2018.03.19

ドイツの「中道」とリベラル――2017年連邦議会選挙戦に見る現状と展望

辻英史 近現代ドイツ史

国際 #メルケル

既存政党の敗北と極右の躍進

2018年2月7日、ドイツではキリスト教民主同盟と社会民主党のあいだの連立交渉が成立し、ようやく次期政権成立の目処がたった。前年の9月に連邦議会総選挙が実施されてから実に4ヶ月半。

長びいたと言われた前回の2013年の総選挙でも投票日から3ヶ月後の12月中旬には交渉を終えて連邦議会での首相指名にこぎ着けていたので、いかに今回の選挙結果が波乱を呼ぶものであったかがわかる。

今回の選挙戦は、社会民主党を率いたマルティン・シュルツにとっては、どうも苦しい戦いになってしまった。

連立与党の一方である社会民主党は各種世論調査で支持率低迷が続いていた。選挙戦を戦う顔として、それまで欧州議会の議長として活躍し、ドイツ国内政治にはタッチしていなかったシュルツに白羽の矢が立ったのは2017年の1月だった。クリーンなイメージに加え、親しみやすい笑顔で、アル中を克服したというプライヴェートなエピソードもあり、人間的魅力にもこと欠かないシュルツは、その一方でするどい情熱的な弁舌の持ち主でもあり、支持率回復と政権獲得のため輿望を担って登場した。

彼のもとで社会民主党は当初は3週間で10%も支持率を上げたものの、3月のザールラント州議会選挙、5月のノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙と立て続けに敗北し、みるみるうちに当初の勢いを失っていった。連立政権のジュニアパートナーとして現政権の一角を担っているだけに、表だって厳しい政権批判ができないというジレンマもあった。

選挙の結果、社会民主党は戦後最低となる20.5%の得票しか取れず、議席数は40も減ってしまった。各種の世論調査により、このことは投票前からある程度予想はついていた。心中密かに期するものがあったのであろう、投票日に出口調査で最初の結果予測がでるやいなや、シュルツは連立政権継続を明確に否定して下野することを宣言した。

彼の頭にあったのは、最大野党の党首としてこれから4年間で存在感を発揮して、党の信頼回復と人気上昇を成し遂げ、次の総選挙で政権を奪回することだったのではあるまいか。しかし、それから4ヶ月半、後に述べるように心ならずも連立政権に参加することになったシュルツは、交渉成立と同時に党首辞任に追い込まれた。さらに希望していた新政権での外相就任も党内の反対で撤回させられ、事実上失脚してしまったのである。

この間社会民主党の支持率はさらに低下し、1月に18%、2月には17%と史上最低を記録し続けている。事実上党勢挽回の目処が立たない状況である。過去4年の連立政権の実績に加え、さらにむこう4年間与党として政治の中枢に関わることになったというのに、これはどうしたことだろうか。

有権者の支持を失ったのは社会民主党だけではない。もうひとつの与党であるアンゲラ・メルケル首相の率いるキリスト教民主同盟も、前回の総選挙から一転して7.4%減と大きく得票を減らした。同党の姉妹党で連邦議会では共同会派を組んでいるキリスト教社会同盟の場合は、さらに深刻であった、

バイエルン州の地域政党である同党は、同州ではこれまで圧倒的な強さを誇っており、4年前の総選挙では半分近い得票率であったのが、今回は小選挙区こそすべての議席を確保したものの比例票を大きく減らして38.8%という、これまた戦後最悪の数字にとどまってしまった。両党合計で265議席しか取れなかったのである。

このような選挙結果は両二大政党によるこれまでの大連立政権への明確な反対であったということは明らかである。何よりも衝撃的であったのが、極右政党「ドイツのための選択肢」の躍進であった。同党はドイツ東部を中心に支持を広げ、2016年にはいくつかの州議会選挙で得票率20%以上にも達した。前回連邦議会選では惜しくも議席を獲得できなかったが、今回ついに得票率12.6%で94議席を獲得した。これは立派な数字であり、党首アレクサンダー・ガウラントは勝利宣言で「これから政権を追い詰めるぞ、メルケル氏だろうが誰だろうが追い詰めるぞ」と気勢を上げた。

多くの調査が、この極右の躍進はこれまでの政府への批判票を集めたためであると分析している。そのほかの中規模政党、つまり左派党、「緑の党」、自由民主党もすべて前回よりも得票を伸ばし、自由民主党は4年ぶりに連邦議会に返り咲いた。

ミリューの解体と「中道」への注目

既存大政党の敗北と極右の躍進。これは現代のヨーロッパでは珍しい現象ではない。これは、ながらく議会制民主主義の本場であったヨーロッパが今や政治的に不安定な時代を迎えているのだと冷笑を含んで速断されることもあるが、ドイツの場合はいささか違う。

