2013.09.04

女性器損傷(FGM)廃絶に向けて

長島美紀 一般財団法人mudef事務局長

国際 #FGM#ユニセフ#female genital mutilation#FGM/C

7月22日、ユニセフは、女性性器損傷(=female genital mutilation以下FGM)に関する最新の報告書を発表、現在、1億2,500万人以上の女子と女性がFGMを受けており、今後10年の間に3000万にのぼる人が、FGMを受けるリスクがあることを指摘しました(*1)。

……と書きましたが、そもそも、FGMって単語を聞いたことがある人はどのくらいいるでしょう?

今までFGMとは何か、大学やセミナーで紹介したり、紙面でも書く機会が何度かありました。でも「FGMって何の事か知っていますか?」と聞いたとき、答えられる人は非常に少ない。「女子割礼=Female Circumcision」の単語も耳慣れないという人も多くいます。

FGMの歴史は長い。紀元前5世紀のヘロドトスによる歴史書には既に、男女における割礼について言及されています。しかしそれでも、FGMについて公に語られることは、20世紀後半になるまで回避されてきたといってもよいでしょう。

なぜか。FGMが女性の性と生殖にダイレクトにかかわる問題であり、性について男女の性別を超えて、公に語り、女性への身体の暴力としてのFGMという位置づけが可能になったのは、ごく最近だからです。

以前、スーダンでホームステイをしながらFGMのアンケート調査をしていた時に出会った男子大学生がいます。彼は、母親が同国でも有名なFGM廃絶運動を展開する女性でした。しかしその彼も、「母親の活動は理解し、応援している。でも、人前でFGMについて話すのは恥ずかしいし、ためらいがある」と話していました。

男女が性について語ることはもちろん、婚前前の男女が一対一で会うこともできない。また、親が決めた相手と結婚をする。そんな状況では、自分が結婚する相手の女性に「FGMを受けているの?」と聞くことは非常に難しいですし、勇気がいります。

聞くことが難しい。語ることをためらってしまう。

そんな状況こそが、現在のFGMを取り巻く状況の大きな原因なのかもしれません。

(*1)http://www.unicef.or.jp/library/pres_bn2013/pres_13_24.html

複数ある女性外性器・女性性器への損傷行為を表す単語

さて、語ることが避けられてきた(とあえて書きますが)FGMですが、そもそもFGMとは何でしょうか?

世界保健機関(WHO)はFGMを、「文化的あるいは非治療的理由により女性外性器の一部又は全体の切除や、女性性器その他の損傷を含めたすべての処置」と定義しています。

女性外性器・女性性器への損傷行為を表す単語はFGM以外に何通りかあります。例えば「女子割礼(=female circumcision)」や「女性性器損傷(= female genital cutting)」。ユニセフでは「mutilation」が現地の言葉に翻訳される場合に切除(cutting)の単語が使われることや、「mutilation」が持つ言葉の強さを考慮して、FGMに「cutting=切除」を組み合わせて、「FGM/C」と表記しています。また、その他に、「女性性器手術(female genital surgery)」という言い方もあります。

どの名称を採用するかは、この損傷行為をどのように捉えるのか、という意識と密接にかかわっていると私は考えています。

もともと私は博士論文でFGMを取り上げたのがきっかけで、この問題に関わりました。その中で常に突きつけられたのは、「あなたはFGMをどう思っているのか?」という問いでした。

結論から言えば、私にとってFGMは廃絶すべきものであり、女性に対する暴力行為でした。その中で割礼という言葉も、まして「切除」「手術」などというあいまいな言葉を選ぶことは考えられませんでした。

そしてもう一つ、ここが重要なのですが、FGMという言葉を採択したのは、1990年、アフリカの女性たち自身であり、押し付けられたものではないという事です。

1990年代にFGMをめぐる議論は様々な形で発生します。とりわけアフリカ系アメリカ人作家、アリス・ウォーカーの「歓びの秘密」でのFGMの取り上げられ方について、文学や社会学などの分野を横断して、多くの議論が生まれました。

