トルコの独立戦争から100年――国民の記憶と危機意識

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オスマン帝国の終焉とトルコ共和国の成立

 

アンカラ革命政権が実力でもってセーブル条約の実施を阻止したことで、連合国側はその改定を迫られた。そこでオスマン代表との協議が不可欠となったが、イスタンブール政府とアンカラ政府のどちらをトルコ人の代表とみなすべきかということが問題となった。結局、連合国は両政府に条約改定協議への招聘状を送ったが、アンカラの大国民議会は11月、スルタンとカリフの地位を分離し、前者の廃止を決定した。

 

これによりイスタンブール政府は瓦解し、オスマン帝都もアンカラ政府の統治下に入ったのである。オスマン帝国最後のスルタンは11月17日、イギリスの軍艦でイスタンブールを脱しマルタ島へと向かった。オスマン帝国はこのようにして崩壊した。

 

こうしてスイスのローザンヌでアンカラ政府と連合国の講和会議が1922年11月に始まった。トルコ側は連合国を相手に粘り強く交渉し、1923年7月24日、連合国側がトルコの要求の多くを受け入れるかたちでローザンヌ条約が調印された。この条約により、現在のトルコの領土がほぼ確定し、トルコの独立が国際的に承認された。そして10月29日には大国民議会が共和制宣言を採択し、トルコ共和国が誕生した。ケマルは初代大統領に選出された。

 

大統領となったケマルは、その後つぎつぎとトルコを近代国民国家とすべく大胆な諸改革を断行していく。ケマルはオスマン帝国とその文化を後進性の象徴とみなしていたから、帝国の残滓払拭に邁進した。彼の改革はトルコの公共空間からイスラム的要素を排除するものであった。

 

1924年3月にはすでに名目的存在となっていたカリフ制が廃止された。1928年4月にはイスラムを国教とするトルコ共和国憲法第2条が削られた。また、1928年には文字改革も断行され、アラビア文字に代わりラテン文字を修正した新トルコ文字の使用が義務付けられた。イスラムの影響とオスマンの記憶を排除すると同時に、ケマルはトルコ民族主義を広めようとした。トルコ民族中心の歴史教科書が編纂され、トルコ語からアラビア語やペルシア語起源の語彙を排除するトルコ語純化運動も推進された。

 

こうした数々の改革はケマルと彼が設立した政党を頂点とする一党支配体制の下で行なわれた。独立戦争では祖国防衛という共通の目的の下に多様な勢力がケマルの下に集っていたが、ケマルの強引ともいえる議会運営や急進的改革に対する不満は抵抗運動初期よりくすぶっていた。しかし1926年6月15日にケマルに対する暗殺計画が明るみに出たことを理由に、政府は独立法廷を設けて反ケマル派勢力を一網打尽にしたのである。その中にはキャーズム・カラベキルなど、ケマルとともに独立戦争を戦った盟友たちも含まれていた。

 

この時期、ケマルという個人とトルコ共和国の一体化も図られた。共和制樹立から3年後の1926年には、イスタンブールのトプカプ宮殿近くにケマルの銅像が初めて建立された(写真4)。このケマルはオスマン帝国の象徴であるトプカプ宮殿に背を向け、ボスフォラス海峡の向こう側、つまり新生トルコ共和国の象徴であるアナトリアを見つめている。左手は腰に当て、右手は力強くこぶしを握る。オスマンと決別し新たな国を作るのだという意志を感じさせる銅像である。

 

 

写真4 トプカプ宮殿近くにあるムスタファ・ケマル像(筆者撮影)

 

 

その後、彼の銅像は全国各地で作られることになる。官公庁や学校、企業や商店には彼の肖像画が飾られる。1934年、ケマルは大国民議会から「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクという姓を贈られた。学校では、ケマルが1927年に6日間かけてトルコ革命を総括した演説を下地とする革命史を教えることが義務となった。

 

ケマルは1938年11月10日、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿内の大統領執務室で死去した。57歳だった。宮殿の時計は今なお彼がこの世を去った9時5分で止まったままであり、多くの市民は11月10日9時5分になると黙とうをささげる。首都アンカラにはアタテュルクが永眠する巨大な霊廟(アヌトカビル)と付属博物館があり、彼の偉業を現在に伝えている(写真5)。

 

 

写真5 訪問客の絶えないアヌトカビル(筆者撮影)

 

 

現在に残る独立戦争の記憶とその影響

 

ここまで見てきたように、トルコの独立戦争においてケマル率いるアンカラ革命政権はトルコを植民地化しようとする西洋列強という「外の敵」と、そうした列強の思惑を利用しながら独立や自治を目指す非トルコ系勢力、そして抵抗運動を抑え込もうとするスルタンとイスタンブール政府という「内部の敵」と戦った。そしてアナトリアの住民は、ケマルという指導者を得て国民闘争を開始し、多大な犠牲を払って祖国を救ったのだった。