ドイツの政治制度は、連邦と州という分権構造があり、全国的な基盤を持ち、その両方にまたがって政権を担う能力のある、一定以上の規模を持つ政党の果たす役割が大きい。さらに連邦議会と州議会の選挙には小党分立を避けるための5%条項(比例票の得票率が5%を超えないと、その政党は議席を獲得できない)があるため、ここでも大型の政党が有利になる。

また連邦首相は恣意的に連邦議会を解散できず(自らの不信任案を議会に上程し可決させた上で、連邦大統領に願い出て議会を解散してもらうしかない)、野党は代わりとなる首相候補を立てない限り不信任案を議会に提出できないなど、政府と議会の関係を不安定化させないための仕組みが設けられている。

カリスマ的リーダーに率いられた運動が急成長し、既存大政党を押しのけて政権を掌握するといったポピュリズム政治的状況はドイツでは起きておらず、今後そのようなリーダーが出現してくる可能性も低いのである。

このようなドイツの政治構造は、第二次世界大戦後の西ドイツ建国期以来のものである。当時の社会はいくつかのミリューと呼ばれる社会的プロフィールのはっきりした集団に分かれていた。ミリューは地域、職業、所得、文化的な選好、宗派など共通の要素を持つ人びとの集まりで、それぞれの特定の政党支持と結びついていた。

政党政治においては、キリスト教道徳を基盤とする保守派ミリューの支持するキリスト教民主同盟と、それに対し労働者を中心とする左派ミリューと結びついた社会民主党が二大政党体制を構築し、それが長らく基本的な構図となっていた。人びとはどこかのミリューに所属し、ミリューの支持政党を通じて政治と接続していたのである。

こうした1950年代以来のミリューを単位とする社会は、西ドイツの政治経済が安定し、近代化を遂げるなかで次第に変化していった。

1968年の学生運動や1980年代の新しい社会運動の拡大はこうしたミリューに支えられた政治構造への批判と異議申し立てであり、結果的にそれを弱体化させた。1990年以降、再統一による東ドイツ社会の組み込み、さらに冷戦終結後のグローバル化の進展によって、社会のなかのミリューによる区別そのものが大きく揺らいできた。人びとは以前のように特定の地域や職業、生活スタイルに縛られなくなり、したがってどこかのミリューに所属せず、支持する政党も固定されたものではない人びとが増えてきた。

そうした人びとの居場所を、ドイツでは「中道」(Mitte)と呼んでいる。「中道」はとくに所属するミリューを持たない大勢の人びとが集まる場所である。経済的には比較的安定した中間階層を中心とし、政治的には左派でも右派でもない(日本語の語感と異なり必ずしも“穏健”という意味にはならない)。

各政党は、徐々に弱体化する自前のミリューにこだわりつづけるのではなく、新たな支持を集めるため、この「中道」をターゲットとする政策を選択する必要に迫られてきた。この動きは2000年代以降ますます加速し、とくに二大政党は支持者を特定のミリューに依存しない「国民政党」となったと言われる。

しかし、こうした「中道」路線は、一方でなお数多く存在しているミリューに依拠した支持者の反感を買い、彼らの離反を招くおそれがある。たとえば、1998年に誕生した社会民主党のゲアハルト・シュレーダーを首相とする政権は、社会福祉の大幅な切りつめをおこない、さらに時短労働やパートなど低所得労働を可能にする改革「アジェンダ2010」を推進した。

このような構造改革はかねてドイツ社会に必要であるとの声が高まっていたもので、労組と大企業の双方に太いパイプを持つシュレーダーでなければ実現不可能だった政策であったが、それまで社会民主党を支えてきた労働者から見れば、このような政策は裏切りに近い。社会民主党を支えてきた低所得者層は、所得再分配の強化を唱える左派党へと流出したのである。

現在政権を担当しているキリスト教民主同盟のメルケル首相も「中道」よりの政策で知られる。2011年には、それまでの政策を一転させてドイツ国内にある原子力発電所の早期閉鎖を決定した。これは福島第一原発の事故を受けたドイツ世論の変化を敏感に察知したものであった。

また2015年にはシリア・イラクからの大量の難民がヨーロッパに殺到する欧州難民危機が発生した。このときもメルケル首相は保守派からの激しい批判にもかかわらず、人道に対する責任を理由に難民の受け入れを断固として継続したのであった。

