2014.05.22

多極共存型民主主義国ベルギーの分裂危機、再び?――多民族社会における民主主義の課題

松尾秀哉 ベルギー政治史研究

国際 #synodos#シノドス#ベルギー#民族共存#アレンド・レイプハルト#多極共存型民主主義国

近代以降の人類の歴史において、民族紛争が絶えることはない。ナチス・ドイツによるホロコーストを経験し、第二次世界大戦が終結した後でさえ、コンゴ動乱やルワンダの大量虐殺、旧ユーゴスラビアの解体に伴う民族紛争など、悲惨きわまりない事件が生じている。ウイグル自治区では、今年に入りテロが多発している。また、多くの死者を出し、国際問題に発展しているウクライナの事件も、人口のおよそ8割を占めるウクライナ人と、およそ2割のロシア人との対立として把握するなら、これも民族対立ということができる。

多民族で形成される社会を有する国家で、なぜこのような悲しい事件が起きるのだろうか。「民族共存」など、所詮夢物語なのだろうか。否、そうではないと信じたい。その信念を揺らぐことなく持ち続けて、民族対立を克服しようとするのが政治の使命である。本稿では「多民族社会の政治」のあり方を模索していきたい。

以下では、まず「なぜ民族が対立するのか」という問いを考えてみたい。そして、そのような要因を有する民族対立を、過去の政治学がどのようにして乗り越えようとしてきたのかを、オランダの政治学者、アレンド・レイプハルト(Arend Lijphart)の営為をもとに検討する。

本稿では、彼の営為は、理論的にも、現実の民族問題に対しても、一定の成果を挙げた、と評価する。そしてその点を十分認識したうえで、彼の営為に限界があることも指摘する。さらにその限界と、それでもなお前を向いて対立を乗り越えようとするときに必要とされる条件を、筆者の専門であるベルギーの民族対立を例に考えてみたい。

ベルギー(連邦王国)は西欧の中心に位置する小国で、EUの本部機能を有するブリュッセルを首都とする。「チョコレート」や「地ビール」、『フランダースの犬』の舞台として知られ、レイプハルトの「民族共存モデル」の古典的事例とされる国のひとつである。

ところが、先ほど挙げたような悲惨なものではないが、近年、ベルギーを構成しているフランドル人(オランダ語を話す)とワロン人(フランス語を話す)の対立が顕在化し、フランドルの分離主義者が台頭して「分裂危機」と言われる事態が続いている。しかも、まもなく次の選挙である。この対立の要因を考察することで、限界とさらに考えなければならない課題とを模索してみたい。

そして最後に本稿が得た知見を、多民族社会における民主主義の課題という視点で整理する。

なお、本稿の記述には、一部、拙稿「分断社会における『和解』の制度構築――レイプハルトの権力分有モデルを中心に」(松尾・臼井編『紛争と和解の政治学』収録 ナカニシヤ出版 2013年)と重複する部分があることをご了承いただきたい。

なぜ「民族」が「問題」なのか

「民族」の定義をいかようにしたとしても、現在、「多民族社会」でない国家などない。もし「多民族」であることが原因で対立が生じ、悲惨な殺戮と報復が繰り返されるのであれば、全ての国家、社会が早かれ遅かれホロコーストや民族浄化を経験する運命にあることになってしまう。しかし、そうならないのは、多民族であることが原因ではなく、異なる民族を対立や紛争に促す原因が存在しているからである。

歴史を顧みると、多民族社会において、異なる民族が対立する契機は近代西欧の国民国家の形成に遡ることができるだろう。たとえば「一国家一言語」であることは一つの「国民」を創出する重要な戦略だった。フランス革命以降のフランスでは強力な一言語化(同化)政策を推し進め、少数派を統合しようとした。こうしたときに、マイノリティの抵抗運動が生じることがあった。

