人道的介入の倫理とその解剖

選択的な介入

 

はじめに、その本来の理念に照らして介入の現実を分析すると、はたしてそれが人命の保護という国際道義を第一に考えていたのかどうかについて、実は多大な検討の余地が残されている。なぜなら、介入には常に選択性の問題が付きまとうからである。もし人道的介入が、国境を越えて国際道義を追求するという本来の目的に資するものであろうとするならば、気が向いた場合に気が向いた場所にだけ介入するというわけにはいかない。国際社会は、同じような人権侵害に対して同じように対応してきたのだろうか。この点に関して、現実の対応はかなり選択的であったといういくつかの証拠がある。

 

アメリカの事例を取り上げよう(詳しくはチョムスキー『アメリカの「人道的」軍事主義』(現代企画室)第3章を参照)。

 

アメリカは1999年にコソボ紛争に介入してセルビアを攻撃したが、ちょうど同時期に分離独立の是非を問う投票を控えていた東チモールで、インドネシア軍が行った弾圧を阻止する努力は怠った。また、旧ユーゴ地域と同様ヨーロッパにほど近いトルコにおいても、クルド人の分離独立運動を弾圧する政府に対して、非難するどころか武器の拠出を行っている。何よりも、パレスチナでアラブ系住民に軍事攻撃を繰り返すイスラエルに対して、アメリカは常に国際社会の最大の擁護者であり続けている。冷戦終結後のアメリカを、善意に目覚めた公平無私の助っ人のように描写するのは、事実認識として多大な疑問の余地がある。

 

もちろん、すべての問題を同時並行的に解決することが可能とは限らない。介入国と被介入国のあいだの地理的距離があるし(地球の裏側に兵力を展開するのは難しい)、国際的正統性の有無もあるし(とくに安保理常任理事国の反対は重大である)、国内世論の反応もある(経済状況が悪化して介入どころでないかもしれない)。選択的ではあるにせよ、ゼロよりはましだという考えもあるだろう。しかしながら、選択性の問題は、介入が目的としている国際道義そのものの純粋さに疑問符を付ける。地政学上重要な国や地域にのみ介入が行われ、他方で放擲される国や地域があるとすれば、介入の主目的である人命の保護が別の意図を隠すための言い訳に用いられている可能性も否定できない。

 

例えば1980年代、中米の国ニカラグアにおいて、親米政権を革命によって打倒したサンディニスタ政権に対抗して、アメリカは反政府組織を「自由の戦士」と呼んで軍事的に支援したのみならず、政府軍をたびたび直接的に武力攻撃した。こうしたアメリカの方針が、冷戦下における反共政策の一環だったことは明白であり、本件を検討した国際司法裁判所も、アメリカの「武力の行使が人権確保の適切な方法であるとは、到底言うことはできない」と断じている(波多野他編『国際司法裁判所』(国際書院)290頁)。

 

これほど明白な例は例外的かもしれないが、自国民の利益も含め、介入国にとって介入の目的が複数ありうること、他国民の利益がその添え物にすぎないかもしれないことは、常に念頭に置く必要がある。

 

介入の目的が純粋でないという問題は、介入がほぼ定義的に国家主権の侵害を伴うがゆえに、決して軽視できるものではない。そもそも戦後の国際社会では、諸国家が自国の内政に対して排他的権限をもつという不干渉原則が確認されており(国連憲章第2条7)、人道的介入は、現行の国際法に照らすなら超法規的な性格を多分にもち合わせている。

 

前国連事務総長K・アナンは、ノーベル平和賞受賞記念講演で、介入される側が「国家の主権を人権侵害の盾にすることはやめるべきだ」と主張した(朝日新聞2001年12月11日付)。それはもっともな意見であるが、ならば介入する側が国益の有無を選択性の盾にすることもやめるべきではないか。国際社会の原則はあくまでも内政不干渉であり(この原則を自ら放棄した大国があるだろうか?)、例外の余地があるとすれば、それは介入が他国民の利益を目指すときに限られるのだ。

 

1 2 3 4 5
シノドス国際社会動向研究所

vol.272 

・荒木啓史「遺伝か環境か?――ゲノム科学と社会科学の融合(Sociogenomics)が教育界にもたらすイノベーション」
・神代健彦「道徳を「教える」とはどのようなことか――「押しつけ」と「育つにまかせる」の狭間を往く教育学」
・中里透「財政のことは「世の中にとっての」損得勘定で考えよう!」
・伊藤昌亮「ネット炎上のポリティクス――そのイデオロギー上のスタンスの変化に即して」
・穂鷹知美「マルチカルチュラル社会入門講座――それは「失礼」それとも「人種差別的」? 」
・福原正人「戦争倫理学と民間人保護の再検討――民間人殺害はなぜ兵士殺害より悪いのか」