コトバ、オト、そのキレハシを抱きしめて――ニューヨーク・ハーレムの「民族誌的スケッチ」にいたる思考実験

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認識と描写(伝達)での人称の問題

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる

ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

――田村隆一「帰途」

 

けれども、書き進めていくうちに、さらにいくつかの問題が出てきました。そのうちのひとつに、「研究対象」であるはずの相手との距離がありました。これは、フィールドワークの最中にも悩んだ問題でしたが、記述の際にもあらわれました。

 

たとえば、ある「対象」を描こうとする際に、それを突き放して分析することもできます。しかし、それだとある側面については見えてこない、ということがあります。「対象」の傍らにあって揺さぶられながらでないと書けないことがあります。逆にそのことによって書けなくなることもあるでしょう。人の言動のみに焦点を当てていれば、こういう問題はまだ少ないかもしれませんが、その言動にともなってあらわれる、普段は見えにくい「情感」「情緒」「情動」「感情」などを視野に入れようとすると、どうしてもこの「対象」との距離が大きく関係してくるように見えるのです。

 

誰かの痛みや苦しみの経験を聞いたとします。それが自分の親友や恋人や子どもの痛苦である場合と、まったく知らない人の場合とでは、捉え方が変わってくるはずです。そしてまた、それを捉えたあとに、第三者に向けて描き出そうとするときにも、どのようにその「二人称」や「二.五人称」の経験世界を伝達するのか、という問題が出てきます。そんな問題を、洗練されないかたちで漠然と思っているときに、哲学者のウラジーミル・ジャンケレヴィッチやジャーナリストの柳田邦夫が、「死」という経験の人称変化に言及し論じているのを眼にしました(ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ〔中澤紀雄訳〕『死』みすず書房、1978年、柳田邦夫『犠牲(サクリファイス)――わが息子・脳死の11日』文藝春秋〔文春文庫〕、1999〔1995〕年)。「二人称」「二.五人称」という言い方は、かれらの語法から借りたものです。

 

柳田邦夫の上記の本もそうですが、うまく読みこなすことができない本というものがあります。読みたくて手にとるのだけど、ひとつひとつの記述に心身を揺さぶられ、言葉のうちに立ち止まってしまい、背後にある想念が身体に這入りこんできて嗚咽してしまう。線を引いて批評したり分析したりもできるのだろうけれど、それがとても虚しく思える。ただ、「この人には」と思える人物には、紹介したくなる。そんな本です。二人称、二.五人称の距離感で捉えた経験世界を描く文体とは、そのようなものかもしれません。

 

経験記述の人称の議論を批評的に検討する――という風にしてしまうと、また「理論的検討」という名の三人称の記述世界に戻ってしまうので、こうした議論や発想を念頭に、いくつかの文学の記述を見なおしました。文学を論じるためではなく、こうした人称の問題への文学上の取り組み方から学び、物語の構造と記述の展開を通じたリアリティへの肉薄の仕方という点で刺激を受けるためです。

 

たとえば、人種だけでなくあらゆる種類の差別にまつわる根源を見据えて人の情感を捉え描いたジェイムズ・ボールドウィン、戦場のなまなましさを『ベトナム戦記』『渚からくる者』『輝ける闇』と手法とかたちを変えて展開した開高健、自身の戦争体験を引き受けたうえで、対象を変えながらも、組織の大きく見えにくい力とそのなかで身をよじる個の振る舞いに肉薄した城山三郎、いくつもの位相で浮かび上がる「死」というテーマを扱い、それを取り巻く「真実」に記録文学の方法から迫った吉村昭――例をあげていけばきりがありませんが、なかでもいま挙げた作家の作品が、大いに参考になりました。さらに言えば、フィールドワークをしながらずっと対話の相手となっていた(というよりは、お守りのようにして読んでいた)宮本常一と宮沢賢治の言葉を頼りにしました。

 

フィールドワークを始めたばかりの頃、次のような混濁したメモを残しています。

 

限りなく透明に近づいていくところの意識に流れ込んでくることがらを、そのとおりに書き留めたい。一般論や抽象的思考から始めるのではなく、あるいは初めから(訓練されたとおりの)批判的思考をするのではなく、むしろ常識的感覚を持って物事を見るともなく眺め、それをしつづけることで自身に酔うことなくすべてを冷徹に見据えたい。ちっぽけなエゴが消えたあとには、なにが見えるのか。私のなかに浮かぶ宇宙は、皆のなかの宇宙でもあり、同時に私たちは宇宙の中にいる。人文・社会科学とは「常識」に対して、あるいは自らが置かれている「社会」に対して批判的であることだという、教え込まれたディシプリンを信じて疑わない「知識人」たちのノイズを尻目に、自らの方法をつくり出したい。

 

「わたくしという現象」とともに「明滅し/みんなが同時に感ずるもの」。「ただとにかく記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで/ある程度までみんなと共通でもありませう/(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)」(宮沢賢治「序」『春と修羅』)

 

曖昧で判然としない「わたくしという現象」に流れ込んでは通過していく〈実際〉に、賢治はどのような方法を取り得たのか。「《幻想が向ふから迫つてくるときは/もうにんげんの壊れるときだ》」(宮沢賢治「小岩井農場 パート九」『春と修羅』)。

(フィールドワーク中のメモより抜粋・編集)

 

