『わが闘争』という負の遺産――書物の〈読み〉をめぐる闘争

<内容>

■2015年の『わが闘争』問題

■世界で、そして日本で読まれる『わが闘争』

■なぜ、『わが闘争』は問題視されるのか?

■読んではならないのか? 読むべきなのか?

■様々な〈読み〉とドイツ社会の公共

 

 

2015年の『わが闘争』問題

 

アドルフ・ヒトラーの著作『わが闘争』は、「ナチスのバイブル」とも称され、ナチス体制下ドイツの各家庭の本棚の多くに収められていた書物であった。その『わが闘争』がヒトラーの死後70年目を迎える2015年末に著作権の保護期間が終了することとなり、ここ数年、この話題はドイツのニュースを賑わしている。

 

ニュースの多くは、『わが闘争』を出版したフランツ・エーアー社の所在地であり、ヒトラーが住民登録をしていたドイツ・バイエルン州が保持する同書の著作権・出版権をめぐるものだ。そのなかでも、著作権の失効後も州政府が、ドイツ国内あるいは他国における『わが闘争』の出版あるいは翻訳出版に介入するかどうかが大きな争点となっている。

 

2012年にバイエルン州政府は、ミュンヘンに本部を置く現代史研究所が注釈つきの『わが闘争』を出版し学校教材を作成することに対して、資金援助を決めていた。現代史研究所とはドイツ連邦政府とそのほか7つの州によって運営されている公共機関であり、ナチス時代の歴史を研究するために、1949年に設立された機関である。

 

しかしバイエルン州は2013年末に突如、同研究所への援助の打ち切りと注釈付き『わが闘争』の出版停止を求めた。この方針転換に対して各方面からの非難がわきあがる。結果的には資金援助は停止されたが、すでに援助した分は返還を求めないことが決まった。現在でもバイエルン州は、2016年以降も他国や他団体が『わが闘争』を出版することに対しては法的措置を取るという態度を崩していない。

 

いまだ収束したとはいいがたい本事件については、伊藤暢章氏が『出版ニュース 2月下旬号』に「ヒトラーの『わが闘争』をめぐって」というまとまった記事を寄稿されているので、そちらを参照していただきたい。また、戦後の『わが闘争』のたどった歴史や現況については、フランスの歴史ジャーナリストであるヴィトキーヌ氏が著した『わが闘争 ある書物の歴史』(邦題『「わが闘争」がたどった数奇な運命』永田千奈訳、河出書房新社、2011年)としてまとめられており、本稿でも各所で参考にした。

 

同書はドキュメンタリー番組とセットで執筆された書籍であることから、その記述はジャーナリスティックではあるが、重要な指摘が多く示唆に富む。とくにトルコなどの諸国での『わが闘争』需要について書かれた箇所は非常に興味深いので、一読をおすすめする。ちなみに、この『わが闘争』のドキュメンタリー番組は欧州で話題となり、ドイツでも放送された模様だが、ヴィトキーヌ氏の書籍のドイツ語版はいまだに出版されていない。

 

SYNODOSの本記事では、上掲の記事や書籍を参照しつつも、『わが闘争』の〈読み〉をめぐる問題から見えてくるドイツ現代史やドイツ社会を浮き彫りし、日本の読者に知識以上の〈読み〉を提供したいと思う。

 

 

世界で、そして日本で読まれる『わが闘争』

 

初版が世に出た1925年のヴァイマル共和国時代からナチス・ドイツ体制が終焉した1945年にかけて、『わが闘争』は、ドイツ国内で少なくとも1000万部以上(一説では1200万部)を売り上げ、国外でも16ヶ国語に翻訳された。戦後にはさらに他の言語に翻訳されることになり、世界で最も売れた政治書だといわれる。英語版では、今なお毎年2万部の売り上げをキープしている。

 

また、日本語版も多くの版を重ねている。たとえば、2014年3月26日時点で、角川書店の『わが闘争』(上)は、政令指定都市にある主要図書館では、全所蔵数63点に対して貸し出し中が16冊(約25%)、東京都23区では、全所蔵数39点に対して貸し出し中が15冊(約38.5%)にのぼる。

 

さらに『わが闘争』は、日本の大学生が購入あるいは図書館で借りる書籍の上位にランキングしていると思われる。私が勤務する大学でも、レポートや卒業論文のテーマとして「ヒトラー」を選ぶ学生は多い。やや余談めくが、なぜか「ヒトラー」をテーマにする学生には男性が多く、「アウシュヴィッツ」をテーマにするのは女性が多い気がする。

 

「ヒトラーの思想」に関心をもち、これをテーマとしてレポートや卒業論文を書く学生は、「世間一般では悪くいわれるヒトラーだが、実際には良い面もあった!」という「発見」に突っ走りがちだ。つまり、ヒトラーの全面否定への否定である。この場合、「世間の常識」にもの申したい欲望と、どこかに「良い面」を発見したいという気持ちが先行していて、結論ありきのお粗末なレポートとなってしまうことが多い。この手の論述では、『わが闘争』からヒトラーの反ユダヤ思想(悪い面)などが引用され、同書は後半部分の「良い面もあった」という結論を強調するために利用される。

 

このような善悪二元論的な〈読み〉を超えるために、そもそもなぜ『わが闘争』が問題視されるのかに立ち返ってみたい。それは書物をめぐる多様な〈読み〉への第一歩でもある。

 

 

ヒトラー『わが闘争』(1934年版)と400万部突破の広告ポスター。「THE・ドイツ人の本」と書かれている。

ヒトラー『わが闘争』(1934年版)と400万部突破の広告ポスター。「THE・ドイツ人の本」と書かれている。

 

 

 

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