人道的介入の倫理とその解剖

人道的な帰結?

 

人道介入論者は、以上の反論をすべて受け流すかもしれない。

 

確かに、介入の目的が自国に有利であることも、さらに介入の方法が自国に有利であることも事実かもしれない。ひょっとすると、それは大国の国益追求の産物だったのかもしれないし、政治家の自己満足の産物だったのかもしれない。しかし依然として、介入によって救われた人々は沢山いる。その観点では、総合的に判断すると、やはり介入はされないよりもされた方がよかっただろう。「終わり良ければすべて良し」と言うではないか。結果的により少ない被害でより多くの人命を救うことができれば、介入の意義はあったのだ。

 

しかし、介入の目的や方法の適切性はともあれ、介入が人道的帰結をもたらしたという主張も同様に疑わしい。例えばNATO軍の空爆は、地上でのセルビア人によるアルバニア系住民の民族浄化その他の人権侵害をむしろ加速化させ、85万人超が空爆後に難民化したといわれている(小池政行『現代の戦争被害』(岩波新書)117頁)。さらには、空爆で使用された劣化ウラン弾が現地に残した健康被害の問題もある。またコソボでは、介入終結後、逆にセルビア人を標的とする暴力が増加したといわれ、その独立宣言(2008年)をセルビア政府が断固否定するなど、民族間の確執は収まっていない。

 

他の事例も見てみよう。ソマリアでは、国連PKOが撤退した後に国内分裂が加速し、事実上の無政府状態のなかでテロ攻撃や難民流出が続くなど、現在もなおまったく予断を許さない。ルワンダでは、内戦終結後新政府の統治下で比較的早期に社会の立て直しが進み、経済的には順調な発展を遂げているようである。ハイチでは、アリスティド政権への反発から内乱が発生し、PKO部隊が秩序の安定に努めているが、その後も破綻国家ランキングの上位に位置するなど、依然として国内統治の安定化には至っていない。介入の帰結は各事例で千差万別であるが、決して「終わり良ければ……」と手放しで称賛できるものばかりでもなさそうである。

 

概していえば、人道目的のためであれ、軍事介入に踏み切るということは、その後の平和構築についても責任を引き受けるということである(篠田英朗『平和構築入門』(ちくま新書)第3章)。というのも、そもそも現地政府が破綻しており信用ならないからこそ、外国がその意向を飛び越えて介入を行ったのである。人道的危機をある時点で阻止したからといって、介入主体がただちに手を引くわけにはいかない。例えば、国連PKOによる暫定統治の枠組みを援用するなどして、国際社会全体が、長期間にわたり、新政府を助け、国内統治を安定させなければならないのである。その課題は、復讐行動の抑止や治安の回復から、統治機構の再整備、難民の帰還、経済復興、戦犯処理など多岐に及ぶだろう。

 

 

理念の現実化に向けて

 

それでは、代わりにどうすべきなのだろうか。筆者が別著で言及したように、人権侵害の発生を目の当たりにしてさえ、暴力的手段に訴えない様々な方法がありうる(松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書)第6章)。とはいえ、現在国連PKOを中心とする国際活動が、場所と内容によっては効果をあげていることも事実であり、それらを一概に否定すべきではない。より建設的な方法は、非暴力手段と並んで、これまでの介入の問題点を是正し、それをより本来の姿に沿うかたちで再編する道筋を示すことだろう。別著ではその試案として、国内的な警察活動のモデルに従い、介入を国際的な警察活動と見なすことを要約的に提案した(同204頁)。以下ではその内容をさらに敷衍してみたい。

 

介入を警察活動と類比することの第一のポイントは、それが法の執行の一環であることである。現行の国際法では、人権侵害を取り締まるような法規が国内法のように整備されているわけではないが、それでも戦後の国連体制のもとで、ジェノサイドの禁止や国際人道法の重大な違反行為などが明文化され(藤田久一『戦争犯罪とは何か』(岩波新書)第4章)、国際法学者によっていわゆる強行規範としても考えられている。こうした国際法規範の一環として位置づけられるならば、人道的介入の理念は一国の都合に振り回されない強固な国際的指針を得ることができるだろう。無論、その正統性を担保するためには、国連のような真の国際機構が主体となり、国連安保理あるいは国連総会の承認を経ることが望ましい。

 

これは上述した選択性の問題の改善を迫るものとなるだろう。ある国の人権侵害を取り締まり、別の国の人権侵害を取り締まらないのは、警察活動として失格である。もちろん、緊急性や正統性との関連で、今この時点で行動を起こすかどうかは状況に左右されるが、それが介入の必要性を認定する基準にはなりえないし、なってはならない。それはまるで、一般市民は御しやすいから優先的に取り締まり、権力者は御しにくいから後回しにすると警察が公言するようなものである。国内の警察活動と同様、法の中立性と公平性という原則に固執することが、介入の信頼性を高める結果になるだろう。

