2020.12.07

人間の安全保障の理論と実践――「誰も取り残されない社会」の実現に向けて

宮下大夢 国際関係論、平和・紛争研究、国際協力論

国際 #安全保障をみるプリズム

はじめに

「人間の安全保障」(human security)という概念が公の場に登場してから四半世紀が経過した。「人間の安全保障」とは、国境を越える多様な脅威から人間一人ひとりの生存、生活、尊厳を確保するための実践に関する規範的な概念の一つである。国際協力や開発援助に関わる人々にはよく知られているが、初めてこの言葉を耳にする人にとっては分かりにくい概念であろう。

しかし、この四半世紀の間に、「人間の安全保障」の理念は国際機関、国家、市民社会・非政府組織(NGO)といったグローバル・ガバナンス(注1)を担う多様なアクター(主体)に受け入れられ、国際協力、開発援助、平和構築、人道支援などの分野で実践されるようになった。学術的にも、「人間の安全保障」に関する研究は、国際関係論、地域研究、開発研究、人類学、社会学、教育学、公衆衛生などの様々な分野で行われてきた(注2)。そして、近年は「持続可能な開発目標」(SDGs: Sustainable Development Goals)が掲げる「誰も取り残されない社会」の実現に向けて、「人間の安全保障」の視点が極めて重要になっている。

「人間の安全保障」の登場から今日に至るまでに、人間の安全に対する脅威は多様化してきた。グローバル化が進み、人、モノ、カネ、情報が国境を越えて移動する相互依存が深まった21世紀の世界では、人間の安全に対する脅威もまた国境を越えて相互に関連し合い、人々に深刻な影響を及ぼしている。具体的には、貧困、紛争、国際テロリズム、感染症、自然災害、環境破壊、経済・金融危機といった数多くの脅威が存在する。

例えば、開発途上国の貧困率は減少してきたが、現在も世界の約10人に一人は1日1.90ドル以下で暮らす絶対的貧困層である。また、日本をはじめとする先進国では国内の格差が拡大し、相対的貧困層が増加している。さらに、世界の難民・国内避難民の数は第二次世界大戦以降最多を更新し続けており、2019年末時点で約8,000万人となった。そして、近年は世界各地で気候変動に起因する自然災害も急増している。加えて、国境を越えて急速に感染が拡大する感染症の脅威が認識されるようになった。現在進行中の新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的流行は、単なる「健康の危機」ではなく「人間の危機」と呼ばれる危機的な状況を生み出している(注3)。その影響で数百万人が貧困に逆戻りしつつあり、これまでのSDGsの取り組みの大幅な後退が懸念されている。

本稿では「人間の安全保障」の四半世紀を振り返り、同概念がどのように国際規範の一つとして発展してきたかを整理しながら、その定義や意義を説明する。その上で、21世紀の世界に存在するグローバルな脅威に立ち向かい、SDGsが掲げる「誰も取り残されない社会」を実現する上で、なぜ「人間の安全保障」の視点が必要であるかを論じる。筆者はNPO法人「人間の安全保障」フォーラム(HSF: Human Security Forum)の事務局長として、高須幸雄理事長(国連事務総長特別顧問・人間の安全保障担当)をはじめとする数多くの関係者と共に「人間の安全保障」の推進事業に取り組んできた。本稿は「人間の安全保障」フォーラムの活動を紹介しながら、「人間の安全保障」に関する包括的な議論を行うものである。

「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へのパラダイムシフト(革命的転換)

「人間の安全保障」の起源については諸説あるが、1994年に国連開発計画(UNDP)が発行した『人間開発報告書』で初めて公に取り上げられた(注4)。同報告書によれば、安全保障(security)という概念は、「他国の攻撃からの国家の安全保障」、「外交政策における国益の確保」あるいは「核戦争の脅威からの国際安全保障」のように、人間一人ひとりではなく、国家に関わるものとして長期に渡り狭義に解釈されてきた。

