2020.03.02

誰が戦争を始めるのか――ソレイマーニー司令官殺害と法

郭舜 法哲学

国際

1.議会 対 大統領

2020年2月13日、アメリカ議会上院は、トランプ大統領がイランに対するさらなる軍事行動を行う際に議会の授権を得ることを要求する決議を採択した【1】。決議には民主党議員および一部の共和党議員が賛成票を投じた【2】。上院によるこの決議はもちろん、最近、大統領が行ったイランに対する軍事行動への反応である。

【1】https://www.congress.gov/bill/116th-congress/senate-joint-resolution/68/text

【2】https://www.nytimes.com/2020/02/13/us/politics/iran-war-powers-trump.html

大統領は、1月3日にイラン革命防衛隊ゴドス部隊のソレイマーニー司令官をドローン(無人航空機)によって殺害している。アメリカとイランの間では近年、イランによる核開発疑惑をめぐって緊張が高まっていた。大統領は「ソレイマーニーがアメリカの外交官および軍事要員に対する急迫で陰険な攻撃を仕組んでいた」として殺害を正当化したと報じられている【3】。

【3】https://www.nytimes.com/2020/01/12/us/politics/trump-suleimani-explanations.html

 

ソレイマーニー司令官の殺害は、イランの憤激を誘った。イランは、アメリカを「最大の悪魔」と呼んで殺害を激しく非難し、2015年の国際核合意からの離脱を宣言し、イラク領域内の複数のアメリカ軍基地に対するミサイル攻撃を行った。対立が拡大すれば、イランと関係の深いロシアや中国を巻き込んだ軍事衝突に発展するという懸念も生じた。しかし、当初、死者・負傷者はいなかったと発表されたことや【4】、大統領自身が直接の対決を避ける意思を示したことから、事態は鎮静化に向かった。

【4】https://www.washingtonpost.com/world/middle_east/iran-live-updates/2020/01/08/c835c218-31a0-11ea-9313-6cba89b1b9fb_story.html

全面的な軍事衝突への発展はとりあえずは避けられたものの、依然として戦争の可能性は残っている。このような危惧から、アメリカ議会は大統領の権限を制約しようと試みている。大統領はこれに対して拒否権を発動する意思を示しており、上院ではこの拒否権を覆すために必要な3分の2の票は得られないものと予想される。そうなると、議会と大統領の権限をめぐる綱引きは、現状のままに落ち着くことになる公算が高い。

しかし、上院における8名の共和党議員の離反は、議会の懸念の大きさを示している。もちろん、戦争は人々の生活に大きな影響を与えるから、望ましいものではない。しかし、アメリカ合衆国連邦憲法には、宣戦布告を行うのは議会であることが規定されており、そもそも大統領が勝手に戦争を始めることはできないはずである。では、議会はなぜ大統領の権限に制限を加えようとしているのだろうか。

その背景には、大統領の戦争権限をめぐる長い歴史的な争いがある。大統領は軍の最高司令官であり、軍の指揮権を握っている。大統領が議会の許可なくいかなる軍事行動も起こせないとすれば、武力攻撃が目前に迫ってから、あるいは武力攻撃を受けてから議会が招集され、戦争を開始するための決議を行わざるをえないことになる。迫りくる危機に対して有効な軍事的対処を行うためには、迅速な意思決定が必要とされる。他方で、戦争という重大な事柄について議会のコントロールが確保されねばならない。ここには、対立する二つの要請をどのように調和させるかという憲法制定以来の問題があるのである【5】。

【5】https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/27133/20141016155943537839/HLJ_16-2_185.pdf

もっとも、大統領がいくら軍事行動を起こしても、議会が宣戦布告しなければ戦争は始まらないのではないかと思われるかもしれない。確かに、かつては戦争は国家が互いに宣戦布告を行うことによって開始されるものであった。国家はときにさまざまな思惑から宣戦布告をしないまま、実質的な戦争を行った。これらは「事変」などと呼ばれたが、その実態は宣戦布告を伴う戦争と何ら変わりがなかった。そこで国連憲章では、これらを含む「武力行使」一般が禁止されることになったのである。

しかし、もちろん、これで戦争とは何かという問題がなくなってしまったわけではない。というのも、それを「戦争」と呼ぶかどうかはともかく、禁止されたといっても現実には相変わらず武力行使は行われ、何が禁止される武力行使なのかという問題は残るからである。しかも、武力紛争においては異なる法的ルール、つまり武力紛争法(国際人道法)のルールが適用されると考えられている。そうなると、武力紛争法はいつから適用されるかという問題も生じてくる。