その是非はここでは取り上げませんが、批判の一つに、欧米を中心にした廃絶運動が、FGMを「野蛮で遅れた慣習」と捉え、FGMをステレオタイプ化させたことに無自覚であったことを取り上げたものがあります。その中でFGMをどう表現するのか、そもそも、当事者ではない(=FGMを受けていない、またその危険に晒されている訳ではない)女性が、FGMを語ることができるのか、議論の主体をめぐる意見も寄せられました。

FGMではなくFGCや、女子割礼など別の用語を用いる動きは、こうした議論の延長線上に位置づけられるでしょう。

2005年に現地NGOが採択したFGMという用語に関する宣言では、「用語の変更はFGM=女性性器損傷の本質を見えにくくさせ、アフリカの女性・少女の苦しみを矮小化するものであると私たちは強く主張したい。(中略)廃絶キャンペーンの最前線にあるアフリカ女性たちが到達した総意を無視し、沈黙のうちに苦しんでいる数百万人のアフリカの少女と女性の声を踏みにじるものである」と述べました(Declaration: on the Terminology “FEMALE GENITAL MUTILATION” (FGM). IAC, 2006)。1991年にはWHOも、割礼ではなく「mutilation」の用語を使うことを求めています。

2005年IAC総会での集合写真
2005年IAC総会での集合写真

FGMの施術方法と中長期的に続く問題

さて、そんな言葉の用語の決着を見ないFGMですが、一般的にFGMの施術は小学校にあがるころから初潮を迎える頃と考えられます。まだ幼いときにうけるということは、十分な説明や、理解を得ないまま、少女たちはFGMを受けているともいえます。FGMを受けた経験談の中では「訳も分からず連れて行かれた」という声も聞かれます。

そのFGMについて、WHOでは、(1)クリトリスの一部あるいは全体の損傷を伴う包皮の損傷を指す「クリトリス切除」、(2)小陰唇の一部あるいは全体の切除を伴う包皮およびクリトリスを切除する「切除」、(3)クリトリス、小陰唇、外陰唇の一部もしくは全体を切除した後、膣口を縫合して狭める「縫合」、(4)陰唇を突く、陰唇を突き刺して穴を開ける、引っ張り出す、クリトリスと周辺組織、あるいはそのいずれかを焼くなど「切除」や「縫合」に該当しない「未分類」の4タイプに分類しています。

4つのタイプのうち(1)と(2)が一般的で、合わせて全体の約8割を占めています。もっとも過酷なタイプである(3)は、ソマリアやスーダン南部、ジブチ等、北東アフリカ地域を中心に実施され、全体の15%になると考えられています。

2009年に日本で公開された映画「デザート・フラワー」を観たことはありますか?

これは、ソマリア出身の元トップモデル、ワリス・ディリーの同名タイトルの自伝を映画化したものです。彼女が(3)タイプの、ファラオとも呼ばれる、最も過酷な縫合タイプを受けたのは、わずか3歳。傷跡から感染したせいで、術後、思うように走ったり、木登りができなくなったのだそうです。彼女のFGMを受けているために受けたその苦しみは、多くの女性たちの共感と怒りを引きおこしました。

FGMは女性外性器および性器に損傷を与えることで、被害を受けた女性に多くの副作用をもたらします。FGMの施術直後には出血・ショック・感染症の発生・排尿が困難になるなどの症状がおこると考えられます。2004年に日本でも公開された、「アフリカ映画の父」、ウスマン・センベーヌ監督による映画「母たちの村」では、FGMの手術が藪の中で、小型のナイフで実施される様子が描かれています。伝統的助産師と呼ばれる女性たちが、ナイフやカミソリ、場合によってガラスの破片などで切除行為を行います。物語の最後は、実際にこの施術により、命を落とす少女のエピソードが入りますが、印象的です。

セネガルで実際に使用されていたナイフ
セネガルで実際に使用されていたナイフ

また中長期的にも多くの問題が残ります。アメリカのNGO「equality now」のレポートでは、マリの少女が慢性的な失禁のために、匂いがするとして学校にも通えなくなったケースが紹介されました。また、医学的知識無く手術をされるために、場合によって組織を傷つけてしまい、ケロイド形成や感染症を引き起こす場合や、その苦痛ゆえに性行為がなかなかできなかったり、出産時にひどい苦痛となることが指摘されています。