現実の国際政治の舞台では、「国家の安全保障(national security)」こそが最重要の高次元の問題(ハイポリティクス)であり、経済や福祉に関する問題は優先順位の低い低次元の問題(ローポリティクス)であるという認識が長らく支配的だった。第二次世界大戦で展開された凄惨な総力戦を踏まえれば、そうした戦争の脅威と隣合わせにあった冷戦期には、国家の生存の確保が至上命題となったのは必然の結果だったのかもしれない。

しかし、冷戦戦終結後に公表された同報告書では、「安全保障」について従来の常識を覆す、革命的ともいえる新しい見解が示された。すなわち、冷戦期に米ソによる際限のない開発競争が行われた核兵器を筆頭とした、軍事力によって達成される国家の安全保障ではなく、むしろ開発によって人間一人ひとりの安全を保障することの重要性を論じたのである。同報告書執筆チームのリーダーであったマブーブル・ハクは、安全保障を人間一人ひとりの安全に関わる問題として再提示し、軍事力ではなくて開発によって、それが達成されることを強調したのである。これは「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へと、安全保障概念のパラダイムシフトを志向した新たな試みであった。

実際、国際政治において最も影響力を持つ大国ではなく、それまで大きな注目を集めてこなかった開発途上国に目を向けると、日常生活を送る一般の人々は、疾病、飢餓、貧困、犯罪、紛争、政治的抑圧、環境破壊といった脅威に晒されている。それゆえ、安全保障の概念は「非包括的な国家の安全保障から人々の安全保障を重視し」、「軍事力による安全保障から持続的な人間開発による安全保障へ」と直ちに変化しなければならない、と論じたのである。そして、「人間の安全保障」の構成要素として、経済、食料、健康、環境、身体、共同体、政治的自由の七つを挙げ、基本原則として普遍性、相互依存、早期予防、人間中心(people-centered)の四つを提示した。

「人間の安全保障」規範の発展と確立

新しく登場した「人間の安全保障」概念の反響は極めて大きく、国連を中心的な舞台に、これに関する様々な議論が展開し、規範の普及活動や編集作業が行われるようになった。とりわけ、1990年代後半から「人間の安全保障」の積極的な普及活動を行った国の一つが日本である。当時の小渕恵三首相はアジアの21世紀を「人間の尊厳に立脚した平和と繁栄の世紀」にするために、「人間の安全保障」を重視することが必要であると考えていた(注5)。

こうした意思を持つ小渕のイニシアティブによって、多様な脅威に取り組む国連機関の活動の中に「人間の安全保障」の考え方を反映させ、人間の生存、生活、尊厳を確保していくことを目的とする「人間の安全保障基金」が1999年に国連に設置された(注6)。そして、日本政府は「人間の安全保障基金」に対して、1999年から2019年末までに約468億円を拠出してきた。

2000年に開催された国連ミレニアム・サミットでは、コフィ・アナン国連事務総長が「人間の安全保障」の重要な柱である「恐怖からの自由」(freedom from fear)と「欠乏からの自由」(freedom from want)を実現することを国際社会に要請した。この要請を受けて、急死した小渕の後を継いだ森喜朗首相も「人間の安全保障」を外交の柱に据えることを宣言し、また「人間の安全保障」のための国際委員会を発足することを提示した(注7)。

こうして日本政府のイニシアティブで、国連難民高等弁務官として人道支援の最前線で活動してきた緒方貞子と、ノーベル経済学賞の受賞者であるアマルティア・センが共同議長を務める「人間の安全保障委員会」(以下、緒方・セン委員会)が2001年に設立された。そして、「緒方・セン委員会」は2003年に最終報告書『安全保障の今日的課題』を公表した。同報告書では、「人間の安全保障」とは「人が生きていく上でなくてはならない基本的自由を擁護し、広範かつ深刻な脅威や状況から人間を守ること」であり、また「人間に本来備わっている強さと希望に拠って立ち、人々が生存・生活・尊厳を享受するために必要な基本的手段を手にすることができるよう、政治・社会・環境・経済・軍事・文化といった制度を一体としてつくり上げていくことも意味する」と説明された(注8)。

