トルコの独立戦争から100年――国民の記憶と危機意識

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いまから100年前の1919年5月19日、黒海沿岸の町サムスンに、ひとりのオスマン軍人が上陸した。その名はムスタファ・ケマル、のちにトルコ共和国の建国者となる人物である。当時のオスマン帝国は第1次世界大戦に敗れ、西洋列強により分割される危機に直面していた。

 

しかし帝国各地には祖国を救うべくさまざまな抵抗運動が生まれつつあり、ケマルはこれらを糾合しながら国民闘争をその後展開していくこととなる。そしてケマルに指導されたトルコの人びとは、度重なる戦争ですでに疲労困憊していたにもかかわらず、ここからさらに4年にわたる血みどろの戦いを繰り広げ、なんとか祖国の防衛に成功する。現在のトルコ共和国が成立したのは1923年10月のことであった。新生トルコの指導者はオスマン帝国との決別を誓い、西洋近代社会と国民国家を模範とした。

 

ケマルのサムスン上陸から一世紀が過ぎた今日のトルコでは、レジェップ・タイイプ・エルドアン大統領率いる与党・公正発展党が2002年より長期政権を維持している。エルドアン大統領は建国100周年となる2023年を見据え、世界経済トップ10入りなどの政策目標をふくむ「ヴィジョン2023」を掲げてトルコのさらなる発展を目指している。同時に、イスラムを重視する公正発展党政権の下では、長年トルコで忘れ去られてきた、もしくは封じ込まれてきたオスマンの伝統や歴史の再評価が進んでいることから、トルコ共和国のあり方が大きく変わっていくのではないかと指摘する声もある。

 

公正発展党政権下でトルコに対する注目はかつてないほど高まった。政権発足から数年間は成長著しい新興経済国として、台頭する域内大国として、そして民主化に成功しつつあるイスラム社会として。一方、近年では通貨危機に襲われ政治的には民主化の後退が懸念される国として、またはシリア紛争のカギを握る国のひとつとして、日本でもニュースでトルコを目にする読者も多いことだろう。

 

しかしそれでもトルコ共和国がどのように誕生したかを知る人はあまりいないのではないだろうか。今年はトルコ独立戦争開始からちょうど100年の節目にあたることから、本稿ではトルコで展開された西洋列強に対する抵抗運動を紹介するとともに、現代トルコの政治に残るその影響を考えてみたい。

 

 

抵抗運動の始動

 

オスマン帝国はドイツ側に立って第1次世界大戦に参戦し、そして敗れた。同盟国ブルガリアが陥落し連合国軍が帝都イスタンブールに迫ると、イスタンブール政府は1918年10月30日、連合国側とムドロス休戦協定を結んだ。これにしたがいイスタンブールを通って黒海とエーゲ海をつなぐ要衝、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡地域が連合国軍によって接収されたほか、イギリス、フランス、イタリアの各軍がアナトリア各地を占領した。さらに帝国の弱体化を受けてギリシャ人やアルメニア人、さらにはクルド人がそれぞれの国家建設に向けて動き出していた。

 

オスマン帝国がこのように国内外からの脅威に直面する状況の中、イスタンブールのスルタン、メフメト6世は自身の地位保全にこだわり、親英派の人物を大宰相に起用する。さらにイギリスの支援の下にエーゲ海沿岸一帯を占領したギリシャ軍を前に、スルタンはただこれを受け入れるだけであった。しかしアナトリア、つまりオスマン帝国においてトルコ人が多数を占める地域では、西洋列強に抗おうとする運動が生まれつつあった。

 

抵抗運動を担ったのは、第1次世界大戦への参戦を主導し敗戦で地位を追われた「統一と進歩員会」と呼ばれる勢力の生き残りやオスマン帝国軍の一部将校、さらには列強の軍事占領に反発する民兵集団であった。ただしこの頃の抵抗運動は全国的に組織化されておらず、彼らの祖国は西洋植民地主義の餌食となりつつあった。

 

 

ムスタファ・ケマルの登場

 

その頃、黒海沿岸のサムスンでは独立国家(ポントス共和国)樹立を目指すギリシャ人らがトルコ系ムスリムと衝突し、連合国はスルタンに治安維持と秩序の回復を求めていた。この時にスルタンがサムスンに駐屯する第9軍の監察官に任命したのがムスタファ・ケマルである。

 

ケマルは1881年に現在はギリシャ領のテッサロニキで生まれた(写真1)。当時はサロニカと呼ばれていたこの街は、オスマン帝国の中でももっとも西洋化されたコスモポリタン都市であった。ケマルはここで近代的な初等教育を受け、軍人としての道を歩み始めた。1899年にはイスタンブールの陸軍大学校に入学し、スルタン専制に反対する政治運動に加わりながらも1905年に卒業した。

 

 

写真1 ギリシャのテッサロニキに残るムスタファ・ケマルの生家(筆者撮影)

 

 

ケマルはその後イタリア・トルコ戦争や第1次および第2次バルカン戦争に参加した。陸軍大学校でも成績優秀だったケマルであるが、彼の名を一躍有名にしたのが第1次世界大戦中のゲリボルの戦い(1915年―1916年、トルコではチャナッカレ戦争とも呼ばれる)である。イスタンブール占領を目指しゲリボル半島南端に上陸した連合軍およびオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)をケマルは指揮官として激しい塹壕戦の末に撃退し、名をはせた。

 

