『わが闘争』という負の遺産――書物の〈読み〉をめぐる闘争

様々な〈読み〉とドイツ社会の公共

 

州政府と研究者という異なる立場からの、『わが闘争』をめぐる〈読み〉はたしかに対立してはいるが、少し視点をずらしてみると、実は住み分けがなされているとは考えられないだろうか。この点をドイツ社会における「公共」をキーワードにして、ここで触れてみたい。

 

1960年代から古物商での『わが闘争』の扱いがニュースとなっていたが、これが1990年代のインターネット時代の訪れとともに、オークションサイトでの『わが闘争』の販売やドイツ・アマゾンでの古書販売問題へと発展した。

 

バイエルン州政府も、インターネットで検索すれば『わが闘争』の全文が読めて、さらには購入さえ可能なことを知らないはずはない。そこで着目したいのは、「公」の切り分けである。つまり、州政府は「公的機関」としての態度を重視し、実際には『わが闘争』が出回っていることを知っているが、公的には禁ずるという政治的な立場を表明した。

 

この「公的には」という語は、ドイツ社会を理解する上できわめて重要だ。ヒトラーの礼賛でさえも、居酒屋の会話であれば、私自身も幾度となくドイツで聞いたことがある。しかし、それが公的な場での発言となると問題視されるのがドイツ社会である。

 

研究者集団もしかりだ。ユダヤ人団体への配慮を重んじた州の政治的決定を片目で捉えつつも、研究者としては、注釈を付けた書籍を公表することが重要だと判断したのだろう。事実、州政府からの資金提供は中途で打ち切られたが、すでに配布された資金はそのままであるということにも注目せねばならない。おそらく内幕は、この論考では語りきれないほど複雑なものだろう(たとえば様々な人間関係やバイエルン州政府内での利権など)。だが本稿では、両者がドイツの公共空間でお互いに補完する関係にあるという、私の〈読み〉を提示したい。

 

ドイツの市民社会は各アクターがある程度の独立性を保ち、ときには対立しつつも、それぞれが、意図する意図しないに関わらず、補完しあうかたちで「公共」をかたちづくっている。よって、『わが闘争』に対する〈読み〉が州行政と研究者集団では異なっていたとしても、両者がともにドイツ社会を形成するアクターとして機能しているといえよう。

 

では最後にふたたび、「ヒトラー」を題材とした学生レポート・卒業論文あるいは日本での『わが闘争』をめぐる〈読み〉の可能性について言及したい。

 

ドイツから遠く離れた日本では、どのような『わが闘争』の〈読み〉に取り組んだらよいのだろうか。たとえば、「世紀の独裁者」であり、「民主主義の破壊者」であるヒトラーの思想をのぞき見たいという知的好奇心は保持しながら、『わが闘争』という書物に対して、あらゆる角度から接近しつつも、それに取り込まれてしまわないような〈読み〉が必要なのではないだろうか。

 

立場や主義主張が異なっていたとしても、そのような〈読み〉を蓄積あるいは共有していけば、『わが闘争』は民主主義国家である日本の社会を考えるうえでの参考書たりうるだろう。つまり、バイエルン州政府が危険視する〈読み〉を意識することでそれを回避し、研究者が求める〈読み〉を丹念に行えば、『わが闘争』は、ドイツだけではなく、日本にとっての教科書になりうるかもしれない。

 

 

 

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