加えて、国家の安全保障を補完する「人間の安全保障」の特徴として、次の四つを提示した。第一に、国家よりも個人や社会に焦点を当てる「人間中心」の考え方である。第二に、 軍事力によって国境を守るのではなく、環境汚染、国際テロリズム、大規模な人口の移動、感染症、抑圧や貧困までの多様な「脅威」を視野に入れる。第三に、国家だけではなく、国際機関、地域機関、市民社会・NGOなどの多様な「主体」が役割を担う。第四に、保護(protection)とともに、人々が自らを守るための「エンパワーメント(empowerment,能力強化)」が必要である、以上の四つである。

これ以降、「人間の安全保障」の理念は国連に代表される国際機関、欧州連合(EU)やアフリカ連合(AU)などの地域機関、各国政府、市民社会・NGOといった多様な主体に受け入れられ、脆弱な立場に置かれている人々を支援する現場での実践に反映されるようになった。上記の「緒方・セン委員会」の普及活動によって、国際社会における「人間の安全保障」に対する関心がいっそう高まったのである。

そして、学術的にも「人間の安全保障」が注目を集めるようになった。国際協力や開発援助だけでなく、人類学、社会学、教育学、公衆衛生などの様々な分野で「人間の安全保障」に関する研究が行われるようになる。例えば、日本国内では、2004年に東京大学が文理横断の大学院教育プログラムとして、大学院総合文化研究科に「人間の安全保障」プログラム(HSP: Human Security Program)を設立した。

HSPの目的は「一人ひとりの人間が安心して生活できる平和な社会を追求する『人財』を育てること」である。HSPの教員と学生の有志が中心となり、「人間の安全保障」の推進事業を行うために2011年に設立した組織がNPO法人「人間の安全保障」フォーラムである。また、同年9月には、「人間の安全保障」の学際的な研究を促進し、その実践的な要請に応えることを目的として、学術団体「人間の安全保障学会」が設立された。

ところで、「人間の安全保障」から派生した概念に「保護する責任」(R2P: Responsibility to Protect)がある(注9)。これは日本と同時期に、「人間の安全保障」を外交の柱に据えたカナダの働きかけによって、2001年に「介入と国家主権に関する国際委員会」が提唱した概念である。日本は「人間の安全保障」の柱のうち「欠乏からの自由」を重視したが、カナダは「恐怖からの自由」を重視した。「人間の安全保障」は国境を越える多様な脅威から人々の安全を確保することを目的とするが、R2Pは1994年のルワンダの大虐殺のような大規模な「人命の喪失」や「民族浄化」から人々を保護することを目的に提唱されたものである(注10)。

しかし、人命保護のための軍事介入を許容するR2Pについて、植民地支配を経験した開発途上国の多くは、大国が内政干渉を正当化するための道具として用いるのではないかとの危機感を抱いた。それゆえ、「欠乏からの自由」を重視する日本は、「人間の安全保障」を普及する上での足かせとならないよう、「人間の安全保障」とR2Pは異なる概念であるという見解を主張し、国連加盟国の理解が得られるように説得を行った(注11)。その結果、2005年に国連で開催された世界サミットでは、「人間の安全保障」とR2Pはそれぞれ異なる概念として峻別された。R2Pについては、ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪から人々を保護するために、平和的手段に加えて、国連憲章第7章に基づく集団的行動、すなわち強制的な軍事介入を実施する用意があることがサミットの成果文書に明記された。これに対して、「人間の安全保障」については以下のように明記された(注12)。

