2018.03.29

「アラブ」と「米国」の隘路で――日本の中東和平外交はどのように成立したか

池田明史 現代中東政治

国際 #イスラエル#中東和平交渉#アラブ

エルサレム首都認定問題

2017年12月、米国のトランプ政権は、エルサレムをイスラエル国家の首都と正式に認定し、現在テルアビブに所在する米大使館をエルサレムに移転させるとの意向を表明した。これに対し、当事者であるパレスチナ自治政府はもとよりアラブ世界は直ちに反発し、国際社会もまた一斉に懸念を示した。

この結果、12月21日の国連総会はトランプ政権の認定は国際法に違背し、エルサレムの一方的な現状変更を認めないとする決議を賛成多数で採択した。総会決議に拘束力はないが、採択賛成票128カ国、反対9か国、棄権35カ国という票差を見れば、米国の孤立は明らかであった。

日本は賛成票を投じたが、これはパレスチナ和平問題について「当事者間の直接交渉による二国家解決案」を一貫して支持してきた立場から当然の行動であったろう。のみならず、ロシアとの間に北方領土をめぐる係争問題を抱えていることから、武力による領土の獲得に反対するという意味でも、イスラエルが1967年の第三次中東戦争で占取するところとなったエルサレムの併合を認めることはできない。

事実、1980年にイスラエル国会がエルサレムを首都とする法案を可決した際、日本は当時の「加盟国はエルサレムに外交使節を置いてはならない」との国連安保理決議(478号)を支持して在テルアビブ大使館の移転を認めず、国連総会でのイスラエルのエルサレム併合を無効とする決議に賛成票を投じている。昨今の北朝鮮に対する国連安保理による累次の制裁決議を遵守せよという日本の国際社会における主張と平仄を合わせるという観点からも、現在なお効力を有する決議478号に真っ向から違反するエルサレムの一方的首都認定・大使館移転の動きに与することはできなかったのである。

もとより日本が国連においてパレスチナ問題に関して米国と異なる投票を行ったのは、これが初めてではない。最近の大きな決議では、2012年のいわゆる「パレスチナの地位に関する総会決議」があった。これは、パレスチナが「自治政府」であって主権国家ではない状況の中で、国連非加盟のオブザーバー「国家」の地位を認めるとする内容で、投票結果は日本を含む賛成票138カ国、米国やイスラエルなど反対票9カ国、棄権41カ国であった。

ここでもまた、日本はパレスチナ問題の解決は「当事者間の直接交渉による二国家解決案」こそ唯一の方策であって、この決議が直接交渉の再開に資するとの姿勢を示し、イスラエルの反対するパレスチナの「格上げ」が交渉再開を阻害すると主張した米国との立場の違いを明らかにしている。

パレスチナ問題の生成と日本

それでは、日本は歴史的に親パレスチナの路線を採ってきたのかと言えば、必ずしもそうではない。そもそも、パレスチナにおける民族紛争が決定的な段階に達した1947年の国連総会決議181号、すなわち英国の委任統治領パレスチナをアラブ系住民(パレスチナ人)とユダヤ系住民との間で分割し、エルサレムに関しては「特別市」として国際管理下に置くとしたいわゆるパレスチナ分割決議と、これに引き続く1948年のイスラエル建国、そしてアラブ側との軍事衝突(第一次中東戦争)が勃発した時期には、日本は未だ米国を中心とする連合国軍の占領支配下にあり、主権を剥奪されていた。要するに、パレスチナ問題の生成については、日本は全く関与する立場になかった。日本が国家としてパレスチナ問題に向き合うのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年以降のことになる。

しかしこの事実は、日本のパレスチナ問題に対する見方の基調を、その後長く規定することになった。欧米が主導した分割決議やイスラエル建国に対して日本は責任を負わず、「手を汚していない」という自覚である。また、高度経済成長期において日本の中東認識はペルシャ湾やアラビア半島のあたりで遮断されていた。