途上国に目を転じると、現地の事情などおかまいなく、こうした政策が植民地政策の宗主国によって推し進められることがあった。この場合、しばしば内的な搾取=被搾取関係が構造化する。第二次世界大戦後の「アフリカの年」に見られるように、独立を勝ち取るなかで、内的な権力抗争を生み出して「コンゴ動乱」などの大規模な事件に発展することもあった。また独立しても旧宗主国との間の経済関係を断ちきることは難しく、「新植民地主義」が残存し、これが内的な対立の火種になる場合も多い。多くの場合、大国を中心とした対外関係によって「対立」が引き起こされる。

現在でも、たとえ西欧においてでさえ、多民族社会において各民族の数が同数であることなどありえない。国連が先住民族の保護を打ち出し、また「多文化主義」も浸透するなど、マイノリティを守ろうとする世界観が拡がりつつあるが、しばしば数的格差があるうえに各民族間の経済格差が生じている場合がある。こうした政治的・経済的不均衡が「多民族社会」を「対立」へと促す背景にある。

では、こうした事態を解消しようとして、政治(学)は何を提示してきたのだろうか。

政治の役割――レイプハルトの試み

オランダ出身の政治学者、アレンド・レイプハルトは、オランダやベルギー、オーストリア、スイスといったヨーロッパの小国をモデルにして、経験的にその特徴を抽出し、民族対立の克服を試みた政治学者である。こうした小国は、長く大国の争いに巻き込まれてきた結果、それぞれに様相は異なるが、多民族、多言語、多宗教国家として独立していくことになった。

少なくともそれ以前の政治学では、多民族で構成され、分断した政治文化を有する国家では、安定した民主主義体制の維持が難しいとされていた(Almond,1956:408)。しかしレイプハルトは、こうした社会においても、それぞれの分断区画を代表する政治エリートたちが協調し妥協することで、内戦を回避し、安定した民主主義体制が維持されてきたと主張した(Lijphart,1968)。これはその後一般に「多極共存型民主主義」と呼ばれるようになった。

レイプハルトによれば、「多極共存型民主主義」とは、(1)主要な区画の代表(政党)が「大連立」を組んで行政を進める、(2)重要な問題については多数決で決定するのではなく相互に拒否権を認める、(3)政治的な資源(ポストや資金)を各集団規模に従って比例配分する、(4)それぞれの区画にかかわることについては、それぞれの自治を認める(Lijphart,1977)ことによって、制度的に対立を解消する[*1]。

[*1] レイプハルトが多極共存型民主主義モデルを提唱した当時は、過度にエリートの調整能力に期待する点に批判が集中した(Obler and Steiner 1997: 40-43、レームブルッフ2004: 15)。また筆者はかつて、エリートの協調が必ずしも政治的安定を担保せず、逆に対立の契機を生み出す場合があることを主張したことがある(松尾 2010)。

とくに以上の制度的条件を徹底する「連邦制」の導入は、「政治的な境界[連邦構成体の地理的境界線]が社会的境界線[民族の地理的境界線]に近い形で設定されれば、連邦レベルでの異質性はその構成単位レベルの高い同質性に転化できる。つまり、……比較的同質性の高い小規模の単位を作ることによって、その単位内での社会的多元性を減少させることができる」(レイプハルト2005:155)ため、民族間対立を解消できると主張した。

つまり、「多民族社会」を「小さな均質な社会」の連合体へと転化させ、それぞれの構成体にできる限り自治を付与することで、民族対立の機会を減らす。全体で決定が必要な場合には、それぞれの代表者が話し合う。また少数派に一定の拒否権を認め、単純な数の論理で政策を決定しないこととする。こうしたルールを徹底して制度化していくことが、彼の「多民族社会における政治」の鍵だった。