のちに述べるが、難民の大量流入に対して不満を持つ層のもつおよそ100万票がキリスト教民主同盟から極右政党「ドイツのための選択肢」へと流れたと言われており、それが今回2017年の連邦議会選挙の敗北の原因だという意見は強く、友党キリスト教社会同盟の党首ホルスト・ゼーホーファーは選挙後すぐに「右の側面を固める必要がある」と発言して政策の保守化を要求した。選挙結果に関係なく現路線の継続を言明していたメルケル首相も、結局はこうした声に屈する形で難民受け入れ年間人数の上限を設定することに同意したのである。

さらに、二大政党はそれぞれ自前のミリューから「中道」へと軸足を移しつつあることから、期せずして両党の政策が近似していくという現象が起きている。このことも有権者に対する両党の訴求力を減らし、第三の選択肢として二大政党以外の中規模政党の存在感が増加していく原因になっている。

一方で二大政党はともに議会での勢力が減少し、かつ政策が近似してきた結果、両党で大連立を組んで政権を構築するチャンスが増えた。とくに前回2013年の総選挙のようにたまたま中規模政党がいずれも振るわない場合、安定政権を作ろうとすると大連立以外に選択肢がない状況も生まれている。

ドイツでは西ドイツ時代から長らくどの政党も単独で過半数は取れず、二大政党のどちらかが中規模政党と連立して政権を担当するのが常道であり、大連立はごく例外的に1960年代後半に4年間あっただけだったが、2005年以降はすでにメルケル政権3期のうち2期8年間、そして次の政権もそうなるとすれば合計12年も大連立が政権を担当することになる。

「ジャマイカ連立」の失敗

二大政党のうちとくに支持率の落ち込みが激しいのは社会民主党である。ドイツ東部の州では支持率が10%そこそこにまで落ち込んだところもあるほどで、ジュニアパートナーにしかなれない状態で大連立政権に参加しても党の勢力維持の上でかえってマイナスであることは党首マルティン・シュルツにはわかっていたはずだ。それがなぜ次期政権も大連立という枠組みにならざるを得なかったのか。それは連邦議会に議席を持つ他の中規模政党の動向と関係している。

現在のドイツの政局は、二大政党がバッテリーを組み、ともに連邦政府に参加した経験を持つ自由民主党と「緑の党」の2つの中規模政党がともに内野を守り、左右の外野から左派党と「ドイツのための選択肢」が機をうかがうという構図になっている。見かけ上は計6つの党の間で連立が可能であり、相当多くの選択肢が可能であるように見えるが、実際はさほど多くはない。

連立政権を組む際にまずは第一党であるキリスト教民主同盟が中心になるのは当然であるが、「中道」化しつつ従来の支持層である保守ミリューにも配慮する必要がある同党にとって、最左翼に位置する左派党、今回連邦議会に初めて進出した極右の「ドイツのための選択肢」は連立相手として問題にならないのである。メルケル首相は投票前の党首テレビ討論において、選挙結果のいかんにかかわらずこの両党とは連立しないことを明言していた。  

2017年9月の総選挙後、シュルツの社会民主党が早々に政権不参加を表明したために、選択肢としてはキリスト教民主同盟(とキリスト教社会同盟)、自由民主党、「緑の党」の三党連立しかあり得なかった。

この三党は早速連立協議を開始したが(それぞれの政党シンボルカラーにちなんで「ジャマイカ連立」と呼ばれる)、1ヶ月ほども交渉を続けたあげく11月19日になって、突如自由民主党党首のクリスティアン・リントナーは基本的な政策の不一致を理由に協議の打ち切りと連立政権不参加を表明したのである。

個々の課題の検討においてキリスト教民主同盟側が「緑の党」の主張を優先して自由民主党の政策を連立協定に取り入れることに消極的であったという批判がなされた。このままでは「形式的な妥協」が不可避であり、それは結局納税者市民の負担増になる。「間違った政治をするよりは、いっそ政権に参加しない方がいい」というのがリントナーの弁である。 

ドイツの議会制度においては多数派に基盤を持たない少数内閣はきわめて運営困難である。したがってどうしても連立政権が成立できないとなれば連邦議会選挙のやり直ししかない。しかし、それは過去に例がないうえに、ますます政治の機能不全を印象づけることになる。

再選挙となれば当然既存政党は惨敗し、外野にいる左派党や「ドイツのための選択肢」を勢いづけるだけの結果になるだろう。そうした観測が強くなったとき、調停に動いたのは連邦大統領シュタインマイヤーであった。同じ社会民主党出身の大統領直々の説得の前に、シュルツは不本意ながら大連立参加を受け入れたわけである。