そういう意味では、ハーレムでのフィールドワークの方法上のメンターは、宮本常一と宮沢賢治でした。無謀にも二人に近づきたいと願ったのでした。宮本常一がそうしたように、人びとの生活を、声を、その背後にあるいくつもの生と死との連なりを身体に入れ、憑依させたいと思ったし、宮沢賢治がそうしたように、はからずも見てしまった生成変化する現実の想念を、ひとつの風物として冷徹に描きたいと思ったのでした。(※)

 

(※)宮沢賢治の理解については、見田宗介『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫、2001〔1984〕年)、池田晶子「清冽なる詐術」『事象そのものへ!』(宝藏館、1991〔1987〕年)から特に影響を受けました。宮本常一の理解については、長期フィールドワークを終えたあとに読んだ木村哲也『「忘れられた日本人」の舞台を旅する――宮本常一の軌跡』(河出書房、2006年)に多くを教えられました。

 

 

《周縁》のアメリカ/アメリカの《周縁》――新たなプロジェクト

 

きみは森羅万象の背を撫でる

そして、時の流れにからみあって

太陽にいくつもの影をのこしてゆく

――ソウル・ウィリアムズ(映画『スラム』より)

 

あらためて振り返り、無理にまとめると、アメリカのニューヨーク・ハーレムで取り組んできたテーマは、(1)有形・無形の暴力、あからさまであったり見えにくくなったりする暴力と、(2)そこに生じる痛みや苦しみ、(3)それらに向き合おうとする際に出てくる表現や運動(活動)、の三項の関係を見るということでした。

 

この三項のからみあいのなかで、語りと所作のあいだ、言説と行為とのあいだにズレが生じることがあります。カリカチュア化された極端な例をあげます。ガサツで粗野で外国人に対して差別的ともとれる言動を繰り返す人物が、いざというときには隣人である外国人を助けたり、外国人が集まれる場所づくりに無償で尽力していたり、ということがありました。他方で、民主的で平和的な言動を基調とし、「それは差別発言ですよ。わたしは外国人のことを差別しませんから」と語っていた人物が、巧妙に外国人との付き合いを避けていたり、娘が外国人と結婚するときに血相を変えて反対したりということがありました。わかりやす過ぎる例ですが、この延長線上に描く変数のうちにいくつもの実例があるように思います。

 

個人だけでなく、社会組織や制度、国家などのレベルでも同じようなことが言えるかもしれない。民主主義を標榜する国が、非民主的な軍隊によってその国境を守ったり、非民主的な官僚機構や行政機関によって運営されたり、非民主的な企業活動のなかで利益を得たりするように。

 

偽善的な姿を非難したいわけではありませんし、皮をひっぺがせば「本当の姿」が出てくると言いたいのでもありません。意識的な語りや振る舞いのうえでの寛容さや謙虚さと、あまり意識されない言葉や仕草や振る舞いの傲慢さが、同居し得るし、その逆もまたしかり、ということを確認したうえで、このズレを解釈の内に取り込みたいのです。言い換えると、認識論的な謙虚さと存在論的な傲慢さの同居、認識論的な傲慢さと存在論的な謙虚さの同居、という問題でしょうか。これを紐解いて、解剖していくときに、暴力のメカニズムと反暴力の方法とが明るみに出るのではないか、と考えています。

 

たとえば、このような観点に立ったうえで暴力と芸術、暴力と表現、暴力と文化運動や芸術運動との関係に注目すると、なにが見えてくるのか。そんなことを考えながら、ここ数年は、「アメリカの《周縁》/《周縁》のアメリカ」というテーマで、写真家の友人と旅を重ねています。アメリカ社会自体が、世界のなかで見ると、独特な発展を遂げた「周縁」の社会ですが、そのようなアメリカの社会・文化的周縁に焦点を当て、記録するというプロジェクトです。

 

周縁においては中心が鋭く意識され、構造の歪みが明らかになるのと同時に、そうした歪みを視野に入れた新たな挑戦がおこなわれることがあります。だから眼を向けるのです。とくにアフリカン・アメリカンとアメリカ先住民との関係に注目しています。これまでも共闘や交流や反目などの関係があるのですが、あまり語られてこなかった部分です。また、社会・文化的周縁での「カルチャー・クリエイティヴ」たちの取り組みにも注目しています。たとえば、持続可能な生存のあり方を模索し、電気も水もガスもない土地を買って、そこに自分たちの家を建て、可能なかぎり自給自足に近い暮らしをしている人たちです。

 

場所に関係なく、ディープ・エコロジーやスロー・ムーブメント等の生態系をめぐる実践、非暴力コミュニケーションや非構成的エンカウンター・グループ等のコミュニケーション上の新たな回路の創造、紛争や衝突時のメディエーション等の回復的司法の取り組み、同時代の鋭敏な感受のうえに成り立つ各種の芸術運動に関心を寄せているのも、非暴力や反暴力の試みがどのように生起し得るのかを捉えたいがためです。それらは、この退屈なほど歪んだ世界で、陳腐なほど不均衡で局所的にあらわれる悲痛を受けての《叫び》であり、《怒り》であり、《創造性》であり、《遊び》として捉えられると考えるからです。

 

すべてこれらの命題は

心象や時間それ自身の性質として

第四次延長のなかで主張されます

――宮沢賢治「序」『春と修羅』

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.268 

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・出井康博「留学生という名の単純労働者」

・堀内進之介「学び直しの5冊〈現代社会〉」
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