 

類比の第二のポイントは、国際司法機関との連携をもっと密にすることである。確かに、国内の警察活動には行政活動と区別される司法活動の余地が存在するが、その役割はあくまでも犯罪者を司直に引き渡すことであり、自ら罰することではない。義憤にかられたからといって、警察が私刑(リンチ)に訴えてよいことはありえない。要するに、国内社会と同様に国際社会でも、警察権力と司法権力を独立させることである。他国の人権侵害を取り締まるにあたっては、この種の自己抑制が介入主体に対して求められるだろう。S・ミロシェヴィッチ元大統領の裁判を管轄した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷やA・ビジムング元将軍の裁判を管轄したルワンダ国際戦犯法廷、常設の国際刑事裁判所などがそのモデルとなりうる。

 

以上の点は、介入の方法や武器の使用にあたっても方針と制約を示している。警察の第一義的な役割は、当事者のあいだに割って入り、個人の生命・身体・財産を保護し、公共の安全と秩序を維持することである。介入を警察活動と類比することは、平和構築まで含めた人道的介入が、その主体にとって特殊なリスクと負担を伴うという現実を意識させる。国際政治学者のM・カルドーが言うように、「『人間の安全保障』の活動は実のところ、戦争行為を任務とする現行の活動よりも危険である。『人間の安全保障』に携わる者は、他者を救うために彼/彼女の命を危険にさらす。国内での状況下で警察官や消防官がそうすることを求められるように」(『「人間の安全保障」論』(法政大学出版局)263頁)。しかし、この種の危険を引き受けることが、自分ではなく他人を守るために働くことの本質であるはずなのだ。

 

人命の保護という明白な目的であるからとか、国家間紛争のような大規模な武力衝突に至らないからとかの理由で、人道的介入が一般的な戦争行為よりも実施のハードルが低いなどと考えてはならない。空から爆弾を降らせたり、政権を転覆させたりするだけで人道的危機が収まると想定するのは安直であり、かつ過去の事例に鑑みればまったくの誤りである。自分を守ることと他人を守ることのギャップは決して小さくない。必要とされる装備も異なれば、戦略や訓練の形態も異なってくるだろう。国境を越えて、人道的危機に何とかして取り組もうとするときにこそ、自国民のためになすべきことと他国民のためになすべきことの本来的な衝突が前面に現れる。

 

だからといって、わが国を含む国際社会が人道的危機に取り組むべきでないなどと言いたいわけではない。そうではなく、その取り組みを引き受けようとするならば、まずはじめに国益の追求を最優先課題とする伝統的な価値観を見直す必要があるということだ。さもなければ、自国民の利益と他国民の利益を同時に追求することがもたらす歪みを、結果的には介入先の国民に押しつけてしまうことになる。それを支える価値や原理の次元から分析すれば、人道的介入は、国家安全保障の延長線上にあるというよりも、むしろ逆の方向を向いている。現存する戦力の新たな存在・活用意義として、「国際貢献」や「海外派遣」といった錦の御旗を掲げる前に、私たちはそれがいかに特殊なリスクと負担を伴うものである――がゆえに一層困難であり価値がある――かを認識する必要がある。

 

最後に、この観点からすれば、わが国の自衛隊がこれまでカンボジア、ゴラン高原、東チモールなどで果たしてきた、停戦監視や施設整備などの堅実な海外活動を積極的に再評価することができよう。圧倒的な軍事力によって犯罪者に懲罰を与えることだけが、人道的介入のあり方なのではない。むしろ、日々の警察活動がそうであるように、武力をむやみに使用せず、そのプレゼンスによって国際社会の視線が注がれていることを当事者に示し、社会秩序の構築と維持に貢献することが、決して目立つわけではないが、効果的な介入のあり方なのではないか。長期間の地道な活動を通じて、もはや「介入」という劇的な用語が適さなくなるとき、人道的介入はその形容詞にもっとも相応しくなるのだといえるかもしれない。

 

国連事務総長として第二次中東戦争やコンゴ動乱の解決のために尽力し、後の国連PKOの先鞭をつけながら、任期中に不慮の事故によってこの世を去ったD・ハマーショルドは、生前の日記中に次のような言葉を残していた。

 

 

成功――神の栄光のためか、おまえ自身の栄光のためか。人類の平和のためか、おまえ自身の安らぎのためか。この問いにおまえがどう答えるかに、おまえの努力の成果がかかっているのである。(『道しるべ』(みすず書房)147頁)

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

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・神代健彦「道徳、この教育し難きもの」
・大賀祐樹「懐疑的で楽観的な哲学――プラグマティズム」
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