このように今回の連邦議会選挙後の政権成立が年を越して長引いてしまった背景には、4つの政党間の角逐があった。「国民政党」たる二大政党に対するに、それより小さい2政党は埋没することなくますます自らの旗幟を鮮明にし、政策を有権者に訴えていく必要がある。そのためには連立政権参加だけが正しい選択肢ではあり得ない。

このように各政党がしのぎを削る状況のなかで「歴史的なプロジェクト」と呼ばれたジャマイカ連立が失敗に終わったことは、安定した政権構築がドイツでも困難化してきていることを強烈に印象づけるものであった。

鍵を握るのは「中道」の支持である。両二大政党が「中道」に食指を伸ばしてきているだけでなく、「緑の党」と自由民主党はともにこの「中道」に主たる地盤を持っているからである。いまや「中道」こそがドイツ政治の帰趨を決定するようになってきているのである。

「中道」リベラルと環境

「中道」と一口に言っても、ミリューの解体を受けて、保守や左派から雑多な集団が流れ込み、多様化し流動的な混沌とした状況が生まれている。一見捉えがたい集団である。しかし、そこにはミリューとはもはや言えないまでも、いくつかの特定の価値観を中心としたまとまりが存在している。そのひとつが歴史的に古いリベラルという価値観であり、もうひとつが新しく2000年ごろになって「中道」に進出・定着してきた環境という価値観である。

ほぼ1970年代ごろまでは、「中道」もひとつのミリューとしてまとまっており、そこは伝統的にリベラルによって規定されていた。このリベラル・ミリューの起源は古く、19世紀前半にまでさかのぼる。

その中核にあるのは自由で独立した個人が対等に関係を結んで社会を形成するという理想像であり、人権や財産など各種の自由権を至高のものとして国家権力や支配者による介入や恣意的決定に反対した。その政治的目標は法の支配と民主主義の貫徹であった。19世紀においてこの思想をリードしたのは都市の開明的な有産階級や知識人であり、当時は保守的な貴族や農民と、社会主義的な労働者階級とにはさまれた「中道」という位置づけであった。

こうした当初のリベラリズムの目標は戦後のボン基本法を経て現在のドイツではほぼ実現されているが、戦後西ドイツ社会のなかでリベラルはさらに内容を進化発展させて「中道」をたばねる主導的な価値観として力を保った。その内容は自由主義市場経済の貫徹という経済リベラリズムの側面と、個人の生存権と公平性の擁護という社会リベラリズムという両側面をもつものであった。

政治勢力としては自由民主党が母体であり、中小自営業者、公務員、会社員といった経済的に安定した層をその主要な支持母体とする同党は、上記の両側面を交互に使い分けることでキリスト教民主同盟と社会民主党の二大政党の間でキャスティングボートを握り、そのときどきの情勢に応じて連立相手を乗りかえることで政権交代の際に重要な役割を果たすことが出来た。

自由民主党は規模においてははるかに弱小でありながら結果的に二大政党のどちらよりも長く、1949年から98年までの50年間のうち、37年間まで政権に参加していた。みずから「中道の政党」(Partei der Mitte)を名乗っていたのもあながち故のないことではない。

この「中道」の代弁者としての自由民主党の地位は、環境という新しい価値観を掲げる「緑の党」により脅かされることになった。環境運動や平和運動など、1970年代後半から80年代に隆盛を迎えた「新しい社会運動」を母体とする「緑の党」は、当初は左派の政治勢力として成長し、1983年に連邦議会に初の議席を獲得、1998年には社会民主党と連立して初の政権参加を果たした。

しかし「緑の党」はこの頃から、二大政党に先駆けて急速に「中道」政党化していく。有名なのはコソヴォやアフガニスタン紛争におけるNATO域外へのドイツ連邦軍の派遣への賛成であるが、そのため2005年にいったん下野したあとは一時党勢が低迷した。2008年にはエアフルト党大会で新コンセプトを採択し、それまでの環境保護一辺倒から、環境(エコロジー)と経済(エコノミー)の結合を訴え、環境に配慮した技術革新の積極導入による持続可能な社会の実現という「グリーン・ニューディール」を新たな旗印としたのである。

これにより、同党は「中道」の経済的に安定した層にもアピールすることが可能になった。また、環境保護は一国では完結しないので、「緑の党」は当然EUとの連携にも積極的である。そのほか、外国人との多文化共生や性的少数者の権利擁護を主要な主張にしているなど、従来からの左派的な主張も残されており、「中道」から左派にかけて広く支持を集めている。

「緑の党」の支持者は大卒以上の高学歴者が中心で所得水準が高い。また女性の割合が高く、比較的年齢が若いのが特徴である。都市に暮らし、環境や人権に関心のある男女の高学歴勤労者といったイメージである。「緑の党」は現在各種の選挙で安定的に10%台の得票を獲得できる状態で、現在8つもの州で連立政権に参加している。

