページ数201

ISBN4560026092

Supported by amazon Product Advertising API

 

 

シノドスをサポートしてくれませんか?

 

誰でも自由にアクセスできる本当に価値ある記事を、シノドスは誠実に配信してまいります。シノドスの活動を持続的なものとするために、ぜひファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」のパトロンをご検討ください。⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

無題

 

・人文・社会科学から自然科学、カルチャーまで、各界の気鋭にじっくりインタビュー
・報道等で耳にする気になるテーマをQ&A形式でやさしく解説
・研究者・専門家たちが提案する「こうすれば●●は今よりもっとよくなるはず!」

・人類の英知を伝える「知の巨人」たち
・初学者のための「学びなおしの5冊」

……etc.  

https://synodos.jp/a-synodos

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.244 特集:人間が人間らしく生きるために

・黒﨑真氏インタビュー「「非暴力」という抵抗――キング牧師の戦い」

・志田陽子「人権の21世紀――人権とは、螺旋階段の途中にあり続けるもの」

・要友紀子「出会い系/セックスワーク広告サイト弾圧のナンセンスを圧倒する、トランプ政権下のオンライン・セックスワーク・サバイバル」

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「「Yeah! めっちゃ平日」第十四回」