「我々は、人々が、自由に、かつ尊厳を持って、貧困と絶望から解き放たれて生きる権利を強調する。我々は、全ての個人、特に脆弱な人々が、全ての権利を享受し、人間としての潜在能力を十分に発展させるために、平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有していることを認識する。このため、我々は、総会において人間の安全保障の概念について討議し、定義付けを行うことにコミットする。」

その後国連では、日本の国連代表部(注13)の主導により、2006年に「人間の安全保障」を推進する有志諸国の非公式なネットワークである「人間の安全保障フレンズ」が結成された。さらに、「人間の安全保障フレンズ」の要請に基づき、2010年に「人間の安全保障」に関する初の国連事務総長報告書が作成された(注14)。そして、2012年の国連総会では「人間の安全保障」の共通理解についての合意がなされた。その中で、「人間の安全保障」はR2Pとは性質が異なり、武力による威嚇、武力の行使、または強制手段を伴わないことが再確認された(注15)。こうして「人間の安全保障」とR2Pをめぐる長い論争に終止符が打たれたのである。

他方、同時期に「アラブの春」の後に深刻な人道危機が発生したリビアやシリアに対する国際社会の対応を踏まえて、R2Pの履行手段として先進国が実施する軍事介入には様々な問題が存在することが指摘された(注16)。R2Pについては、政所大輔氏が本連載シリーズ別稿で詳しく取り扱う予定のため本稿では細部には踏み込まないが、R2Pもまた国連を舞台に実施に向けた概念の精緻化が行われてきた。しかし、深刻な人道危機から人々を保護するために行動する必要があることについては国際社会の合意が得られたが、どのような手段を用いるかについては今なお論争が続いている状況である(注17)。

「人間の安全保障」の理論と実践

これまでに定着してきた一般的な定義を述べると、「人間の安全保障」とは、国家の安全保障を補完し、武力行使を伴わない「保護」と「エンパワーメント」によって、「恐怖からの自由」、「欠乏からの自由」、「尊厳を持って生きる自由」を確保するための実践に関する概念である。「人間の安全保障」は人間の安全という原理のもとに既存の様々な規範を組み合わせた「複合規範」であるため(注18)、すべてを網羅して説明しようとすると、上記のような長い説明になってしまう。

「保護」と「エンパワーメント」とは、「緒方・セン委員会」が提示した「人間の安全保障」を実現するために不可欠な二つの異なる戦略である。「保護」とは基本的人権と自由を尊重し、多様な脅威から人々の安全を確保するために、国際社会や国家が規範、手続き、制度を整えるトップダウン型のアプローチだといえよう。これに対して、「エンパワーメント」とは人々の潜在能力を伸ばし、困難な状況に対するレジリエンス(resilience,強靭性)を備えるためのボトムアップ型のアプローチである。この二つのアプローチによって包括的で相互補完的な取り組みが可能になる。これらの戦略は緒方貞子とアマルティア・センの二人の共同議長による論争の結果として生み出されたものである。

上記の「人間の安全保障」の理念は、グローバル・ガバナンスを担う多様な主体に受け入れられ、脆弱な立場に置かれている人々を支援する実践に反映され、またこれを普及するために新たな活動が行われるようになった。例えば、国連では2003年に「人間の安全保障ユニット」が事務局内に設置され、「人間の安全保障基金」の運営を行うようになった。そして、「人間の安全保障基金」を活用し、「人間の安全保障」を実現するための数多くのプロジェクトが実施されてきた。具体的には、国連開発計画だけでなく、国連児童基金(UNICEF)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連食糧計画(WFP)、国連人口基金(UNFPA)、国連人間居住計画(UN-HABITAT)などの様々な国連機関が協働して支援活動を行ってきた(注19)。

日本政府も政府開発援助(ODA)の一環として「人間の安全保障」の推進を位置づけてきた。2003年に改正したODA大綱や2005年のODA中期政策の方針に「人間の安全保障」の理念を取り入れ、援助政策の柱として重視してきたのである。そして、日本のODA実施機関である国際協力機構(JICA)は、2003年の独立行政法人化と同時に緒方貞子が理事長に就任して以来、「人間の安全保障」の実践に取り組んできた。