このような「緑の党」の変貌は、同様に「中道」寄りになってきた二大政党との距離を縮めることになった。連邦や州で連立政権を組んだことも多い社会民主党とのあいだだけでなく、最近はとくに以前は水と油のようであったキリスト教民主同盟との関係改善が顕著である。

ごく初期の「緑の党」には郷土愛を重視する保守的な勢力もいたが、それらはいったん党が左派勢力として発展する過程でパージされていった。それが、00年代後半に入ると双方の「中道化」を受けて、再度「緑の党」と保守勢力との連携が視野に入ってきたのである。この両者の提携は、シンボルカラーにちなんで「黒緑連立」と呼ばれる。2008年にはハンブルク都市州で初の黒緑政権が成立し、また2011年にはバーデン=ヴュルテンベルク州でも「緑の党」の首相の下で両党が連立政権を発足させた。

自由民主党の低迷

本来、リベラルは人間固有の権利を重視する価値観であるから、環境問題との親和性は高いはずである。事実環境への関心は左派だけでなく1970年代から「中道」のなかにも次第に強くなってきていた。背景にあるのは社会全体でのミリューの弛緩の進行であり、リベラル・ミリューも例外ではなかった。

「中道」は多様化しつつあったにもかかわらず、自由民主党はそれに対応するのが遅れた。同党とリベラル・ミリューは「中道」を固めきれなくなり、「緑の党」の台頭を許したのである。環境はリベラルと並立する価値観としてドイツの「中道」のなかに根をおろしていった。さらに先に述べたような二大政党の「中道」接近が始まると、ますます「中道」はリベラルのものではなくなっていった。

こうした変化を読み切れず、長年「中道」の中核をなす経済的に安定した経営者や自営業者層の支持に依存していた自由民主党は、いつの間にか既得権益化しエスタブリッシュメント化した彼らの利害を第一に考える「クライアント政党」にすぎなくなっていったのである。

同党は1990年代にはいると党勢低迷が顕著になる。連邦議会選挙では議席を死守したものの州議会選挙で敗北がつづき、1992年には16のすべての州で州議会に議席を持っていたのに対し1995年にはわずか4つの州のみとなり「下半身のない淑女」(「張り子の虎」の意)と揶揄されるほどであった。1998年には長らく続けてきた連邦での政権参加も途切れた。自由民主党はこの苦境を脱するために90年代後半から2000年代を通じてさまざまな新路線をおこなうが、いずれもかえって本来のリベラルが持っていた理想や価値観から逸脱してしまうものだった。

新路線のひとつは、さらなる保守化である。これには左から出てきた新興の「緑の党」に対抗し、本来の支持層である有産階級をつなぎ止めようとする狙いがあった。「緑の党」が存在している限り、1970年代に可能であったような社会民主党との連立は考えにくくなったので、その分キリスト教民主同盟との距離を接近させるねらいもあった。自由民主党はたとえば行き過ぎた再生可能エネルギーの推進に警鐘を鳴らし、EUの拡大にも消極的で、外国人市民との多文化共生政策には慎重な姿勢を取り、移民の積極的受け入れにも反対した。

しかし、こうした保守化傾向が、リベラルの本来持っている個人の自由と平等、オープンな社会という原則と衝突する部分があるのは明らかである。たとえば1995年に自由民主党は党員投票をおこなって、捜査機関による容疑者住宅への盗聴機設置を合法とする判断を示した。組織犯罪から市民を守るためという大義名分であったが、これも住居の不可侵というリベラルの原則からすれば大いに疑問な判断であった。

もうひとつは、当時世界を席巻しつつあった新しい経済思想であるネオリベラリズムへの傾斜であった。社会支出や補助金の抑制、減税と規制緩和をおこなって市場原理を強化し、産業構造を時代の要請にあったものに改革すること、さらに教育の機会均等と、努力が報われる社会を要求するネオリベ路線は、当時の時流に乗って一時的な成功を収めた。

党首グィド・ヴェスターヴェレのもと自由民主党は2009年の連邦議会選挙では大幅に盛り返して14.6%という党史上最高の得票率で第二次メルケル政権入りすることになった。しかし、この路線は他者の犠牲をものともせず冷酷に経済的成功だけを追求する「高額所得者の党」というイメージを作りだしてしまった。しかも当時はギリシアやイタリアの債務危機に端を発するヨーロッパ経済危機のただ中にあり、公約の目玉であった減税にはいたって不向きな状況であった。