パレスチナ問題は、中東とは言いながら東地中海の懸案であって、歴史的にはヨーロッパ列強の帝国主義的膨張や植民地支配の経緯から発生した紛争にほかならない。その解決に責任を負うべきは列強の負の遺産を引き継いだ欧米であって、日本はこの問題について政治的に敏感になる必要はなく、したがって特段の研究や情報収集に努めようという欲求も生じなかった。

かくして日本は、問題の生成と展開とに関与していないという意味で主観的には「無垢(innocence)」であり、問題の実態に対する知識や情報を欠いているという点から客観的には「無知(ignorance)」であった。その結果、第二次世界大戦後四半世紀以上にわたって、日本はパレスチナ問題に対していわば「善意の第三者」として概ね「無関心(indifference)」を決め込むことができたのである。

パレスチナ問題に限らず、冷戦構造に規定された国際政治の枠組みの中で、日本には本来の意味での主体的な外交を展開できる余地がなかった。唯一の同盟相手であると同時に、最大の輸出市場でもあった米国が、そのアジア政策や中東政策の枠組みを設定すれば、日本はその枠内においてワシントンの意向を汲みつつ対外関係の調整に努めていたに過ぎない。

この時代、パレスチナ問題や中東紛争に際して国連等で表明された日本の立場は、多くの場合米国の主張を幾分か希薄化させることで「より中立的」な体裁を装うものであった。実際、日本の立場は、米国はもとより英仏独などの旧ヨーロッパ列強諸国に比べても中立色が強かったが、それはどこまでも傍観者としての立場であって、パレスチナ問題は同時代のビアフラ内戦やアイルランド紛争と並んで「気の毒な他人事」でしかなかった。

転機としての石油危機

無垢・無知・無関心という「三無主義」路線は、1973年の第四次中東戦争におけるアラブ側のいわゆる石油戦略の発動によって破綻する。石油危機は日本経済を直撃したが、問題はそれにとどまらなかった。アラブ側が主要な石油輸入国を「反アラブ」「非友好」「親アラブ(友好)」の三つのカテゴリーに分類し、英国やフランスなど本来パレスチナ問題の生成に責任を負うはずの欧州諸国が友好国に類別される一方、日本は西ドイツと並んで「非友好」のレッテルを貼られかねない事態となったからである。

それはすなわち、反アラブである米国の追従国と看做されたからにほかならない。アラブ産油諸国による自動的な減産見通しと政治的な輸出差別とが組み合わされ、しかも米国が日本に対して石油の供給を必ずしも保証できないという現実を突きつけられた結果、日本は初めて、主体的な中東政策を立案し遂行する必要に迫られたのである。

それまで、日本の経済成長を支えてきた石油の供給は、セブン・シスターズと呼ばれた国際石油資本(メジャーズ)にほぼ全面的に依存してきており、そのメジャーズは大部分が米国系多国籍企業であった。そして米国は、アラブ側の石油禁輸の最大のターゲットであった。

ここに日本は、日米安保体制の下に米国との協調を核とする政治的な要請(米国ファクター)と、成長維持のためのエネルギー安定供給を不可欠とする経済的な要請(アラブファクター)との間の微妙なバランスを計算しつつ、意識的に独自の中東政策の舵取りを担わされることとなった。

石油危機それ自体は、当時のいわゆる二階堂談話や三木使節団派遣等が奏功して日本は「友好国」類型に移され、事なきを得た。しかし一時的にもせよ、米国ファクターとアラブファクターとの間で「股裂き状態」を経験した日本は、この二つのファクターが正面衝突する事態の回避に努めることを以後の中東政策の基調とするようになったのである。それは1970年代半ばから80年代にかけて、従来の傍観者としての「より中立的」な立場から、主体的に「より中立的」な政策を前景化させていった経緯に示されていよう。

パレスチナ解放機構(PLO)の東京事務所開設(1976年)や当時のヤセル・アラファトPLO議長の初来日(1981年)、あるいは国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を通じた対パレスチナ支援の漸増などに象徴されるそのような政策は、しかし、米国の受忍限度を忖度しつつ、それがそのままイスラエルとの対立に結びつくことのないよう慎重に準備されて実施された。

