2010.11.01

反日デモの弁証法 ―― 中国人にとって他者とは誰か  

橋本努 社会哲学

国際 #反日デモ

止まらない反日デモ

「飢え死にしてもレアアースは日本に売らない!」「国辱を忘れるな!」「軍国主義反対!」――去る10月16日に、中国のいくつかの地方都市で生じた「反日」デモは、インターネットや携帯電話などを通じて、またたくまに広がった。

19日付の『朝日新聞』によると、湖北省の武漢で起きた反日デモは、はじめは100人程度であったものの、2千人にまで膨れ上がったという。16日の段階では、中国政府は三大都市におけるデモの申請を認めていた。ところが、成都で参加者が1万人を超え、店のガラスを割るなどの破壊行為に発展すると、政府は一転、デモを封じ込める方針を明確に打ち出している。

だが反日デモは、勢いを増している。27日付の『朝日新聞』によると、26日に重慶で生じた反日デモは、約5倍にまでふくらみ、「警官の防御ラインを三度突破」したという。参加者の多くは、10代、20代の若者たちである。彼・彼女たちは、江沢民の教育体制のもとで、愛国心を植えつけられてきた。「憤青(憤る青年たち)」と呼ばれる若者は、その愛国心を「打倒小日本(日本人の蔑称)」という排斥運動へと向け、中国政府に対しては「愛国を止めるな」と叫んでいる。

すでに中国の大学では、「デモに参加したら除籍処分にする」とか、急きょ試験を行って学生の参加を食い止めるなどの動きもあるが、それでも反日デモは止まらない。いったい中国で、いまなぜ、反日感情が勢いづいているのだろうか。

ナショナルな民衆の他者と化す政府

反日の興隆は、政治的にはちょうど、中国共産党の第17期中央委員会第五回全体会議(10月15日から18日まで)が開かれていた次期と重なる。次期主席を実質的に決めるというこの大切な会議に際して、デモの担い手たちは、政府に対する異議申し立てのために、反日運動を一つの布石とした可能性もあるだろう。反日デモが発展するにつれて、人々は憤怒の矛先を、「官僚制の腐敗」や「住宅価格の高騰」などへと向けはじめたという。

愛国的な中国人にとって、他者とはまずもって「日本人」であるが、いまや他者は、自国の内部に措定されはじめた。他者とはすなわち、政府のことである。デモのダイナミックな弁証法を通じて、中国人は、自国の政府が「他者性」を帯びることを、発見したのではないか。

他者性は、アイデンティティの内部に宿ることがある。この逆説は、日本人が1960年代から70年代にかけて、自国の政府をまさに「他者」として見出した事情と重なるだろう。たとえば、1959年から60年にかけての日米安保(安全保障条約)反対運動において、日本人は、アメリカによる政治支配に反対するだけでなく、自国政府の民主的な運営を求めた。反米感情は、日本の民主化をうながした。

あるいは、60年代から70年代にかけての反核平和運動も、論理としては、政府組織を媒介しないで平和を打ち立てる企てであり、平和の樹立にとって、政府組織は「他者」とみなされた。このほか、水俣病(1958-)に代表される公害問題や、成田空港の建設に対する反対運動(三里塚闘争1966-)においても、そこで生じた運動の対立構図は、ナショナルな境界を共有した土着の人民が、非情なマシーンと化した政府官僚機構を打ち砕く、というものであった。

諸刃の剣としてのナショナリズム

政府とはつまり、日本においても、ナショナルな民衆にとっての「外部(=他者)」に措定されたのである。

当時の日本人は、高度経済成長の波に乗る一方で、自国政府を「他者」とみなし、民衆のエネルギーを地方自治や中間組織へと動員していった。むろん、そこで生じた政府批判は、70年代の後半になると、ミッシェル・フーコーのいう「規律訓練権力批判」へと向かっていくことになるのだが。

中国においても同様の過程がみられるとすれば、最近の反日デモは、民衆のエネルギーのうねりを通じて、やがて中央集権的なシステムに対する批判に向かうのではないだろうか。

反日運動の多くは、北京から遠く離れた諸地方で生じている。マージナルな地域で育まれた愛国心は、地方自治や中間組織の強化へと向かう可能性がある。反日という外部に措定された他者に対する批判は、やがて自己の内部に他者を見出して、自己そのものの変容へと向かうかもしれない。

じつにナショナリズムとは、諸刃の剣である。それは政府を支持する基礎にもなれば、政府を批判する力にもなる。国家は、そうした愛国感情のダイナミズムのなかで、舵を取るように運命づけられているのではないだろうか。

推薦図書

では、自国の内部に見出された「他者」は、その後、どんな変容を遂げるだろうか。現代の日本人は、もはや自国政府を、「他者」とはみなしていない。日本人はふたたび、他者を外部(たとえば「北朝鮮」)に措定しているようにもみえる。

だが大澤真幸によれば、日本社会においては、次第に、他者性の基盤そのものが崩壊しているという。他者性とは、わたしたちが互いに承認しあうために必要な、規範の装置である。ところがこの装置が機能しなくなると、わたしたちは、自由を自由として実感できなくなる。自由な社会において、不自由な感覚が広がっているのは、わたしたちが共有された規範を失ってしまったからであるという。他者による承認の基盤が失われれば、わたしたちは、自由すらも失ってしまう。

随所にネタの仕込みが効いた本書は、大澤理論のエッセンスを分かりやすく説明した入門書。講演のためのふたつの原稿であり、読者は、その軽快な語り口に導かれて、現代社会の問題に、鋭く切り込むための方法を得るだろう。

プロフィール

橋本努社会哲学

1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。

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