4年間の連立政権参加中自由民主党はその公約をまるで実現できず、成果を誇ることも出来ないまま次の2013年の総選挙では比例票が前回の3分の1になってしまい、得票率5%を下回ったため史上初めて連邦議会から姿を消すに至ったのである。本来のリベラル路線を見失って迷走したあげく、自由民主党の第二の低迷期が始まった。

リベラルの新しい政治プログラム

党の再建は新しい党首のクリスティアン・リントナーに託された。1979年生まれと若く、痩身長躯、眉目秀麗な彼は、大学で政治学を学び、若くして会社を設立したり、連邦軍の予備将校としても勤務経験がある。いかにも万能の秀才エリートタイプであるが、彼の自由民主党が目指したのは、ネオリベでも保守でもなく、本来のリベラルの路線に立ち戻ることであった。

彼によれば、リベラルとは「生きているという実感」であるという。「誰にも依存していないという実感、自分の一生を自分で決めて良いのだという実感、自分で責任をとるのだ、自分の能力に自信があるという実感、自分には所得があり、それを自由に使えるのだという実感」。「こうした姿勢、自由に対する欲求は、職業、収入、年代、性別に関わらず存在している。私は大勢の人が同じように感じていると確信している」。

この自由な個人の生き方を可能にしていかねばならない。個人が誰であれ自由にイニシアティヴを取り、挑戦できるように、チャンスを与えられるようにしなければならない。「この我々が求めている『チャンスの共和国』においては人びとのあいだの違いはたったひとつしかない。それはどこから来たのか、ではなく、どこへ行こうとしているのか、である」。

重要な役目を果たすのは国家である。個人の自由の擁護に資する制度や原則、法治国家、民主主義、社会的市場経済、オープンな社会などはすべて政策として賛成・促進の対象となる。逆にそれを妨げるような官僚主義、新規参入障壁、高い税、そして不十分な教育制度や設備は、すべて撤廃ないし徹底的改革の対象にすべきだ。

これをリントナーは「360度リベラリズム」と名付けた。それはまたエゴイズムと冷酷さの対極にある。個々人の権利を認め、それを相互信頼にもとづいて尊重し合うという点において、「共感のリベラリズム」なのである。

このようにリントナーの目指す新しいリベラルの政治的プログラムの根底にあるのは19世紀以来のリベラルな個人主義の理念への回帰である。リントナーは保守化路線を否定し、そのためにノルトライン=ヴェストファーレン州の同党議員の重鎮で長年の盟友だったゲルハルト・パプケと袂を分かつことも辞さなかった。また頻繁にマスコミに登場して、ネオリベではないことをさかんに強調した。

さらに党のシンボルカラーとして19世紀以来の黄色と1970年代から使われるようになった青色に加えてマゼンダを採用、大手広告代理店の協力のもとイベント、ポスター、標語、候補者の服装に至るまで統一され巧みに演出された選挙戦を戦った。こうして自由民主党は見事に連邦議会に返り咲き、連立政権参加も視野に入ったが、ここでリントナーは自党の主張を十分に連立政権の政権に反映させられないとみるや、ただちに政権協議から降りてしまったのは上に述べたとおりである。

このリントナーの保守化でもネオリベでもない本来のリベラルを追求する路線が、自由民主党の長期的安定を可能にするのか、ふたたび「中道」を席巻し、ドイツ社会に広く受け入れられる価値観となることが出来るのか、それは現時点ではまだわからない。しかし連立離脱により多少の支持者離れは起きている模様である。

「不安」と「不満」

2018年3月4日、社会民主党の臨時党大会は大連立政権参加を承認し、これで第四次メルケル政権発足に向けた最終的なハードルは乗り越えられた。大連立といっても連邦議会の与党は両党合わせて6割もなく、史上最小の大連立政権である。このような結果をもたらした2017年から2018年のドイツ政局を振り返ると、極右の躍進という現象を見逃すわけにはいかない。

人種差別やナチスのおこなった犯罪行為を相対化する内容の発言を幹部の口から無数に吐き出している「ドイツのための選択肢」が、経済的に低調な東部の諸州だけでなく、保守の牙城のバイエルン州や、これまで極右勢力の新党がほとんど見られなかった西部の諸州でも勢力を相当に拡大させたことは、ドイツ社会に衝撃を与えた。同党は連邦議会において無議席から一躍野党第一党の地位を手にしたのである。

これは疑いもなく大連立政権と二大政党に対する批判票である。キリスト教民主同盟から100万票、社会民主党から50万票、小政党に投票したり前回投票しなかった層からも220万票が「ドイツのための選択肢」に流れた。では、なぜ多くの有権者はそのような批判をおこなったのだろうか。