 

以上のような共和国建国にまつわるトルコの人びとの記憶に特徴的なのは、トルコが「内外の敵」に常に狙われているという意識である。そしてこのような世界観は、トルコの安全保障環境が悪化するとより顕著となる。

 

その一つの事例は2016年7月15日に軍の一部が引き起こしたクーデター未遂事件である。クーデターは発生から数時間後に鎮圧された。しかしその際、エルドアン大統領がスマートフォンを通じて抵抗を呼びかけた結果、多数の一般市民が街頭に繰り出し反乱軍と対峙し、数十人が犠牲となった。これ以降、トルコではクーデター対するひとびとの抵抗は「7月15日の叙事詩(15 Temmuz Destanı)」と呼ばれるようになり、新たな国民の物語となっていった(写真6)。

 

 

写真6 反乱軍の戦車に立つアンカラ市民(REUTERS/Tumay Berkin)

 

 

ここでは祖国と民主主義を守るために反乱軍に立ち向かった市民の勇気と自己犠牲の精神が強調された。「敵」とされたのはクーデターによってエルドアン政権転覆を画策したとされるトルコ最大のイスラム運動のギュレン派である。事件後、トルコではクーデターに関与した将校たちだけでなく、ギュレン派のメンバーや関係者は「祖国の裏切り者」とみなされてこの物語から徹底的に排除されていくことになる。さらに現政権の支持・不支持をめぐる社会的分断が進み、政権に批判的な人びとも「反逆者」と見なされる風潮が強まっている。

 

ギュレン派が「内なる敵」であるとすれば、米国が現在のトルコでは「外部の敵」の筆頭だろう。ギュレン運動の指導者フェトフッラー・ギュレンは長年、米国で事実上の亡命生活を送っている。トルコ政府は繰り返しギュレンの身柄引き渡しを要請しているが、米政府はギュレン本人がクーデターを命じたと判断するに足る十分な証拠がないとして応じていない。また、クーデター未遂はエルドアン政権崩壊をもくろむCIAとその国内協力者(エージェント)が引き起こしたとする陰謀論も根強い。

 

さらにシリア北部において対「イスラム国(IS)」作掃討作戦を続ける米軍は、トルコの非合法武装組織「クルディスタン労働者党(PKK)」の姉妹組織であるクルド民主統一党(PYD)とその軍事部門のクルド人民防衛隊(PYG)を支援している。

 

こうしたことから、トルコでは本来同盟国であるはずのアメリカがギュレン組織やPKKを支援しトルコを追い詰めようとしているとの言説が広がっている。また、昨年夏に米トルコ関係の悪化を受けて通貨危機がトルコで発生した際にも、トルコリラの急激な下落がアメリカもしくは国際金融ロビーによって意図的に引き起こされたとする説が流布された。

 

現在のトルコが国内外からの脅威に直面しているという認識はトルコで広く共有されている。たとえば筆者が5月上旬にイスタンブールの路上で受け取ったビラ(写真7)は、独立戦争100周年を記念する集会への参加を呼びかけるアタテュルク主義を掲げる民族左派、つまり親イスラムのエルドアン政権には批判的な団体が配布していたものである。

 

 

写真7 内外の敵から祖国防衛を呼びかける政治ビラ

 

 

このビラは、「米国とその分離主義テロ組織であるギュレン組織およびPKKがトルコを脅かしている」とした上で、ふたたびトルコ人は政治的立場を超えて一致団結し、第2の祖国解放戦争を勝ち抜かねばならないと訴えるのである。イデオロギー的にはエルドアン政権と相いれないはずの団体も、同じようなスローガンを掲げているのである。

 

独立戦争開始からちょうど100年たった今年5月19日、ケマル上陸の地、サムスンを訪問したエルドアン大統領は、「内部からトルコを引き裂こうとする勢力、外部からトルコを抑え込もうとする勢力」がいると述べ、「安全保障や経済の分野でトルコを狙った攻撃は(独立戦争以来)いまだに続いている。日々トルコに仕掛けられ続けている罠を、ひとつひとつ我々はつぶしているところだ」と強調した。

 

近年トルコではイスラム的価値観を重視する現政権の下で世俗主義が後退したことは確かであるが、ナショナリズムもいまなおトルコ社会に根強く残っていることも間違いないのである。

 

独立戦争の体験と記憶は、トルコの人びとの団結させ、国家の安定に寄与している。しかし国内外の敵から祖国を守れというスローガンが現政権への支持・不支持と結びつけられた場合には、それが社会をさらに分断させ、特定の人びとや野党、さらには国内マイノリティの排除につながりかねないという危険性をはらんでいる。いずれにせよ、トルコ国民にとって100年前の戦争は遠い記憶ではなく、現在進行形の出来事なのだと言える。

 

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