要するにこの時期、日本は中東において経済的な存在感を高めつつも、政治的には目立たない(Low-Profile)路線を追求し、そのことによって二つのファクター間の軋轢に巻き込まれないよう努めていたのである。

日本外交の転換

1990年代初頭の湾岸危機/戦争は、日本のこうした中東政策に劇的な転換をもたらした。戦後処理のプロセスにおいて米国主導の中東和平会議(1991年マドリード会議)が実現し、それがPLOとイスラエルとの間の直接秘密交渉につながり、そして両者間に公式の和平交渉合意(1994年オスロ合意)が成立したからである。パレスチナとイスラエルとの間に恒久的な和平が成立すれば、日本はもはや米国ファクターとアラブファクターとの間の軋轢や矛盾に懊悩する必要がなくなり、政治的にも経済的にも日本の国益と完全に合致する。中東和平の実現は、したがって、日本外交にとって決定的な戦略的利得と看做されるに至った。

このような判断に基づき、日本は1991年以降それまでの「目立たない」路線をかなぐり捨てて、むしろ積極的に和平プロセスの仲介者として存在感を示す方向に舵を切った。マドリード会議後に始まった中東和平多国間協議においては、米・露・欧州連合・カナダとともに共同議長国となり、環境問題に関する議論のまとめ役となった。

また、オスロ合意以降はそれまでのUNRWA等を通じた間接援助に加えてパレスチナ自治政府に対する直接の人道復興支援および開発援助を開始、現在までに15億ドル以上が拠出されている。なかでも、2006年に日本が提唱したいわゆる「平和と繁栄の回廊」構想は、ヨルダン川西岸ジェリコ近郊に農産物加工産業を中核とした工業団地を造成し、流通ルートを握るイスラエルおよびヨルダンとも連携してパレスチナ経済の持続的な発展を目指そうとするもので、パレスチナ国家創出による「二国家解決案」の実現に向けた日本固有の貢献として広く喧伝された。工業団地は2017年秋に一部が操業を開始している。

いずれにせよ日本の中東和平外交は、独自の戦略的選択の結果として展開されているのであって、米国はもとより、国際社会の動きに自動的に追随しているものではない。トランプ政権のエルサレム首都認定・大使館移転声明をきっかけに、パレスチナ側が米国を「公正な仲介者」として認めないと宣言した直後の2017年末、河野外相は日本が米国と共にイスラエル・パレスチナの間を取り持つ中東和平四者会談を提案している事実もまた、そのような日本の独自外交を物語っているように思われる。

但し、こうした日本の中東和平外交が多少なりとも結実するためには、そもそも当事者であるイスラエルとパレスチナとの双方に、和平交渉に復帰する意志と能力とが認められなければならない。現在の状況を見る限り、イスラエルのネタニヤフ政権には前提条件なしの交渉再開の意志が簿弱であるし、ガザのハマスと西岸のファタハとに分断されたパレスチナ側のアッバス政権に、交渉再開を可能とする能力が備わっているかどうか、極めて疑わしい。結局、経済協力であれ政治対話であれ、日本が現時点で中東和平に貢献できるとすれば、当事者双方の間の意思疎通のチャンネルを中継するなど、環境整備の領域に限られてくるであろう。

プロフィール

池田明史現代中東政治

東洋英和女学院大学学長。1980年東北大学法学部卒業後、同年アジア経済研究所に研究員として入所。ヘブライ大学トルーマン記念平和研究書客員研究員、オクスフォード大学セントアントニーズ校客員研究員などを経て、1997年東洋英和女学院大学社会科学部に助教授(国際政治学・中東地域研究)で着任。2001年同教授、2005年国際社会学部長、2009年副学長を歴任し、2014年より現職。主な編・共著書に『中東政治学』(有斐閣、2012年)、『イスラエルを知るための60章』(明石書店、2012年)、『イスラエル国家の諸問題』(アジア経済研究所、1994年)等。他に現状分析論文多数。

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