このように「人間の安全保障」の理念を共有する様々な主体によって、脆弱な立場に置かれている人々の日常を良い方向に変える努力がなされてきた。他方で、国際規範はそのまま受容されるのではなく、現地の文脈の中で修正が加えられた上で受容される現地化(localization)が生じる場合もある(注20)。例えば、東アジアでは「人間の安全保障」という言葉が正式に使用されることは少ないものの、同概念を構成する三つの自由や「保護」と「エンパワーメント」というそれぞれの要素が全域に定着していることが指摘されている(注21)。各国が「人間の安全保障」の重要な要素を独自の方法で政策に反映しているのである。

「持続可能な開発目標(SDGs)」の実現に向けた「人間の安全保障」アプローチ

SDGs は2015年に国連総会で採択された「持続可能な開発」に向けた具体的な行動指針であり、2016年から2030年までの15年間で達成すべき17の目標と167のターゲットが設定された。2000年に国連ミレニアム・サミットで採択され、2015年を達成期限とした「ミレニアム開発目標」(MDGs: Millennium Development Goals)」の後継プログラムである。ただし、MDGsでは開発途上国における貧困問題などの解決に焦点が当てられていたのに対し、SDGsは「誰も取り残されない社会」の実現をスローガンとして掲げ、開発途上国だけでなく先進国も含め、一人ひとりの尊厳の確保を目指す革新的なものであった。

近年はSDGsに対する国際的な関心が高まり、政府や市民社会・NGOだけでなく、自治体や民間企業を含む多様な主体が、その実現に向けて何らかの取り組みを行うようになっている。だが、取り残されている人々、つまり脆弱な立場に置かれている人々に十分に焦点が当てられているだろうか。例えば、先進国の一つである日本は、所得水準、健康・保健、教育、エネルギー、インフラなど多くのSDGsの指標を達成している。しかし、すべての人々の生存、生活、尊厳が尊重され、人間らしく、誇りを持って生きているといえるだろうか。

残念ながら、日本国内にも貧困、いじめ、孤立、差別、偏見、排除といった様々な問題が存在し、脆弱な立場に置かれている人々に対する十分な支援が行われているとはいいがたい状況である。それゆえ、「誰も取り残されない社会」を実現し、真の意味でSDGsを達成するためには、すべての人々の生存、生活、尊厳の確保を目指す「人間の安全保障」の視点が不可欠である。

上記の問題認識から、筆者が事務局長として活動しているNPO法人「人間の安全保障」フォーラムでは、高須幸雄理事長の主導により、人間の安全保障学会の協力を得て、各分野の専門家、研究者、実践活動を行うNPOや財団の関係者といった41名の有識者からなるプロジェクトチームを結成した。プロジェクトチームは1年間の研究活動の成果として、2018年に命(生存)指標、生活指標、尊厳指標の三つからなる「人間の安全保障指標」を作成した。

そして、この指標に基づき、「人間の安全保障」の視点から各都道府県が取り組むべき課題を可視化するとともに、取り残されるリスクが高いと考えられる、子ども、女性、若者、高齢者、障害者、性的少数者、被災者、外国人といった個別のグループの実態と課題を分析し、「誰も取り残されない社会」を実現するための具体的な提言を行った(注22)。「人間の安全保障指標」は「尊厳」の達成度の測定を試みる革新的な指標としてUNDPに評価され、2019年の「人間開発報告書」の中で紹介された(注23)。

加えて、「人間の安全保障」フォーラムは、COVID-19の危機対応において「人間の安全保障」の三つの柱である生存、生活、尊厳に着目し、誰も取り残されないようにするための提言を発表した(注24)。さらに、現在は佐藤安信副理事長(東京大学大学院総合文化研究科教授)が中心となり、企業における「人間の安全保障」インデックスの策定にも取り組んでいる(注25)。