縫合タイプを受けている女性は、縫合した部分を切り開き、子どもを取り出さねばなりません。マリでは、出産の際、それでも、縫合により固まった性器が広がらず、3日間苦しんだ後、母子ともに命を落とした話を聞きました。

スーダンで訪れた病院では、女性の死亡原因の上位にFGM関連疾患をあげていました。出血や感染症、また出産時など、FGMを受けた女性は、受けたその瞬間から、さまざまな苦痛に悩まされます。縫合タイプを受けた女性が、新婚の際に、性行為を行う際、痛みや縫合後残された穴が小さすぎるために、病院に駆け込むケースもあると聞きました。男性が新婚初夜にナイフで新婦の縫合箇所を切り開くという話もあります。本来歓びであるはずの性行為が、女性にとって、苦しみと忍耐の時間となっているのです。

7月に発表されたユニセフの報告書では、現在アフリカや中東の一部など29カ国で計1億2500万人以上が被害を受けているとされています。今後10年間で新たに被害を受ける恐れがあるのは3000万人以上といわれています。FGMの実施は減少傾向にあるものの、特定の国では「ほぼ全土に」残っていると考えられています。

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なぜFGMが続くのか?

ユニセフの報告書では、「人権侵害であり、健康面で長期的に悪影響を及ぼし、心にも深い傷を負わせる」とつづられ、根絶に向けた啓発・教育活動に取り組むよう実施されている国に求めています。

しかしそれでもFGMはなくなりません。多くの実施国では禁止法が規定されたり、刑法の改正によりFGMを受けさせた者への刑罰が定められるなど、法整備も進められています。しかし、スーダンで聞き取り調査をしたとき、多くの人が禁止法の存在は知っていながら、禁止法の存在を知っているほど、法律の制定には廃絶に意味はないと答えていたほどです。

ではなぜFGMはなくならないのか? そして綿々と続いてきたのでしょう?

私はFGMが昔から続いてきた理由として、女性の健康、そして豊穣への願い、そしてこれらを基盤にした実施地域での文化的、社会的背景をあげたいと思います。

ひとつ目の女性への健康への願いは、性器を切除することが、女性の健康につながるという考えです。

FGMを受けていない女性の性器は汚いという考えから、その悪いところを除去することで、子どもを健康に産むことができる体になるという考えに繋がります。また、外性器の一部を焼却する考えも、燃やす行為を通じて、性病や不妊といった、望ましくない病を取り除こうという考えからきています。女性への現実の身体的影響はさておき、FGMが女性の身体に良いと言う考えを生み出し、正当化させてきました。

この健康への意識は、最終的には女性の性管理という側面と密接に結び付きます。FGMが行われている地域では、FGMを受けた女性は、結婚まで処女であるという証明となるとされています。映画「デザート・フラワー」では、このことについてリヤ・ケベデ演じるワリス・ディリーが、FGMを受けていない女性は結婚できないこと、また娼婦と同じ扱いをされてしまうことを指摘していました。

多くの地域でも、FGMを受けないことで、村で仲間外れにされたことや、仲間外れにされるのが嫌で親に内緒でFGMを受けた少女の話、逆に強制されたことでシェルターに逃げ込む少女の話も聞きます。

その背景にFGMを受けていない女性が社会や家族からの保護を受けていないことを、これらの事例が示しています。

FGMの実施地域では、女性の就学率は上がっているとはいえ、女性の経済能力は未だ十分とは言えません。国連は、開発途上地域、特に、南アジアとサハラ以南アフリカでは、女性の雇用全体の80%以上が、この不安定な職であると推定しています。国連は、女性の仕事とされている職業が、相対的に地位が低く、賃金が安く、労働条件も劣悪な傾向にあります(UN Department of Economic and Social Affairs, The Millennium Development Goals Report 2008 (Aug. 2008) p.18.)。