同時に彼はこのモデルをアパルトヘイト後の南アフリカ共和国の政治体制に導入した。アパルトヘイト後の政治体制、暫定憲法を検討する政治改革委員会に参加したレイプハルトの著書は、当時多くの現地のリーダーたちに読まれ(峰2000:125)、大きな影響を与えた。そして実際に南アが争いの時期を経て、「虹の国」として発展していくなかで、彼のモデルは一定の評価を得た。議論は様々にあるが、何よりも抽象的な「政治学の理論」を「現実の政治」に適応し、多民族社会の和平に貢献しようとした姿勢は見習うべきであろう。

このモデルは、レバノン内戦のターイフ合意(1989年)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦のデイトン合意(1995年)、北アイルランド紛争の聖金曜日協定(1998年)、マケドニア紛争のオフリド合意(2000年)、そしてイラクの新憲法(2005年)などに影響を及ぼしたと言われる(Finlay 2010:1-2)。

ただし、レイプハルトの影響を受けた合意を経た全ての多民族社会が何事もなく平和な社会に移行したわけではない。アフリカ大陸の国家、ルワンダでは、1990年に起きたツチ族とフツ族の内戦の後に、1993年のアルーシャ和平合意でこのモデルを取り入れながら、それは履行されることもなく、人類史上稀にみる、悲惨な民族浄化を経験した。

では、多極共存型民主主義のどこに問題があるのだろうか[*2]。以下、古典的な多極共存型民主主義国であるベルギーの例を取り上げて考察してみたい。

[*2] たとえばドナルド・ホロヴィッツ(Donald L. Horowitz)は、「ヨーロッパで成功したモデルを別のところに移植しようとすること」にたいして批判をしていた(Horowitz,1985,571-574)。

ベルギーの政治危機

西欧の中心に位置するベルギーは1830年にオランダから独立した。その地理的条件のため歴代の大国がこの地を治めようとし、結果として主にオランダ語を話すフランドル民族(オランダ語で「フランデレン」。ベルギー北方に住む)と、フランス語を話すワロン民族(ベルギー南方に住む)によって構成される、多言語国家として独立を果たした。さらに建国当初は独立革命を主導し経済的に豊かであったワロンが国家形成の中心となり、フランス語による国民形成が進んだが、それとほぼ同時に、フランドルの人びとの反発とオランダ語の公用化運動が激しくなった。双方の対立を一般に言語問題という。

独立以降フランドルの人びとの抵抗運動は激しくなり、徐々にベルギーはオランダ語も公用語としていく言語政策を進める。しかしフランドルの運動と既得権益に固執するワロンの対立は激しさを増し、言語問題は第二次世界大戦後に大きくベルギーの政治を揺り動かすことになった。特に60年代以降、双方の対立によって議会は激しく対立した。

ベルギーはそれを解消しようとして、1970年以降、漸進的な分権化改革を進め、1993年に連邦制を導入することになった。すなわち、フランドル(地方)、ワロン(地方)のそれぞれ一定の政治的、経済的自治を認めることによって民族共存の途を探ったわけである。また連邦での閣僚ポスト配分を言語別に同等とすること、少数者の拒否権[*3]を認めるなど、成立当時ベルギーの連邦制度はレイプハルトによる多極共存型民主主義の「複写」(Deschouwer,2009:71)とされていた。

[*3] ベルギーの拒否権は、一般的に「アラーム・ベル」と呼ばれる。アラーム・ベルとは、一方の言語共同体にとって不利になるような法案が多数決で決定されるとき、不利益を被る側が発信することのできる「警告」であり、ベルギー憲法54条に定められている。これが発動されれば、法案提出者は60日の熟慮期間の間、法案を再考しなければならない。ただし法案の変更を強要するものではなく、その意味で厳密には「拒否権」と区別されるべきであるが、便宜上ここでは「拒否権」と記した。

