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暫定政権の担い手

 

アラブ諸国の移行期の政治を、どのように見ていけばいいのか。さまざまな地域の過去の革命や民主化の事例に基づく研究を参照して考えてみよう。

 

ヨッシ・シャインとホアン・リンスは共編著『国家と国家の間──民主的移行における暫定政権』で、ある体制が崩壊して次の体制が設立されるまでの移行期に統治を行う「暫定(interim)政権」の比較考察を行った。そこから暫定政権を分析するための四つの類型による分類論を提案している。それによれば、多くの暫定政権は次のいずれかに当てはまる。

 

 

(1)臨時(provisional)政権

(2)権力分担(power-sharing)政権

(3)管理(caretaker)政権

(4)国際管理(international interim)政権

 

 

(*1)Yossi Shain and Juan Linz, 『Between States: Interim Governments and Democratic Transitions, Cambridge』 Cambridge University Press, 1995, p. 5.

 

(1)の臨時政権は、革命などによる政権崩壊を受けて、政権を打倒した勢力が政権を掌握して恒久的な新体制設立に向けての過程を取り仕切る。(2)の権力分担政権では、旧体制派と革命派が権力を分け合う。(3)の管理政権は、退場を余儀なくされている旧体制派が移行過程を管理する。(4)では、政権崩壊後に国連などの国際的主体が選挙監視など移行過程を管理する

 

この分類を用いてみれば、チュニジアでは、2011年1月14日の、ベン・アリー大統領の突然の国外逃亡後に、残された文民閣僚たちによる「管理政権」がまず成立した。そして、管理政権によって運営された2011年10月の立憲議会選挙の結果に基づいて成立したナハダ(復興)党主導の政権は「臨時政権」に近い。第一党になったが過半数を取れなかったイスラーム主義のナハダ党は、第二党で世俗的な「共和主義のための会議」、第三党で左派的な「労働と自由のための民主フォーラム」と連立して、大統領・首相・議会議長のポストを割り振り、組閣した。

 

大統領となった「共和主義のための会議」代表のモンセフ・マルズーキーや、首相となったナハダ党幹事長のハマーディー・ジバーリーはいずれもベン・アリー政権時代に投獄されるか、海外亡命を余儀なくされていた。その意味で、旧体制における反体制勢力が、旧体制の崩壊に伴って政権についたという意味で臨時政権に近い。しかし2010年12月から翌年1月にかけての大規模デモにはそれほど主導的役割をはたしていなかった。そのため、革命を行った勢力がそのまま政権についたわけではない。革命によって可能になった自由な選挙という条件のもとで、最も効果的に集票活動を行った結果、政権を獲得したのである。

 

ここから、旧政権下で勇敢に支配に抵抗していたという正統性はあるものの、臨時政権の担い手としての「革命的正統性」には欠けるところがある。そのことが、正当に選挙で勝利しながらも、立憲過程を力強く牽引していく力に欠ける要因になっていると思われる。2013年に二度の野党指導者暗殺が起こるたびに、リベラル・左派と旧体制派や労働組合が一致してナハダ党主導政権への退陣圧力を高めた。2月にはジバーリー首相は辞任を余儀なくされ、ナハダ党幹部で内相を務めていたアリー・アライイドに交代したが、7月の新たな野党指導者暗殺事件をきっかけに再度高まった圧力に耐えかねて、10月にはナハダ党主導の政権そのものが近い将来の下野の意志を表明せざるを得なくなっている。

 

エジプトの場合、ムバーラク政権崩壊と共に、旧体制の中核にあった軍が暫定政権の担い手を務める「管理政権」が成立した。2011年1月25日に始まる反ムバーラク政権の大規模デモに直面して、軍は大統領と側近、そして内務省系の治安警察を見捨てて政権を離脱した。軍の管理政権は、一時的に、ムスリム同胞団主導の、ある種の「臨時政権」に地位を譲った。2011年から翌年にかけての人民議会(下院・立法府)や諮問(シューラー)評議会の選挙や、2012年5月から6月にかけて行われた大統領選挙と決選投票で、ムスリム同胞団とその設立した自由公正党が勝利した。2012年6月30日にはムスリム同胞団のムルスィー氏が大統領に就任。エジプト近代史初の、選挙で選ばれた文民大統領となった。