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スーダンの街中で。女性が恥ずかしがって顔を隠している。

経済的に脆弱な立場に置かれた女性は、比較的優位に立つ男性に経済的服従を余儀なくされました。

FGM実施地域ではイスラーム教の伝統が根強く残されている地域が多く含まれます。FGMはイスラーム教の教えとは関係がありません。この点は多くのイスラーム法研究者が指摘していることです。しかし、イスラーム教の伝統的な家族観、社会構造が、FGMを受けることを当たり前として、半ば規範化してきたということは考えられます。

経済的・社会的に脆弱な立場にある女性が、自分たちの生活を維持し、守るためにFGMを受ける。FGMは女性への暴力として語るだけではなく、こうした文化的、社会的背景や経済的状況も考慮に入れる必要があります。

豊穣への願いは、クリトリスを切除することで、たくさんの子どもを産むことができるようになるという信仰を意味します。多くの子どもを産み、育てること。またそれができる事は、豊かな食料に恵まれた社会があることを意味しています。

FGMは、単に女性を傷つけ、恐怖を味わわされるために始まった訳ではありません。豊かな食料や水、子どもがたくさんいる幸福な社会。そんな現実とかい離した夢が、紀元前の社会ではFGMに託されていました。現代はもちろん紀元前の状況とは異なります。とはいえ、女性たちがクリトリスを切除することが、子どもたちのためなのだという気持ちに、(誤っているにせよ)配慮しながら廃絶運動は進める必要があります。

私がスーダンで、現地NGOの協力を得てFGMに関する聞き取り調査を行っていた時、ドライバーの男性から、妻が娘にFGMを受けさせようとしているという話を聞きました。NGOのスタッフたちは口々に「あなたの妻は、FGMを受けたおかげで、難産だったじゃない。今も薬を飲んでいるんでしょ? それなのにFGMを受けさせるの?」と口々に批判をしていました。

廃絶の取り組みを知り、理解しているはずの男性でも、まだ家庭の中で、FGMを持続させようとする。私が話をした男性の多くは、FGMはなくすべきだと、口々に述べます。「家庭の中で女性たちがFGMを決定しているから」。そのコメントは、聞き取り調査でも反映され、多くの家庭で、母親もしくは祖母が、FGMの決定権者であり、男性の多くはFGMに反対しながら、娘がFGMを受ける事を止める術を持っていなかったのです。

スーダンのNGOメンバー
スーダンのNGOメンバー
聞き取り調査の様子
聞き取り調査の様子

 

またこの調査を通じて訪れた村の中には、これまで行われてきた縫合タイプではなく、クリトリスを切除する、FGMの中で軽いタイプを採用することになったとの話を聞きました。廃絶を推進する動きからすれば、軽いタイプになったとしても女性への苦しみが軽減される訳ではなく、FGMを維持する試みに過ぎないとも言えます。

村の総意として決定されたとの話は、FGMが実施されてきた長い長い歴史とFGMに対する社会的・文化的・経済的背景の深さを示すものでもありました。

「FGMは僕の世代ではなくならないでしょう。でも僕が死んだあと、100年後には、ゼロになっていればと思う」

以前日本で出会った、FGM廃絶に取り組みたいと話したある民間企業の方の言葉です。世代を超えた段階的な廃絶。FGMがどれだけ社会に根差し、その廃絶の難しさ、単に言葉で言い表せない現状があります。

FGMをなくすために。私たちにできること。

FGMについて多くの人が社会的・文化的・経済的背景の差を超えて語るようになったのは、冷戦後の事でした。アフリカ、さらには日本も含めた世界中の女性が、これは女性への暴力であり、人権侵害だと声をあげたのです。

冷戦後、国際会議など多くの場で、女性に対する暴力について語られました。1993年の暴力撤廃宣言では、その前文で、女性に対する暴力が、男女間の歴史的な不平等な力関係と、男性の女性に対する支配および差別ならびに、女性の十分な地位向上の妨害につながってきたことが指摘されています。