おわりに

本稿では「人間の安全保障」の四半世紀の軌跡を辿り、同概念がどのように国際規範の一つとして発展してきたかを説明した。そして、SDGsが掲げる「誰も取り残されない社会」を実現するためには、「人間の安全保障」の視点が必要であることを論じた。

筆者は東南アジア地域をフィールドに「人間の安全保障」やR2Pといった国際規範の伝播と実践に関する研究を行う一方で、「人間の安全保障」フォーラムの事務局長として前述の「人間の安全保障」の推進事業に取り組んできた。また、日本国内に暮らすロヒンギャ難民を支援するプロジェクトを立ち上げ、現地の人々と数多くの学生ボランティアの協力のもとで活動を継続しながら、学界や高等教育機関が「人間の安全保障」の理論と実践において果たす役割について考えている。筆者が「人間の安全保障」について研究するために大学院に進学した10年前と比べると、民主主義、人権、個人の自由を重視する自由主義的な国際秩序の衰退が指摘され、「人間の安全保障」に対する関心は相対的に低下しているようにも思える。

しかし、現在のCOVID-19の世界的大流行は、「人間の安全保障」の重要性を改めて認識させた。脆弱な立場に置かれている人々が最も大きな被害を受け、さらに取り残される状況にある。にもかかわらず、アメリカと中国の対立が激化するなど、国際社会がこれまでに築いてきた国際協調主義は危機に直面している。多様化するグローバルな脅威に「分断と対立」で対抗することは困難である。それゆえ、「連帯と協力」に基づき、人間の生存、生活、尊厳の確保を目指す「人間の安全保障」の視点が求められているのである。

(注1)グローバル・ガバナンスとは、国家だけではなくNGOや企業などの非国家主体を含む多様な主体が、地球規模の諸問題(グローバル・イシュー)の解決に向けて、様々な手段を用いて国境を越えて協働する政治的相互作用を意味する。

(注2)人間の安全保障に関する研究について詳しくは次の文献を参照。栗栖薫子「人間の安全保障研究と国際関係論―新しいリサーチの地平」『国際公共政策研究』第14巻1号、2009年、15-30頁。

(注3)UN, Shared Responsibility, Global Solidarity: Responding to the Socio-Economic Impacts of COVID-19, 2020. https://unsdg.un.org/sites/default/files/2020-03/SG-Report-Socio-Economic-Impact-of-Covid19.pdf(2020年11月10日閲覧)

(注4)UNDP, Human Development Report 1994, New York: Oxford University Press.

(注5)外務省「小渕総理大臣演説 アジアの明日を創る知的対話」1998年12月2日、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/10/eos_1202.htmlhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/10/eos_1202.html; 外務省「ヴィエトナム国際関係学院主催講演会における小渕総理大臣政策演説 アジアの明るい未来の創造に向けて」1998年12月16日、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/10/eos_1216.html(2020年11月10日閲覧)

(注6)外務省「人間の安全保障基金―21世紀を人間中心の世紀とするために」2009年8月、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/pdfs/hs_2009.pdf(2020年11月10日閲覧)

(注7)外務省「国連ミレニアム・サミットにおける森総理演説」2000年9月7日、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/12/ems_0907.html(2020年11月10日閲覧)

(注8)人間の安全保障委員会『安全保障の今日的課題―人間の安全保障委員会報告書』朝日新聞社、2003年、11頁。

(注9)「保護する責任」について詳しくは次の文献を参照。中内政貴・高澤洋志・中村長史・大庭弘継編『資料で読み解く「保護する責任」―関連文書の抄訳と解説』大阪大学出版会、2017年。https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/67203/9784872596069.pdf(2020年11月10日閲覧)

(注10)International Commission on Intervention and State Sovereignty, The Responsibility to Protect, Ottawa: International Development Research Center, 2001.

