人道的介入の倫理とその解剖

空からの介入

 

ともあれ、国際政治を含む政治の場面では、常に選択と妥協が不可避である。例えば、NATO軍によるコソボ介入を受けて、カナダ政府が設置した国際委員会の報告書『保護する責任』(2001年)では、「そうする正当性があるからといって、ありとあらゆる場合で介入を実施することはできないかもしれない」という現実が率直に告白されている(ICISS, The Responsibility to Protect, p. 37)。

 

そこで本稿では、選択性の問題をいったん脇に置いておこう。しかしながら、たとえ選択された介入を取り上げたとしても、その方法が本来の目的と合致していないことも往々にしてある。例えば、コソボ介入は主として空爆の形式をとったため、それが大使館の誤爆を含む相当多数の民間人被害を生み出し、国際論争の的となった。人道的介入はそもそも無辜(むこ)の人命の保護を目的としているのだから、それが他の無辜の人命の損失を伴わざるをえないのは一層問題含みである。

 

なぜ介入は空から行われたのだろうか。その理由は、NATOにとって地上軍の派遣が自軍のより大きな危険を伴う可能性があったからである。これには前後関係がある。コソボに先立つソマリアへの軍事介入においては、PKO部隊と現地勢力のあいだで武力衝突が発生し(モガディシュの戦闘)、18名のアメリカ軍兵士を含む多くの死傷者が出た(この事件については、映画『ブラックホーク・ダウン』で概要を知ることができる)。

 

その後アメリカ政府は、国内世論に配慮して危険を伴う介入に慎重な姿勢をとるようになる。具体的には、1994年の大統領決定指令(PDD25)が国際紛争への派兵を「選択的かつより効果的に」すべきだとの方針を示し、それがコソボ介入にも反映された。米軍を中心とするNATO軍は、他国民ではなく自国民にとっての危険を最小化する方法を選択したのだ。

 

しかし介入の本来の趣旨に照らせば、これはおかしな話である。なぜなら、自軍の危険を減らすことは人命の保護という国際道義の要請ではないはずなのだから。介入の本来の目的は、自国民を守ることではなく他国民を守ることである――結局のところ、自軍の危険を最小化したければ、介入に参加しないという選択が最適であるに違いない。自軍の危険を減らそうというねらいは、介入の本来の目的を曇らせる。自国の防衛戦争において、軍隊の被害を最小化するために、市民の被害を増大させても構わないという理屈が成り立つだろうか。もし介入が国籍を問わず、人命の保護を目的としているのであれば、人道的介入においても、こうした打算的考量が入り込む余地はないはずである。

 

国際政治学者のJ・ミアシャイマーによれば、「アメリカの外交政策には道徳主義が染み込んでいるとよく言われるが、人道的な支援においてアメリカ兵が殺されたのは、過去百年の内でもソマリア介入の時だけである」らしい(『大国政治の悲劇』(五月書房)77頁)。無論、国際政治の場面において国益をまったく考慮しない対外政策はありえないと突き放すこともできよう。しかしながら、その真意を介入先の国民に対してどのように説明できるだろうか――やるだけのことはやるが、その場合でも私たちにとっては他国民の命よりも自国民の命の方が大事なのだ、と。

 

筆者はこの政治判断を軽々しく非難するつもりはない。各国の政治家の存在理由は他国民ではなく自国民の利益を確保することであり、民主国家の場合、政治家はその約束のもとに自らの地位を獲得しているからだ。しかしながら、人命の保護という国際道義のためにこそ国境を越えて武力を行使するという建前のなかに、以上のように自国民と他国民を差別する根拠は見出しがたい。介入する側の危険を最小化するためなら、介入される側の危険を増大させることをも厭わないとするならば、人道的介入という理念自体が自己矛盾に陥っていると捉えられても仕方がないだろう。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.272 

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