しかし女性への暴力はなくなりません。インドの寡婦殉死や幼児婚、中東地域での名誉殺人、またWHOの調査では、世界で女性の実に三人に1人が精神的・肉体的暴力を受けていると推定しています。

そしてその背景にあるのは、女性への不平等な関係、そして女性の貧困と教育の充実です。

スーダンで行った調査では、教育水準が高いほど、また両親の教育水準が高いほど、FGMを実施していない、もしくはクリトリス切除という軽いタイプのFGMを受けていました。また教育水準が上がると、FGM廃絶をめぐる議論について本やインターネットを通じて目にし、知識として得ているという結果も見られます。

FGMという女性への暴力行為をなくすためには、短期的な法整備以外に、女性への教育の充実と女性の社会進出のサポートという中長期的な視点は不可欠です。

また、草の根レベルのサポートも欠かせません。特にFGMを女性の問題としてではなく、男性も含め社会全体で考え、廃絶について話し合うことが求められます。その村で話し合い、村の指導者である男性や長老もFGM廃止に賛成する。その状況を創り出さない限り、FGMは決してなくならないのです。

ブルキナファソでは政府のイニシアティブで法整備だけではなく、匿名での通報を可能にするホットライン制度を導入しました。その結果、ユニセフの推計によれば、1996年の時点では3人に2人がFGMを受けていた状況から、2006年時点で実施率は3人に1人が受けているという状況にまで減少しています。

FGMの廃絶には法整備は第一歩にすぎません。社会が抱える不平等な構造そのものを見直す必要があります。

そしてその不平等と言う点では、FGMは決して特殊な問題ではありません。日本を含めた先進国でも所謂「女性化された貧困(feminized poverty)」という現象が指摘されています。極度の貧困状況で暮らす人口に占める女性の割合の高さは、女性をより弱い立場と、暴力を受けやすい状況に追い込んでいるのです。

「妹は泣き叫んでいたの。『どうして? もうクリトリス切除したじゃない? 何で縫合しないといけないの』って」

と語った女性がいました。聞き取り調査で私が村を訪れる10日ほど前の事、泣いて暴れる妹を母親が無理矢理連れ出して縫合タイプを受けさせたのだそうです。

調査員の女性も、村の女性も、「なぜあなたは止めさせなかったの?」と詰め寄りました。

でも、なぜ、村の女性たちは、妹が泣き叫んだ時、その叫びを聞き取れなかったのでしょうか?

私はFGMについて考える時、いつもあの聞き取り調査での女性たちの言い合いを思い出します。そして「私なら?」と問いかけたいと考えています。指導教授に「この問題を書く以上、取り組み続けるんだね」と言われたことを思い出しつつ、この問題にかかわり続ける重みを常に感じずにはいられません。

注記(1):FGMをめぐる議論について詳細は拙書『FGM(女性性器損傷)とジェンダーに基づく迫害概念をめぐる諸課題―フェミニズム国際法の視点からの一考察[早稲田モノグラフ29]』(2010年11月、早稲田大学出版部)参照。

注記(2):一般的にFGMの日本語訳では「女性性器切除」が一般的に用いられていますが、「Cutting=切除」との区別がつきにくいこと、またFGMが単なる切除に留まらず、女性の性器およびその周辺部に対する損壊行為を含むことから、「女性性器損傷」という訳語を当てています。なお、ユニセフでは「女性性器切除(=female genital mutilation/cutting、FGM/C)」の用語を使用していますが、本文では便宜上すべてFGMの用語を用いました。

プロフィール

長島美紀一般財団法人mudef事務局長

一般財団法人mudef事務局長。政治学博士。大学院在籍中に国連機関やNPOでインターン経験を行ったことをきっかけに、国際協力に関心を持つ。2004年から(特活)TICAD市民社会フォーラムに参加、事務局開設、運営を行う。2005年度より早稲田大学政治経済学部助手を務める傍ら、同団体の事務局長、理事としてキャンペーン事業を担当。2010年5月より現職。また、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンターではコーディネーターとして元マラソン選手・瀬古利彦氏のチャリティ企画「EKIDEN for PEACE」運営に携わる。

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