当時34歳だったケマルはこの功績により「パシャ(将軍)」の称号を得た。ケマル本人もこの頃には自分こそがオスマンの救国者になるのだと確信するようになっていた。ゲリボルでの勝利は今日のトルコでも国民の記憶に深く刻み込まれており、戦場跡や戦没者墓地を訪れる人は後を絶たない(写真2)。

 

(注1)トルコで2012年に上映された映画「Çanakkale 1915(チャナッカレ 1915年)」は、ゲリボルの戦いをトルコ側の視点から描いており、トルコでこの戦争がどのように記憶されているのかがよく分かる。ケマルも指揮官として映画に登場する。ただし日本で入手可能なこの映画のDVD版は、なぜか邦題が原題から大きくかけ離れた「シー・バトル 戦艦クイーン・エリザベスを追え!」となっているうえに、DVDパッケージ自体もおよそ内容を適切に説明しているとは言えない点が残念である。また、この映画はトルコ人のために作られたと言っても過言ではないため、トルコでは国民が当然知っている当時のオスマン帝国が置かれた状況に関する背景説明はかなりの部分が省略されている。

 

 

写真2 激戦の地のひとつ、ジョンクバユル高地に立つ巨大なムスタファ・ケマル像(筆者撮影)

 

 

革命政権の樹立 

 

こうして一躍英雄となったケマルは、1919年5月19日にサムソンに上陸すると、監察官としての立場と権限を利用して抵抗運動の組織化を開始した。トルコではケマルのサムスン上陸をもって独立戦争(解放戦争または国民闘争とも呼ばれる)が始まったとされ、5月19日は祝日となっている。

 

ケマルの動きに懸念を抱いたイスタンブール政府はケマルに帰還命令を出すが、彼はこれを拒否しただけではなく陸軍を辞し、覚悟を決める。そして抵抗運動の代表者らを集めて会議を開き、そこで彼自身を指導者とする「国民軍」を創設するとともに、領土の不可分性などを盛り込んだ声明を発表した。そして1920年4月23日、ケマルはアナトリア中部のアンカラにおいて大国民議会を開催し、議長に選出される。翌月には議長としてケマルは内閣を組閣した。ここについにアンカラ革命政権が誕生したのである。

 

もちろんこの時点では帝都にはイスタンブール政府もそしてオスマン帝国議会まだ存続していたから、これ以降オスマン帝国内でふたつの政府が併存することになる。イスタンブール側はケマルらの動きを危険視し、イギリスの支援を受けつつ「カリフ擁護軍」を編成し鎮圧にかかった。アナトリア各地ではアンカラ政権に対する反乱も相次いで起こった。アンカラ政府軍はなんとかこれらを平定したが、その間に連合国側はギリシャ軍に西アナトリアの都市を占領させるなどしてスルタンに圧力を強めた。

 

この結果、イスタンブール政府と連合国は8月10日、セーブル条約を締結した。セーブル条約ではすでにアナトリア各地を占拠していた西洋列強およびギリシャの勢力圏が追認されただけでなく、アナトリア東部におけるアルメニア人国家の建設、エーゲ海沿岸のギリシャへの割譲、さらにクルド人への自治権付与などが認められた。オスマン帝国にはアナトリアの一部とイスタンブールのみがその領土として残されることとなった。

 

セーブル条約に断固反対するアンカラ政府側は、まず1920年秋から冬にかけてはアナトリア東部を併合すべく侵入してきたアルメニア共和国軍と戦った。キャーズム・カラベキル東部司令官率いる国民軍は10月から11月にかけて反撃に打って出て、12月にはアルメニアと平和条約を締結した(写真3)。このトルコ・アルメニア戦争での勝利は、アンカラ政権初の対外戦争における勝利であるだけではなく、セーブル条約に盛り込まれていたアナトリアにおけるアルメニア国家建設を阻止したという意味でも大きな出来事だった。

 

 

写真3 アンカラの国立墓地。独立戦争時の司令官たちが眠る。(筆者撮影)

 

 

しかしアナトリア西部では、戦力でアンカラの国民軍を圧倒するギリシャ軍とのより厳しい戦いが待ち構えていた。ギリシャ軍は1921年夏になるとアンカラ近郊まで迫ったが、総司令官となっていたケマルは文字通りの総力戦でこれを撃ち返した(サカリヤ川の戦い)。国民軍は武器弾薬のみならず、兵士の衣服や靴にもこと欠く状況にあったが、アンカラ政府は住民に物資の提供を命じ、対ギリシャ戦で使用しうるあらゆるものを徴収したのだった(注2)。

 

(注2)独立戦争を描きトルコで大ベストセラーとなった歴史小説として、『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』トゥルグット・オザクマン(著)、鈴木麻矢(訳)、新井政美(監修)、三一書房、2008年がある。

 

ギリシャ軍の敗色が濃厚になると、イタリア軍は早々にアナトリア撤退を決め、フランスもアンカラ政府と10月に条約を締結し、装備品などを国民軍に引き渡してアナトリア南部から撤兵した。セーブル条約をオスマン帝国に押し付けた英仏伊三国の連携が崩壊したことは明らかだった。そして翌年8月にケマルは本格的な攻勢に転じ、9月にはついにギリシャ軍をエーゲ海沿岸から追い出したのだった。こうして10月、連合国側はアンカラ政府とムダンヤ休戦条約に調印した。アンカラ革命政権の勝利である。【次ページにつづく】

 

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