『終戦のエンペラー』 ―― 勝者と敗者の壁をこえるために【PR】

7月27日に公開される映画『終戦のエンペラー』試写会&トークショーが、7月8日に開かれた。「新しい戦争映画」と評する登壇者の片山杜秀氏と小菅信子氏。1945年8月に、マッカーサーが命じた極秘調査の裏にあるドラマに、いったいどんな意味があったのだろう? 専門家ならではの刺激的なトークショーの文字起こしをお送りする。(※なお本記事には映画の内容に関するネタバレが含まれております)(構成/金子昂)

 

 

過去を詮索する人間が悪役になっている

 

小菅 まずこの映画を観て、気がついたのは、二枚の写真についてです。

 

最初の一枚は、みなさんもこの映画をご覧になる前に教科書などでみたことがあると思いますが、昭和天皇とマッカーサーが並んでいる写真ですね。もしあの写真が、なんとなくいままでみてきたときの印象と違うものになっていたら、それはこの映画に影響を受けたということなのだと思います。

 

そしてもう一枚は、主人公のフェラーズ准将が映画の最初のほうで「その写真をはがせ」といって部下にはがさせた写真です。このシーンでわたしは息をのんだのですが、あの日本兵が捕虜を日本刀で切ろうとしている写真は、本当に有名な写真で。日本で捕虜になった方々は手記をたくさん残されているのですが、そのなかでよく使われる写真の一枚なんですね。あと今日、実物を持ってきたのですが、たとえば『SHOBUN』という本の表紙に使われている写真でもあります。その写真をはじめに、ハリウッド映画なのに、いきなりはがしてしまう。

 

それからフェラーズには、「報復は正義ではない」「われわれがしようとしているのは復讐じゃないんだ」というセリフがありましたよね。あと、この映画では、フェラーズの過去を詮索する人間を唯一の悪役として描いていました。そういったものが、カタルシスを感じさせる映画の終わり方に繋がっていて、わたしのなかでは、いろいろな意味で非常に印象に残りました。片山先生はいかがでしたか?

 

片山 いまの小菅先生の「過去を詮索する人間が悪役になっている」というのが決定的な感想だと思います。そこがこの映画の根幹ではないですか。言い方はとても難しいですけれども。過去にこだわりすぎると止まってしまう。動けなくなる。逆に退行してゆく。忘れて済ませることは忘れてしまおう。目の前の人間のいまの姿、いまの実をいちばん大切にしよう。そこから未来志向の物の考え方が生まれる。そういうメッセージを強く感じました。

 

われわれはいままでに、「ナチスでも日本でもなんでも、戦争犯罪とか『こんなひどいことをやっていた』といったんだ! 過去を徹底的に暴き立てて償わせてやるぞ! 絶対忘れないぞ! 記憶を継承するぞ!」みたいな戦争映画をたくさん観せられて参りましたよね。あるいはそれを引きずって戦後に及ぶ映画ですね。戦争映画というよりも戦争犯罪映画と呼ぶべきか。逃げたナチをイスラエルがどこまでも追っかけて罰するスパイ映画とか。目には目を、歯には歯を、やられたらやりかえせ。ところがこの映画はそうではない。まさに小菅先生のご専門と思いますが「和解」とか「共感」とか、そういう回路をいかにつくるか。そっちを優先する映画になっておりましたね。

 

これはやっぱりかなり新しいやり方ではないですか。少なくとも太平洋戦争や天皇や東京裁判の映画としては。しかもハリウッド映画ですし。「ハリウッドがこんなに地味で大丈夫か!?」というような淡々とした見せ方でもあるし。フェラーズと日本人通訳がまったく同質の個人的で悲劇的な体験を共有することで「共感」したり、天皇が「国民は悪くない。わたしひとりを罰して下さい」とマッカーサーに語りかけることで、マッカーサーが人間的に「共感」して、物語が回るとか。真実はどうなのか、過去に何があったかよりも、気持が通じるかというところですね。

 

この映画は天皇の戦争責任を探るような探偵映画的な要素もある。そこから始まる。三人の男を探し出して尋ねればわかる。それで探しに行って尋ねるとはぐらかされたり、来なかったりする。それで困る。これは探偵映画の決まり事ですよ。犯罪捜査映画の常道である。そのあと「大物」が出てくる。ここも定法なんだけれども、そのへんから先は決定的に違う。「真相はこれだ!」にならない。証拠の取りそろえとかはいつのまにか吹っ飛んで、肝腎なことは永遠にわからないということで棚上げされて、あとは「純粋情状酌量世界」みたいなものだけになってしまう。