ベルギー 言語地図 出典:日本学生支援機構ホームページ
ベルギー 言語地図
出典:日本学生支援機構ホームページ

しかし連邦化しておよそ10年後に行われた2007年6月連邦選挙後、フランドル諸政党とワロン諸政党との間での連立合意形成に困難が生じ、約半年の間、新政権が成立しない事態へと陥った。この選挙では野党、キリスト教民主フランドル党(Christen-Democratisch en Vlaams. 以下CDV)[*4]が、当時「フランドルの自治推進」「フランドル独立も辞さない」と主張する地域主義小政党である「新フランドル同盟(Nieuw-Vlaamse Alliantie. 以下N-VA)」[*5]と選挙連合を組んで臨んだ。

[*4] ベルギー独立以来長く政権を担ってきたカトリック党を起源とする。戦間期の言語問題による混乱、1960年代の混乱を経て、カトリック党はフランドルとワロンの地域政党に分裂した。これはそのフランドルの政党であり、1999年にフランドルの自由党が政権に就くまで、戦後ほとんど第一党であった。

[*5] 第二次世界大戦後台頭したフランドル地域主義政党である「民族同盟(Volksuni)」が連邦制導入後分裂し、急進派の新フランドル同盟が誕生した。なお、2007年以前の選挙では一議席を獲得したのみである。

CDV党首イヴ・ルテルム(Yves Leterme)は、この選挙でフランドル有権者の支持を集めるため、「フランス語話者にはオランダ語を理解できない」などと民族・地域主義的な言説によってキャンペーンを展開し、圧倒的な支持を得た。その結果フランドルの自治が高まることを好まないワロン諸政党との交渉は長引き、この間しばしば「ベルギー分裂の危機」が騒がれた。特に強硬な態度を採ったのはCDVのパートナーであるN-VAで、ワロンとの合意に最後まで反対し、しかも半年後成立した暫定政権を「妥協の産物」と批判し、政権には加わらなかった。

その後、2010年6月13日にベルギーは再び総選挙を行った。この選挙では先のN-VAの「妥協しない態度」が支持され第一党となり、連立形成は一層困難となった。N—VAを中心とした連立交渉は遅々として進まず、新政権が成立したのは2011年12月である。約一年半もの政権不在は、政治空白の史上最長記録(過去はイラク戦争後のイラクにおける298日)をはるかに更新するものであった。しかも、結局第一党のN-VAは、再びワロンとの合意を「妥協にすぎない」と批判し、政権から外れ、他の六党による連立政権(首班はワロン社会党のエリオ・ディ・ルポ)が成立したのである。

従来から多民族で形成されるベルギーの連立政権は、不安定化することがあった。それを克服しようとしたのが、レイプハルト・モデルの「複写」である連邦制の導入だった。しかし、連邦制導入以降に長期の政治空白を繰り返すのはなぜか。そこにレイプハルト・モデルの弱点があるかもしれない。

二つの選挙の最大の争点はフランドルとワロンの「経済格差」であった。独立当初は豊富な石炭資源を有するワロンが経済的に優位であった。フランス革命に影響されたベルギー独立革命は、さらにワロンの経済的優位を背景にして、ベルギーはワロンが話すフランス語による「国民」形成を進めようとしたのである。

その中で生じたフランドルの抵抗運動を、国家改革を余儀なくさせるほど大きな運動としたのは、第二次世界大戦後、石炭の需要低下や豊かな港を有するフランドルに外資が集中してフランドルとワロンとの経済的地位が逆転したことがきっかけである。まさにこの時期(1960年代)、ベルギー政治は混乱し、連邦制を導入する国家改革が進むことになった。そして現在の問題は、このフランドルとワロンの格差がまだ是正されていないことにある。

連邦制といっても、ベルギーの地域(地方)財源は相対的に多くを連邦(中央)の財源に負っている(スウェンデン2010: 159-160)。ワロンは経済的に不況にあえいでいる。ワロンの「自治」のためには中央(連邦)政府からの多額の拠出が不可欠である。第二次世界大戦後、福祉国家が確立していくなかで、徐々にフランドルによる社会保障財源の負担が不平等感や搾取の感情を高め、フランドルの独立の主張が強くなったのである。

