チャン・ギハと顔たち

少し前、韓国のロックバンド「チャン・ギハと顔たち」が来日した。チャン・ギハはボーカリストの名前であり、「顔たち」がバンドの他メンバーたちを指している。

 

チャン・ギハは1982年生まれと若く、デビューも2008年と最近である。流通形態で区分すればその活動はインディーズ(独立系)ということになるが、ある程度以下の年代であれば韓国で名前を知らない人はいないくらいの、有名バンドである。

 

90年代半ば以後、韓国のポピュラー音楽の中心地は弘大前という、韓国でトップの芸術大学である弘益大学の周辺に開けた一帯でありつづけてきた(近年この分野でもカンナムに拠点を移す動きが進んでいるが)。とくにインディーズ・レーベルは多くがこの周辺で活動しており、ライブハウスやクラブも多数存在している。

 

わたし自身、いくつかの偶然から、ここで活動するミュージシャンやレコード会社に知人たちがいる。2008年にチャン・ギハが登場して、短期間で急速に人気と知名度を上げていったことは、現地の音楽関係者たちにも驚きをもって受け止められていた。

 

急激に人気が出る前の彼らの活動は、寡聞にして知らない。彼らの人気が本格化したのは、地上波のテレビ番組に出演した際、その音楽性だけでなく、奇妙な振り付けを交えたパフォーマンスに、インターネット上で賞賛の声が続出したことかららしい。

 

音楽的には、サヌリムをはじめとする70年代から80年代にかけての韓国ロックの影響が色濃い。文学的で抒情的、そして多様な解釈に開かれたレトリカルな歌詞も、往年の韓国ロックの雰囲気を受け継ぐものである。

 

そうした「伝統」を踏まえつつ、すぐれて現代的な問題、なかでも若者の苦しい内面を描く歌詞に、多くの韓国人が共感を寄せている。

 

人気に火がつくきっかけともなった代表曲「安物のコーヒー」の一節を引けば、以下のようになる。

 

 

安物のコーヒーを飲む

ぬるくて、少なからず心が痛む

湿っぽいビニールの暖房床に、足の裏がぺたんとくっついて落ちる

何だ、洗面器に何年間も溜まっている水

ただひたすらに腐っていって

これは何、もう感覚がない

雨が降れば軒下にうずくまり

呆然とただそのまま見てみれば

「これは何かが違う」と思って

 

 

さしあたり、生活すら苦しくなっていくのではないか、という現代の若者の絶望感を歌ったものである、といえばよいだろうか。

 

より分かりやすい例は、人気が出た直後にメンバーたちが別名義で立ち上げたプロジェクト・バンド(その名も「青年失業」)の代表曲「起床時間は決まっている」である。

 

 

夜は深くなっていくけど、起床時間は決まっている

眠りは訪れないけど、起床時間は決まっている

夜が明けてくるけど、起床時間は決まっている

明日に向かう最終列車に乗り遅れるみたい

焦る心に、心臓はドキドキするね

 

 

ここでいう「起床時間」は、「しなければならないこと」と同時に、旧世代がつくった規範やルールの比喩でもある。自発的に物事を決めることが許されない状況のなかで、「しなければならないこと」が何かさえ分からなくなり、無気力に陥っていく現代の若者の心情を歌ったものだろう。

 

しかしながら、じつはチャン・ギハ自身はソウル大学社会学部を卒業したエリート層であり、生まれも比較的裕福であると本人が語っている。人から羨まれるような立場にありながら、衒いのまったくないまま現代の心情を切り取るそのキャラクターも、人気の一因となっているようだ。

 

すでにPヴァインから日本版も発売されている。曲調・歌詞ともに、韓国にローカルな情緒にあふれており、他のいろいろな事情を度外視しても、韓流スターのような人気を日本で博することは難しいかもしれない。

 

しかし、経済的な好調が伝えられ、近年理想化されがちな傾向もある韓国で、こうしたバンドに若者の絶大な支持が集まっているという状況には、もっと着目されて良いだろう。

 

 

推薦図書

 

ソウルにダンスホールを―1930年代朝鮮の文化 (韓国の学術と文化)

著者/訳者:金 振松

出版社:法政大学出版局( 2005-05-01 )

定価:

Amazon価格:¥ 4,860

単行本 ( 361 ページ )

ISBN-10 : 4588080229

ISBN-13 : 9784588080227


 

韓国では文化研究が盛んであるが、その文脈は日本とやや異なる。民主化パラダイムが長らく思想を席巻していた韓国において、90年代半ば以前の社会学や政治学の主流は、「主体性」などといった語彙で思弁的に「民主」を語るものだった。それに対するアンチテーゼとして、より日常に密着したミクロな諸要因に目を向けよう、というのがその基本姿勢となってきた。本書は、特定のパラダイムから語られがちな日本の植民統治期について、「ダンスホール」に着目しつつ当時の多様な日常の一端を描き、大きな話題を呼んだものである。

 

 

 

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