 

開戦の責任の話だったのに戦争をやめられてよかったみたいなほうに論点がすりかわってあとは泣きですよ。涙のカタルシスで、「よかったね」で終わる。小菅先生のおっしゃった通り。カタルシス映画として完成する。探偵映画ではなくてメロドラマなんですね。戦争映画は白黒ハッキリ付けて派手にやっつけたりやっつけられたりするものだという常識の対極にある。しんみりとした新しさですね。

 

小菅 ええ、派手なシーンのほとんどない映画ですが、終戦についての、新しいハリウッド映画だと思います。

 

みなさんもご存じのとおり、アメリカ政府には、「2つの原爆投下が終戦をはやめた」という公の見解、言説があります。この見解は、アメリカで世論調査を何度やっても、賛同する人が7割を切らない。アメリカではやっぱり原爆投下が終戦のきっかけになったと考えられているんですね。

 

それに対して多くの日本の研究者は、8月9~10日に開かれた御前会議では、広島・長崎への原爆投下よりも、ソ連の中立条約破棄と侵攻のほうがインパクトがあったのではないか、それが終戦をはやめたんだという見解がある。これは最近、モスクワで歴史会議に参加したときに、ロシアの研究者のなかでも同じことを言っている方がいました。つまりロシアの侵攻が、戦争終結を招いたのであるという考えですね。

 

でもこの映画は、開戦はともかく、終戦のイニシアチブは天皇にあったと描いている。滅私奉公のお話はあとでしたいと思いますが、国民が滅私奉公で天皇に仕えたように、天皇もまた滅私奉公して日本のために、マッカーサーに「わたしの処遇をゆだねます」とお話をしていました。昭和天皇は平和主義者だったという言説はすでにありますが、こういう描き方があるあたりは、やっぱり新しいタイプの戦争映画だと思うんですよね。

 

だから最初にお話したように、この映画をみてからでは、よく占領の象徴として語られる昭和天皇とマッカーサーが並んでいる写真が、いままでと違ってみえる気がするんですよ。

 

片山 そうですよね。ある種の、歴史を修正しようとするようなタイプの映画ですよね。

 

 

日本人への心遣いを感じさせる

 

片山 映画では、終戦後に誇りを保って生きている日本人がいることを一生懸命描いておりましたね。

 

小菅 おっしゃるとおりで、この映画は負けた側の日本が、征服されたのではなくて、自ら降伏したのだと、勝った側と負けた側が対等に描かれているので、日本人がみなプライドを持っているようにみえました。

 

皇宮警察のプライドの異様な高さや、焼け出された人たちが決してアメリカ人に心を許していない様子であったり、あるいは途中ででてくる娼婦のみなさんが綺麗で迫力をもって描かれていたりしていたり、またはフェラーズがちゃぶ台返しをしているシーンがあったり、なんだか日本人に対する心遣いが感じられるんですよね。

 

片山 普通は派手な戦闘シーンなんかにお金を使うんでしょうけれど、この映画では、そういった人々が生きている東京の焼野原や廃墟の再現に予算を投じているように見えました。大規模なセットで見事に再現されている。日本映画なんかだと記録フィルムなどで逃げるところだけれども。

 

しかし景色を生きた映像にしてドラマに取り込むためには、実景として焼け野原が必要で、そこで俳優が演技しないとだめなんで、記録映像を取り込んで「焼け野原はこうでしたよ」と見せて、次にちゃちなセットで俳優が居てもやっぱりうまくない。嘘っぱちに見えてきますわね。空間の経験が心象を決定する。映画美術はその意味で大切である。この映画の場合はどうしても焼け野原。そういう映画にとっての当たり前の前提を徹底して正攻法でクリアしようとして、しかも成功している。そのへんにこだわる意欲が物凄くありますよね。

 

小菅 ありますよね、驚きました。

 

片山 あと、衣装やセットの東京の街に貼られている標語のポスターなど。時代の再現への配慮にはびっくりさせられる。照明の使い方も、最近の日本の映画やテレビドラマが敗戦直後を描くのとは比べものにならない。暗さや影の出し方ですね。すごく上手ですよ。「昭和20年の夏秋」の感じはすごく出ていると思いました。

 

 

片岡×小菅全体

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.278 

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・熊坂元大「培養肉――クリーンミートあるいは現代のプロメテウス的産物」
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