その理由は大きく分けて二つあるだろう。ひとつは、「不安」である。2015年に発生したヨーロッパ難民危機によって、ドイツに大量の難民が流入し、その数は2015年で約89万人、2016年で28万人に達した(2017年は約19万人)。この難民をどのように受け入れ、ドイツ社会に統合するのかという巨大な課題が浮上したのである。

難民たちは受け入れセンターに集められて登録や庇護権申請の手続きをしたあと、最終的には各自治体に割り当てられて庇護権申請が認められるかどうかの判定が出るまでを過ごすことになる。個々の事情は同情すべきものがあるとしても、大量の「よそ者」が急に身の回りに出現することは、多くのドイツ人に極度の心理ストレスと「不安」を与えたのである。それはとくに外国人が暴力事件や性犯罪を引き起こしているという意識になって現れた。

実際にはドイツに流入した難民や外国人の犯罪率はさして高くはなかった。しかし、2015年の大晦日にケルン市の中央駅でおこった女性集団暴行事件にも難民が関与していたと報じられると、難民への風当たりは一気に激化した。また、難民は庇護権申請が認められた場合はドイツでの就労と定住を認められ、家族の呼び寄せも可能になる。これが一部のドイツ人の間に「国を乗っ取られるのではないか」「ドイツ文化が侵食される」という恐怖を巻き起こした。

申請が認められなかった場合は、国外退去処分が原則であるが、難民の側の異議申し立てが可能であり、処分の執行が迅速におこなわれなかったことも、こうした感情を増幅させた。「イスラムはドイツに属していない」、「ドイツ人のためのドイツ」、「ブルカ?我々が見たいのはビキニだ」などのスローガンが示すとおり、「ドイツのための選択肢」が主に訴えかけたのは、こうした「不安」をもつ人びとに対してであった。

もうひとつの理由は、「不満」である。現在ドイツ経済は好調で、各種の経済指標も順調に推移している。しかし、この繁栄を生み出すためには相当の社会経済制度の「荒療治」が必要であり、それは経済効率のために社会内部での富の再分配を犠牲にする方向に作用した。その結果ドイツ社会の内部には格差の開きが確実に大きくなってきている。

いまドイツの大都市で繁華街の街角を歩けば、物乞いをするホームレスの姿や、わずかなデポジットを生計のたしにしようと空き瓶や空きペットボトルを求めてゴミ箱をのぞく人を目にしないことの方が少ない。品質保証期限切れの食品を安価もしくは無料で配布する民間団体やスーパーの存在もニュースでよく取り上げられる。

一方で減税は不十分であり、中流階層に対する課税負担は高いままである。2013年の選挙でも重要な争点になったにも関わらず、大都市を中心に育児施設の不足はなおも深刻である。日本と同じく少子高齢化社会であるドイツでは、年金・医療を中心に社会保険の公的負担が重くなっており、給付を縮小して制度の維持を図っているため、老後の不安を抱える人びとも多い。さらには、過疎化が進んで基本的なインフラすら維持できなくなった地区もある。

その一方でいくつかの大都市は転入者が殺到しているため住宅不足に陥って家賃が高騰し、適当な住宅を見つけることが出来ない人も多い。2017年10月にベルリンの人気住宅街プレンツラウアー・ベルクで、ある大家が80平米の賃貸住宅を格安の月1000ユーロ(約13万5千円)以下で提供しようとしたとき、1日で800人を超える人が下見に訪れ、話題になった。

これらは2017年の選挙戦終盤にメディアがとくに好んで取り上げたテーマであった。このような状況に責任があるのは誰なのか。これまで政権を担当して失業を減らすために低賃金労働を許容する一方で公的社会支出を抑制する改革をおこなったのは二大政党である。他の既存政党も多かれ少なかれ責任がある。

それにもかかわらず今回の選挙戦では、起業と再チャレンジの重要性を訴えて教育政策の革新と充実を説いた自由民主党がめだったくらいで、格差の問題に正面から向き合おうとした政党は少なかった。たとえば、シュルツ率いる社会民主党は、選挙戦が本格化してきた2017年5月の段階で「社会的公正により多くの時間を」というスローガンを掲げた。しかし、この迫力のない文句には何ら具体的な提案がともなっていなかった。

また、左派党は唯一格差是正と貧困対策の問題に積極的に注力した政党であった。しかし、低賃金労働の制限、家賃上昇抑制、年金給付の増額と、その提案はまことに壮大であったが、対するにそのための財源は富裕層に対する増税を軸としており、実現可能性に疑問があった。ともに選挙民を引きつけるには至らなかったのである。