ソレイマーニー司令官殺害の事案に戻ろう。これが実体としてアメリカとイランの間の全面戦争にならなかった(ならなくてよかった)ということはできるだろう。しかし、国際法のルールに照らして、殺害行為にはどのような意味合いが与えられることになるだろうか。それはアメリカとイランの行動とどのように関わっていたのだろうか。そして、議会は何を問題視したのだろうか。

2.個人の殺害【6】

【6】http://www.jsil.jp/expert/20161122.html

一見したところ、殺害行為はいわゆる「標的殺害」の一種であり、域外法執行として説明することができるようにも思われる。域外法執行とは、国家が国外にいる犯罪者に対して国内法を適用し、処罰する活動である。

ソレイマーニーはイラク領域内で殺害されており、アメリカは2019年にイランの革命防衛隊をテロ組織として認定している。国家が他国における個人の活動について法的な規律を行うことにはある程度の自由が認められる。しかし、自国の法令を外国において執行することは原則として禁止される。かりにこれが許されるようなことがあれば、どの国家も地球上のあらゆる領域で個人を逮捕・処罰することができることになる。突然、外国の警察官だといってサングラスをかけた全身黒ずくめの人々がやってきて、知りもしない外国の法律に違反した廉で逮捕・連行されてしまうとしたら、平穏な市民生活を送ることはできないし、国内の社会秩序を保つこともできないだろう。

この事案の場合、イラク政府の同意なく、頭越しに「処罰」がなされているのだから、なおさら違法性は免れない。たとえ相手が凶悪な犯罪者であるとしても、人権は尊重されねばならないからである。人権には裁判を受ける権利が含まれる。犯罪者であるかどうか、どのような犯罪を犯したのかは裁判で決められるべきことであり、何の申し開きをすることも許さずに殺害するのは殺人でしかない。巻き添えとなって生命を落とした数名の人々に対する人権侵害についても忘れることはできない。

このような制約が外れるとしたら、それは戦争ないし武力紛争の文脈においてである。武力紛争法が適用されるとすれば、軍事目標に対する攻撃は均衡性を要件として許される。軍事的利益との均衡性が保たれているかぎり、ソレイマーニーに向けられた攻撃によって「付随的損害」が生じたとしても、武力紛争法の諸規則に違反することはない。

しかし、武力紛争法が適用されるためには、殺害の時点で武力紛争が生じている必要がある。武力紛争法上、武力紛争が存在するか否かの判断は事実状態に即して行われ、烈度の高い暴力行為の応酬が行われているかどうかがその基準となる。では、ソレイマーニー殺害の時点で紛争の烈度が高いものであったと見なすことはできるだろうか。トランプ大統領が主張するように、前年12月29日までの2か月間に11回の散発的攻撃が行われていたのだとしても、それをもってただちに高烈度の暴力行為が行われていたということはいえない。

アメリカがソレイマーニーの殺害が正当化されると考えていたのであれば、武力紛争法による正当化を考慮に入れていたはずである。そして、その場合には、烈度の高い武力紛争が存在していたということになる。では、それはいつからかということが問題にならざるをえない。

3.国家に対する武力行使

ソレイマーニーの殺害は国際法上、もう一つの側面を持つ。つまり、それは一国による個人に対する攻撃であっただけでなく、他国に対する武力行使でもあった。攻撃はアメリカという国家の機関による組織的な行為であったし、その対象となったソレイマーニーはイラン政府の機関である革命防衛隊の司令官であり、またイランの代表としてイラクを訪れていたのだからである。ソレイマーニーの殺害はそれ自体、イランに対する攻撃を意味し、戦争を挑むというメッセージを伝えることになる。

武力紛争法が適用されるという意味において武力紛争が存在するということと、武力行使そのものの合法性とは独立に捉えられる。武力行使禁止原則を定める国連憲章の下では、加盟国が個別に行うことのできる武力行使は、個別的・集団的自衛権の発動の場合に限られている。自衛権の行使として認められるためには、他国による単なる武力行使・威嚇を超えた「武力攻撃」が発生しているのでなければならない。このことを前提とした場合、ソレイマーニーの殺害はどのように評価されるか。