 

ここでもチュニジアと同様に、旧体制下で弾圧されていた反体制組織が、政権崩壊後の選挙で勝利し、権力の座に就いたという意味で、ある種の「臨時政権」と言えるものの、直接的に革命を主導した勢力が政権を獲得したわけではない。ここから、「革命的正統性」を十分に主張できず、革命の主体を標榜する様々な勢力からの挑戦を受け、政権運営に行き詰まった。チュニジアとの比較では、チュニジアではイスラーム主義勢力の第一党が、左派・リベラル派と連立を組んだのに対し、エジプトではムスリム同胞団がほぼ単独で政権を掌握したという点が異なっている。

 

いまだ記憶に新しいと思われるが、2013年6月30日の大規模デモで、ムスリム同胞団の統治への反対勢力が、革命派若者から旧体制勢力まで幅広く結集し、7月3日の軍のクーデタを呼び込んだ。その後の政権は再び軍が実質的な権力を握る、「管理政権」に戻ったといえる。

 

リビアの場合、内戦でカダフィ政権が完全に打倒され、反カダフィ政権の内戦を主導した国民移行評議会が首都トリポリ陥落後にそのまま政権を握ったという意味では、典型的な「臨時政権」が成立した。臨時政権が選挙を行って、選挙で勝利した勢力によるもう一つ別の臨時政権に権限を受け渡したところまでは、当初示した工程表通りだった。しかしこの第二の臨時政権が統治と立憲過程で行き詰っているのが現状である。

 

2012年7月の選挙の結果を受け、8月に国民議会が招集されると、国民移行評議会は国民議会に権限を委譲して解散した。暫定的な国家元首となる国民議会議長には、1981年に亡命して以来、在外の反政府組織リビア救済国民戦線(NFSL)を指導してきたムハンマド・マガリヤフが選出された。首相にはカダフィ政権期に亡命していた弁護士のアリー・ザイダーンが就任した。旧体制への反体制勢力による、選挙を経た臨時政権が設立されたといえよう。

 

しかし、カダフィ政権を軍事的に打倒した際の功績を主張する各種民兵集団が競い合い、治安が不安定な状況が続く。民兵集団やデモ隊による、カダフィ政権の残存勢力の一掃への強硬な要求を背景に、カダフィ政権時代の要人を包括的に公職から排除する法律が国民議会で制定されたが、それに基づいて、長く在外反体制指導者の筆頭格であったマガリヤフですら、1970年代の短い時期にカダフィ政権で要職にあったという理由で、国民議会議長の辞任を迫られる事態になった。「移行期の正義」を硬直的なルールで適用すると、移行期の政治の担い手そのものがいなくなってしまうというパラドクスが生じている。

 

イエメンの場合は、他の三カ国と大きく異なり、既存の与野党に大規模デモを主導した新たな勢力が加わった「権力分担政権」が成立した。湾岸協力会議(GCC)諸国や米国などが仲介し2011年11月に結ばれた合意では、サーレハは訴追免除を条件に大統領職から退任し、ハーディー副大統領が大統領代行として権限を委譲された。2012年2月には短縮された2年間の任期についての大統領選挙が行われたが、ハーディー大統領代行以外の候補者は立たず、ほぼ100%の信任投票を現職が受けるという形になったため、国民の意志が十分に表出されたかどうかは定かでない。

 

また、サーレハ前大統領が訴追や追放、あるいは内戦の末の殺害といった憂き目にあわず、支持基盤である与党・国民全体会議の党首であり続けている。ハーディー大統領は国民全体会議の副党首に留まっており、その意味では依然としてサーレハ前大統領の「部下」なのである。このような勝者と敗者を曖昧にした権力再配分の手法を用いることで、内戦突入の危機や、移行期の大規模な混乱を未然に防いでいると考えることもできるが、問題解決や責任追及が棚上げされるという側面も目立ってきている。

 

ハーディー大統領の政権において、選挙ではなく、部族や団体など各種の勢力の代表者を指名した「国民対話会議」が招集され、統治機構改革や北部や南部の反乱・分離主義への対応、連邦制などが協議されている。多数決原理を取らない対話会議であるため、議論の終着点や期限は必ずしも明確ではなく、協議は長期化、拡散する傾向がある。

 

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シノドス国際社会動向研究所

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