さらに、ベルギー建国以来ほとんどの時期で与党にあったCDVは、1999年の選挙で野党に転落してから、与党復帰を狙い、党改革を進めてN-VAと連携した。さらに民族・地域主義的な言説で選挙キャンペーンを戦った。

つまり連邦制を導入した結果、選挙において、同じ民族からなる諸政党が同一選挙区で競い合うことになり、政党は「われこそは最大のフランドル利益の体現者である」と主張しあう。2007年以降、いずれの政党も、フランドルにおいては「フランドルの自治拡大」、場合によっては「独立」を主張した。このような「競り上げ効果」が生じたのである。

すなわち、現代においても多民族社会において、各民族間に経済格差が存在し、そこに剥奪感が潜在するとき、さらに(与野党の逆転の可能性が高まるなど)政党間競合が激しくなれば、競り上げ効果が生じる。これが生じてしまえば、選挙の言説は攻撃的となり、その後の合意形成における妥協や協調が困難になる。レイプハルト・モデルの弱点である[*6]。では、多民族社会において、政治は、経済(格差)に勝てないのだろうか。

[*6] この点はHolowitz, op.cit.を参照のこと。

レイプハルト・モデルの限界と乗り越えるべき課題

確かに経済格差という問題は短期で解消しづらい。そして格差の中で、特定の民族・地域の財源によって他方の生活が支えられているような場合、双方の敵意が高まる可能性もある。その弱点をベルギーの例は示している。

しかし、他方で一年半の空白を経て、第一党の地域主義政党を政権からはずし、他の政党による連立政権が成立した点に、ベルギーの、そしてレイプハルト・モデルの可能性も見いだしたい。交渉にあたるリーダーたちが(敵意が高い時は)時に距離をとりながら、粘り強く交渉することで、異質な分離主義者を排除し、選挙時の攻撃的なトーンを鎮めることができたのである。必要なものは、その「時間」である。

もちろんこの一年半の間に、交渉者、政党、政治そのものに対する批判やデモも生じた。しかし、「多民族社会における政治」とは、数的、経済的不均衡を常に抱える。だから平和裏に合意形成するには、時間を要するのである。当事者が話し合おうとする限り、その時間を甘受する姿勢が、国内のみならず国際社会にも必要とされる。もし時間をすべての当事者、市民、国際社会が受け入れることができれば、レイプハルト・モデルはまだ十分な可能性を有している。

この点は、従来の民主主義観に、古典的ではあるが、改めて挑戦状をたたきつける。一昔前のわが国では「決定できる民主主義」が求められた。そもそも我々が常識的に考える民主主義とは「多数決」である。換言すれば、数による即断即決である。しかし多民族社会においては、特定の民族が長期的に多数派を占める社会構造を有することが多い。ゆえに多数決では、少数派は常に不満を抱えることになるだろう。もし手っ取り早く構造変革を求めようとすれば、武力に訴える輩が登場しかねない。

さらに、ベルギーの例が示すように、経済状況、選挙戦略などによって分離主義者が数で優位にたつ可能性も否定できまい。その場合、多数決であれば、分離、分裂することが、民意にそった選択となる。その選択肢を排除しようとするならば、話し合いの姿勢と時間が必要になる。「すぐ決定しなくてもいい民主主義」のほうが求められるのである。何もかも多数決ですぐに決めればいいという価値観はそぐわない。十分に時間をかけるべき問題は、十分に議論すべきである。もしかしたら、本稿の趣旨とは一致しないわが国の政治においても。

「合意」とは妥協の産物である。だとすれば、状況次第で「妥協」自体を批判するグループが登場する可能性も常にある。ベルギーは建国以来「妥協」と批判、そして再び「妥協」を繰り返してきた国である。