上でも触れたとおり、アメリカは過去2か月間に11回の散発的攻撃が行われていたことを指摘する。しかし、これは規模および烈度のいずれの点でも、武力攻撃があったといえるほどのものだったとはいいがたいと思われる。例えば、2019年12月27日には、イラク領域内のアメリカ軍基地に対するロケット攻撃が行われていたが、アメリカ政府はこれをイランに支援されたシーア派民兵組織によるものとした。しかし、ニカラグア事件における国際司法裁判所の判決によれば、武器供与などによる叛徒に対する支援は武力攻撃には当たらず、自衛権の行使は認められない。ソレイマーニーの殺害を自衛権に基づいて正当化することは困難である。

もっとも、急迫した攻撃が確実に予見されていたのであれば、まだしも正当化の余地があるといえる。しかし、アメリカ政府の発言は徐々に後退し、「精確にいつかはわからないし、精確にどこかもわからない」(ポンペオ国務長官)ことが明らかにされた。このような段階で自衛権の行使を認めれば、武力行使禁止原則の例外を自衛の場合に限定することが無意味になってしまう。およそあらゆる武力行使が自衛権に基づいて説明できることになるだろうからである。

トランプ大統領は、ソレイマーニーの殺害は戦争を止めるためのものだったと述べている【7】。アメリカから見れば、ソレイマーニーが殺害されたことで目的は達成されたことになる。武力紛争があったとしても、それはその時点までだということになるだろう。しかし、それが全面的な戦争へと拡大しない保証はない。

【7】https://www.bbc.com/news/world-middle-east-50989745

状況をイランの側から見てみよう。まず、アメリカが武力紛争法の適用を認めているのであれば、イランもまたそれに従って攻撃を行うことが許されると主張できるはずである。もっとも、アメリカに対して武力を用いて反撃することは、自衛権の行使としては認められないだろう。ドローンによる標的殺害は、規模および烈度のどちらの点でも自衛の対象となる武力攻撃とは見なしがたい。しかも、アメリカの攻撃が戦争を止めることを目的としていたというのであれば、それ以上の攻撃はなく、自衛の必要もないと見なされる余地がある。

しかし、現実問題として、イランにとってこのような解釈は受け入れがたいと思われる。というのも、これはアメリカによる武力紛争法のご都合主義的適用を許し、また武力行使禁止原則の違反が咎められないままにされることを意味するからである。イランは次のように考えるかもしれない。アメリカがソレイマーニーの殺害を武力紛争法に基づいて正当化できると考えているのであれば、烈度の高い暴力行為があったはずであり、それは殺害行為を措いてほかにない。それならば、アメリカは自らの殺害行為が自衛の対象となる武力攻撃ではないと主張することはできないはずである。

4.誰が戦争を始めるのか

イランは、殺害への報復として、イラク領域内のアメリカ軍基地に対してミサイル攻撃を行った。これは自衛権の行使として合法であるとはいいがたい。しかし、すでにアメリカとの関係が十分に悪化しているイランにとって、国際司法裁判所が述べるような均衡性ある対抗措置がほかにあったかどうかは疑問である。他方で、イランの攻撃はあくまでも軍事基地に対して限定的に行われた。これに対して、アメリカも損害を強調するような過剰な反応を控え、事態は一応の鎮静化を見せた。

しかし、そうはならなかった可能性は常に残る。今回のように国家機関としての個人を殺害することで伝えられるメッセージは、アルカーイダにせよ、いわゆるイスラム国(ISIL)にせよ、非国家主体の構成員を殺害する場合とは大きく異なる。アメリカが戦争拡大の意思がないことを示すのに失敗し、イランのミサイルが狙いとは違ったところに落ちたならば、互いに届くメッセージの内容もその結果も異なっていた可能性が高い。

アメリカ大統領と議会との関係に戻ろう。本当に自衛のためだというのであれば、切迫した状況で大統領が行動を起こすことは許容できる(議会の決議は明文でそのことを認めている)。しかし、「精確にいつかはわからないし、精確にどこかもわからない」攻撃に備えることを理由として大統領が個人を殺害することは、そうではない。それは他国に対する国際法上違法な武力行使と見なされ、さらには全面戦争に発展しかねないという意味で、過大なリスクを背負い込むことになる。

アメリカは兵士を送るために大義を必要とする。熟慮なく違法な戦争を起こすことは避けねばならない。議会はこのことを念頭に、実質的に戦争を始めるための権限を取り戻そうとしているのである。

プロフィール

郭舜法哲学

1978年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程退学。東京大学社会科学研究所助教、北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、早稲田大学法学学術院准教授。共著に『現代法哲学講義 第2版』(井上達夫編、信山社、2018年)、『問いかける法哲学』(瀧川裕英編、法律文化社、2016年)など。

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