ただし、格差を争点にしなかったことは「ドイツのための選択肢」も同じで、言いかえれば、これらの「不満」をいだく人びとは、別にその解決を期待して「ドイツのための選択肢」に投票したわけではない。まさに既存政党に対する「不満」のはけ口を同党に求めたのである。

極右に対する防壁

こうした「不安」と「不満」は、「中道」はもちろん保守から左派にいたるまでドイツ社会のなかに広く存在しており、それらの人びとを今回の選挙でもっともうまく引きつけることに成功したのが、「ドイツのための選択肢」であった。このまま「不安」と「不満」を抱え込み続ければ、「ドイツのための選択肢」はさらに勢力を拡大し、遠からぬ将来、まずは州レベルで政権に参加するようになるだろう。

とくに現在東部ではキリスト教民主同盟、社会民主党、「緑の党」と自由民主党を全部あわせても6割程度の支持率しかない州がいくつもあり、州議会での多数確保という理由だけでも早晩左派党か「ドイツのための選択肢」の政権入りを検討せざるを得なくなる状況である。

政権入りはまだ先の話としても、現在の「ドイツのための選択肢」は、党首ガウラントも認めるように、なお体系的な綱領を持っておらず、当面批判政党の役割に終始することになろう。「不安」と「不満」を吸収できる同党が、勢力拡大のみを自己目的化して人種差別や外国人敵視をあおるアジテーションを繰り返したり、議会審議でなりふり構わず世間の注目を浴びるだけのための行動をとり続ければ、ドイツ政治と社会の混乱は避けられない。

このような「右翼化」のもたらす不安定化の危険が、今後のドイツの政治と社会を包み込んでいくことになる。先の選挙で有権者の厳しい審判にさらされた大連立政権は、経済の好調を維持しつつ各種の格差を是正し、難民や移民の背景を持つ人たちの社会統合を進めていくという難問に直面している。それにどう対処していくか、まずは注目したいところであるが、ここでもうひとつ希望がある。それは「中道」である。

2017年の選挙で、「ドイツのための選択肢」にほとんど票が流れなかったのは、前回の選挙で「緑の党」と自由民主党を支持した層だけであった。「中道」はすでに述べたとおりさまざまなミリューから人が流れ込んでいる雑多な集団であるが、そこに定着した環境とリベラルという2つの価値観は、ドイツ社会を覆った「不安」と「不満」の高まりにかかわらず、極右の台頭に対する防壁になっていると考えるべきである。とくに自由民主党の復調ぶりは著しく、党首リントナーの唱える再生された個人主義リベラリズムは今後のドイツ社会のなかでさらに積極的な役割を果たすようになるかも知れない。

このリベラル思想の特徴は、個人に照準をあわせて、ひとりひとりに成功や苦境からの脱出、社会的上昇のシナリオを提供できるところにある。そしてそのために必要な条件づくりを社会に要請する。誰もが自由に生きることが出来る社会を、というその主張の説得力は強く、訴えかける力は大きい。それは格差が広がってきた現在、また多くの外国人を抱えるドイツ社会において重要な意味を持つことは間違いない。

しかし、再生されたドイツのリベラリズムが今後このような影響力を得ることができるかどうかについては、しかしなおいくつか克服すべき課題がある。ひとつは、リベラルの与える成功の約束が、現状ではやはり「中道」に限定的なものにとどまっていること、もっといえば「ドイツ人」に限定されていることである。

リントナーにしても、外国人移民の受け入れはドイツ経済に利益をもたらす技能労働者に限定すべきだという見解である。リベラルの本来の自由で平等な個人という精神に立ち返り、難民や移民の背景を持つ人の統合をすすめ、より一層のオープンな社会へと向かう努力が必要である。

もうひとつは、リベラルのもつ国権主義的傾向である。自由民主党のプログラムには、リベラルな社会の建設には国家行政の果たす役割が強調されており、そこで市民が能動的に果たすべき役割についてはまったくといって良いほど触れられていない。国の政策だけでリベラルな社会が実現できるのだろうか。市民参加、住民参加のイニシアティヴは、どのような位置づけを与えられるのだろうか。

リントナーのもと自由民主党がどこまで過去のしがらみを切り捨てて、「クライアント政党」からリベラルの政治理念を貫く「プログラム政党」への転換をとげることが出来るか、これから問われていくことになるだろう。

プロフィール

辻英史近現代ドイツ史

1971年京都府生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。専門は近現代ドイツ史。法政大学人間環境学部教授。2017-18年ミュンヘン大学客員教授。主な業績に、『社会国家を生きる』(共編著、法政大学出版局)、『歴史のなかの社会国家』(共編著、山川出版社)など。

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