スウェーデンはいかに危機に対処してきたか――すべては自国の安全保障のために

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二つの世界大戦とスウェーデン

 

しかしながら、スウェーデンの「中立」も、二つの世界大戦においては試練を伴うものであった。

 

第一次世界大戦が勃発すると、スウェーデンは中立を宣言するとともに国防体制の強化を図る。しかし、ドイツから1914年にスウェーデン南部の灯台と灯浮標の消灯を、翌1915年にはスウェーデンを通過して西ヨーロッパからロシアへ軍事物資を輸送することの禁止を要求される。そして1916年になるとバルト海と北海を結ぶウーレスンド(Öresund)海峡の機雷封鎖要求を受けてコーグルンスレンナン(Kogrundsrännan)に機雷を敷設するなど、その「中立」は常に脅かされた(このときドイツ側が敷設した機雷が現在においてもスウェーデン沿岸部で発見され、スウェーデン軍によって爆破処理される事例が近年頻繁に発生している。両大戦中にバルト海に敷設された機雷は16万5000発に昇るといわれる)。

 

さらに第二次世界大戦においても、1940年にドイツの要求を受け、ドイツ占領下にあるノルウェーから非武装のドイツ兵のスウェーデン領内通過を認めた。また1941年に始まった独ソ戦に際しては、さらなるドイツ側の要求によって、約1万5000人の武装した第163歩兵師団(通称「エンゲルブレクト師団」)をノルウェー国境からフィンランドまでスウェーデン国鉄の列車で輸送することを余儀なくされた。「中立」を揺るがした1941年6月のこの外交案件は「夏至の危機」(Midsommarkrisen)と呼ばれている。1940年から1943年までの間でスウェーデン領内を通過したドイツ兵は延べ200万人に昇る。

 

とはいえ、スウェーデンは譲歩ばかりしていたわけではない。フィンランドへの義勇兵派遣や、ノルウェーの兵士を受け入れて軍事教練を施すことなどもしていた。さらにドイツがデンマークとノルウェーに侵攻してまもない1940年には、スウェーデン各地で発生したドイツ軍機の領空侵犯に対しても、強制着陸または撃墜といった措置をとっている。自国を守る毅然とした姿勢は武力行使などの手段を含めて一貫していた。

 

また国内では、各地14箇所に強制収容所を建設し、特に共産主義を利する言動、あるいはスウェーデンの安全保障を脅かすおそれのある外国人やそのような言動をした者を強制収容するなど極めて神経を尖らせていた。近年の研究では、強制収容所の最高責任者が当時の社会省国務次官で、のちに戦後23年という最も長期にわたって社会民主党政権の首相を務め、スウェーデンの福祉国家体制を作り上げたターゲ・エランデル(Tage Erlander)であったことが明らかとなっている。

 

 

冷戦のはじまりとソ連の脅威

 

第二次世界大戦が終結したのちも、スウェーデンにとっての脅威はもっぱらソ連であった。というのも、スウェーデン本国では一般にはすでに忘却されているが、第二次世界大戦末期の1944年2月22日夜、首都ストックホルム、そしてその近郊の町であるストレングネス(Strängnäs)、スーデルテリエ(Södertälje)がソ連の爆撃機に急襲されて市街が空爆の被害を受けているからである。ソ連側は搭載していたナビゲーションシステムの故障による誤爆であると説明したが、スウェーデンにとってはソ連の軍事的脅威が現実的なものであることを認識させるものであった。

 

一方、世界初の女性外交官としても知られるアレクサンドラ・コロンタイ駐瑞ソ連大使とその後任であるイリア・チェルニショフは、スウェーデンの中立政策は将来にわたっても同様に外圧に対して妥協を重ねるであろう、またスウェーデンはソ連の重圧と権威は無視できないとそれぞれ1945年3月と6月にモロトフ外務人民委員(外相)に報告している。

 

そのような中、第二次世界大戦終結後最初の外交上の難題はソ連から突きつけられた。それはヨーロッパでの戦闘が終結してまもない1945年6月2日にパール・アルビン・ハンソン(Per Albin Hansson)を首相とする挙国一致政権にソ連から提示された一通の覚書に端を発する。

 

戦時中、スウェーデンはバルト三国から多くの難民を受け入れたが、その大半はドイツ側に従軍した兵士やソ連のバルト三国占領時にスウェーデンに亡命した者であった。ソ連側の覚書は、東部戦線でドイツ側に立って戦った戦闘員はドイツ降伏によって引き渡されることで合意しているとの理由で、その身柄をソ連へ引き渡すことを要求するものであった。

 

スウェーデン側は苦悩の末にソ連の要求を飲んだが、その決定は同年11月15日に報道規制を条件に開かれた記者会見で発表されるまで伏せられた。しかしながら、この記者会見の場に招かれなかった「ダックスポステン」(Dagsposten)紙と「ヴェストマンランド県新聞」(Vestmanlands Läns Tidning)によってスクープされる。

 

特に1941年に「スウェーデン国家同盟」(Sveriges Nationella Förbund)によって創刊された、親ナチ派のダックスポステン紙による政府決定への批判的な報道は、スウェーデンの世論に大きな波紋を投げかけた。反対にスウェーデン共産党(Sveriges Kommunistiska Parti)のように、ソ連の要求通りに民間人を含む3万人規模の送還を主張した組織もあった。

 

世論の強い反発とバルト人の激しい抵抗を引き起こした政府のこの秘密決定は、警察だけでなく軍隊を動員してまで強制執行され、1945年11月30日から翌1946年1月25日まで、最終的に146人のバルト人を含む2,518人がソ連に強制送還された。スウェーデンの苦渋の決断に、スターリンは満足していたと伝えられているが、奇しくも前述のソ連大使の報告の通り、ソ連の圧力にスウェーデンが屈した結果となった。この事件は「バルト人送還事件」(Baltutlämningen)と呼ばれ、現在でもラトビアのリーガにある「ラトビア占領博物館」には、当時のスウェーデンの新聞の現物などが展示され語り継がれている。

 

このように第二次世界大戦終結後のスウェーデン外交は前途多難な状況から始まった。その上、大戦中に厳正な中立を保てなかったスウェーデンには、懐疑的な視線で見ていた周辺国との関係改善を図っていかなければならないという外交課題が戦後、のし掛かっていた。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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