今月25日に国政選挙が行われる。この間、N-VAは、2012年の地方統一選でも大躍進し、アントワープなどのフランドル主要都市で第一党になったり、市長を輩出したりした。フランドル地域主義者が「妥協の政治」を批判する反体制的な言説が支持されるか、それとも繰り返される危機を内省し、「妥協の政治」が支持されるのか。結果は間もなくである。

※補足 ベルギーは連邦制を導入する前は「ベルギー王国」を名乗っていた。立憲君主国である。歴代の国王は、言語問題を配慮し、統一を維持できるよう慎重に対応してきた(国王の態度次第で言語対立が再燃する場合もあったが)。ベルギーが存続しているひとつの重要な要素である[*7]。

[*7] なお、ベルギーでは、選挙が行われた場合、慣例として選挙の第一党から選ばれた人物が「組閣担当者(formateur)」として国王から指名され、各政党との連合交渉や組閣の任にあたる。これが事実上の首相(候補)である。しかし、争点が対立的な場合、国王が有力者を指名し、「誰が組閣担当者[首相候補者]にふさわしいか」を事前に根回しする。このように、ベルギーの政権形成に国王は実質的に介入し影響を及ぼしている。

ちょうど昨年、アルベール二世が退位し、新国王フィリップが即位した。王子時代に、少しオランダ語が苦手と言われ、分離主義者に対して攻撃的な発言を繰り返した新国王にとって、この選挙(後の交渉)は最初の試金石となる。その点にも注目してみたい。

参考文献

Almond, Gabriel A. 1956 “ Comparative Political Systems,” in The Journal of Politics, Vol. 18,. No. 3, pp. 391-409.

Deschouwer, Kris 2009 The Politics of Belgium, Governing a Divided Society, Hampshire: Palgrave Macmillan.

Finlay, Andrew 2010 Governing Ethnic Conflict: Consociation, Identity and the Price of Peace, London: Routledge.

Horowitz, Donald 1985. Ethnic groups in conflict. Berkeley: University of California Press..

Lijphart, Arend, 1968 The Politics of Accommodation. Pluralism and Democracy in the Netherlands, Berkeley: University of California Press.

Lijphart, Arend, 1977 Democracy in Plural Societies: A Comparative Exploration. New Haven: Yale University Press.

アレンド・レイプハルト、粕谷祐子訳『民主主義対民主主義 : 多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』、勁草書房、2005年。

ウィルフリード スウェンデン、 山田 徹訳『西ヨーロッパにおける連邦主義と地域主義』、公人舎、2010年。

ゲルハルト・レームブルッフ著、平島健司編訳『ヨーロッパ比較政治発展論』、東京大学出版会、2004年。

デミトリ・ヴァンオーヴェルベーク「ベルギー国憲法の運用と実態の発展 : 君主制度に於ける法と慣習」、『憲法論叢』 8号, 2002年、27-54ページ。

松尾秀哉「分断社会における『和解』の制度構築――レイプハルトの権力分有モデルを中心に」、松尾・臼井編『紛争と和解の政治学』、ナカニシヤ出版、2013年。

松尾秀哉『ベルギー分裂危機 その政治的起源』、明石書店、2010年。

峯洋一「紛争処理における多極共存型統治モデルの可能性――南アフリカ共和国の事例から」峯・畑中編『憎悪から和解へ 地域紛争を考える』、京大出版会、2000年、105-155ページ。

サムネイル「Belgium-5672 – Looking Down from the Cable Car」Dennis Jarvis

http://www.flickr.com/photos/archer10/13453876733

プロフィール

松尾秀哉ベルギー政治史研究

1965年愛知県生まれ。一橋大学社会学部卒業。東邦ガス(株)、(株)東海メディカルプロダクツを経て、2007年東京大学総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。博士(学術)。聖学院大学政治経済学部等を経て、北海学園大学法学部教授。

この執筆者の記事