(注11)栗栖薫子「日本による人間の安全保障概念の普及―国連における多国間外交」グローバル・ガバナンス学会編『グローバル・ガバナンス学Ⅰ―理論・歴史・規範』法律文化社、2018年、236-256頁。

(注12)UN Doc., A/RES/60/1, 2005.

(注13)日本政府が国連に常駐させている政府代表部。

(注14)高須幸雄「国連と『人間の安全保障』」『国際問題』第603号、36-48頁、2011年。

(注15)UN Doc., A/RES/66/290, 2012.

(注16)Roland Paris, “The ‘Responsibility to Protect’ and the Structural Problems of Preventive Humanitarian Intervention,” International Peacekeeping, 21(5), 2014, pp.569-603.

(注17)一方で、例えばアジア太平洋地域では、2016年に「残虐行為の予防のためのアジア太平洋パートナーシップ(APPAP)」という大規模な市民社会組織のネットワークが形成され、武力行使を伴わない「残虐行為の予防(atrocity prevention)」を促進する概念としてR2Pが再構成され、その普及と実施のための様々な取り組みが行われている。「人間の安全保障」とR2Pは袂を分かつことになったが、武力行使を伴わないR2Pが推進されているのは興味深い現象である。

(注18)栗栖薫子「人間の安全保障『規範』の形成とグローバル・ガヴァナンス―規範複合化の視点から」『国際政治』第142号、2005年、76-91頁。

(注19)具体的なプロジェクトについて詳しくは次のウェブサイトを参照。外務省「人間の安全保障基金による支援案件」https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/security/ah_list.html(2020年11月10日閲覧)

(注20)Amitav Acharya, “How Ideas Spread: Whose Norms Matter? Norm Localization and Institutional Change in Asian Regionalism,” International Organization, 58(2), 2004, pp.239-275.

(注21)峯陽一「東アジアにおける人間の安全保障―認識共同体を目指して」東大作編著『人間の安全保障と平和構築』日本評論社、2017年、246-262頁。

(注22)NPO法人「人間の安全保障」フォーラム編、高須幸雄編著『全国データ SDGsと日本―誰も取り残されないための人間の安全保障指標』明石書店、2019年。英訳版は次のリンクからダウンロード可能。https://www.jica.go.jp/jica-ri/ja/publication/booksandreports/l75nbg000019nu21-att/SDGs_Japan_EN.pdf(2020年11月29日閲覧)

(注23)UNDP, Human Development Report 2019, New York: UN, p.55.

(注24)NPO法人「人間の安全保障」フォーラム「新型コロナウイルス危機への対応にあたって―誰も取り残されないようにするために」https://www.hsf.jp/(2020年11月10日閲覧)

(注25)東京大学総合文化研究科付属グローバル地域研究機構持続的平和研究センター「企業における『人間の安全保障』インデックス(CHSI)プロジェクト」http://cdr.c.u-tokyo.ac.jp/RCSP/project/878.html(2020年11月10日閲覧)

プロフィール

宮下大夢国際関係論、平和・紛争研究、国際協力論

長野県生まれ。名城大学外国語学部准教授。早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了。博士(社会科学)。国際協力機構JICA研究所非常勤研究助手、早稲田大学社会科学総合学術院助手、東京大学大学院総合文化研究科付属グローバル地域研究機構持続的平和研究センター特任研究員、東京大学教養学部非常勤講師などを経て現職。NPO法人「人間の安全保障」フォーラム事務局長、社会福祉法人さぽうと21たてばやし教室総括コーディネーターを務める。主な著作に『新しい国際協力論[第3版]』(共著、明石書店、2023年)、『地域から読み解く「保護する責任」』(共著、聖学院大学出版会、2023年)、『トピックからわかる国際政治の基礎知識』(共著、芦書房、2023年)、『「非伝統的安全保障」によるアジアの平和構築』(共著、明石書店、2021年)、『全国データ SDGsと日本』(共著、明石書店、2019年)などがある。

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