不確実な未来を「計算」する――社会保障の背後にある見えない方程式

――先ほど、分析のときに「モデル」を使うとおっしゃっていました。経済学ではよく目にする言葉ですが、簡単にいえばどういうものなのでしょうか?

 

基本的には、方程式や関数の束です。中学生のときに一次関数をやったと思います。たとえばお風呂の蛇口から水を出したときの、経過時間と水の量の関係を関数にしたりしましたよね。それも立派なモデルです。経過時間という変数に値を入れることで、水の量を求めることができるわけですから。それを複雑にしたものが経済モデルと考えてもらって構いません。

 

大学で経済学を専攻すると、1年生のときに必ずIS―LM分析というものを勉強します。所得と利子率を軸にした、財市場と貨幣市場の分析ですね。多くの学生はあまり意識していませんが、これも立派な経済モデルの一つです。ちなみに私が運用していたモデルでは、マクロ経済や財政に関する関数など、およそ500本以上の計算を一度に解いたりします。

 

 

――500本の方程式を解くんですか! かなり難しい数学を使われているように感じます。

 

実際には500本というのは少ないんですよ。内閣府ではもっと大規模なモデルを運用しています。数学的な操作そのものよりも、社会保障の経済学的なバックグラウンドについて理解することのほうが重要です。

 

たとえば厚生経済学の第一基本定理と第二基本定理というのがあります。第一基本定理は効用最大化や利潤最大化行動がパレート効率をもたらすというもの。第二基本定理は政府が再分配を行うことで任意のパレート効率をもたらすことができるというもの。パレート効率というのは、誰かの状況が悪化しない限り変化しない点のことです。言葉は難しそうですが、要するにこれは、政府は公平性を改善するために、市場で再分配を行うことの理論的背景を与えているものですね。

 

市場競争に任せておけばパレート効率になるのだけれど、パレート効率はつねに公平であるとは限らない。そこで、公平性を期すために、政府は分配面に介入する必要がある――そういうことを第二基本定理はいっています。

 

ちなみにこの「パレート効率」だとか、先ほどいった「情報の非対称性」や「モラルハザード」などのお話は、じつはミクロ経済学の分野なんです。だから社会保障論というとマクロ経済学の一分野のように感じるかもしれませんが、その背景にはミクロ経済学の理論があるんですね。

 

 

将来予測のために経済学を利用する

 

――社会保障はさまざまな経済学的理論によって成り立っているということですね。

 

それを理解することが大事だと思います。社会保障論が専門なのに何を言ってるのと思うかもしれませんが、社会保障の制度の細かな知識だけを詰め込んでも、制度は時代によって変わるので、あまり意味はありません。大事なのはむしろ制度の理論的背景や経済学的な意味ですよね。それを理解していれば、どんな時代でも自分の頭で社会を捉えることができるはずです。

 

先ほど経済学では社会保障論ではモデルを扱うといいましたが、それは将来予測にも使われます。将来、高齢者がどのぐらい増えてどのぐらいお金が必要になるのかがわからなければ、政策の立てようがないですね。そのための情報として将来予測が必要で、僕はそれをやってきました。

 

また、政策を立てるために将来予測をするというのは、普遍的な仕事です。銀行の研究所やシンクタンクなどに限らず、会社の将来を予想し、事業を計画するということは社会人なら誰でもやっています。ですからプロセスが少し学問的なだけで、仕事の構図自体はいたって普通ですね。

 

 

哲学から始まった経済への道

 

――先生は大学では経済学を専攻していたんですよね。なぜ経済学部を選んだのですか?

 

もともと哲学が好きで、ニーチェとかヘーゲルとかを読んでいたんです。『精神現象学』なんかは、全然意味がわからなかったのですが、意味がわからないということ自体が当時は面白かったですね。それから数学や物理学も好きでした。

 

それで高校で進路を決めようというときに、哲学と理系、どちらにも振り切れなかったんです。同じクラスに、たくさん哲学書を読み込んでそれを解説する天才的なすごい人がいて、彼には絶対に勝てないという実感がありました。じゃあ理系になろうかと検討したのですが、数学も物理も自分の才能に限界をわかっていました。そこで哲学と数学を足して2で割ると経済学かな、と思ったんです(笑)。でもそれに近い理由で経済学を選んだ大学生は多いですよね?

 

 

――理系だけど歴史に興味のある人や、文系だけど数学が好きな人は確かに多いですね。それに経済学の祖と呼ばれるアダム・スミスも、最初に著したのは『道徳感情論』という哲学書ですからね。有名な『国富論』を書いたのはその後です。

 

まあ、今の経済学のメインストリームは実証的な分析ですけれどね。でも大学はべつに実証分析だけをやらなければならないわけではありません。アダム・スミスの哲学はもちろんのこと、ひょっとしたらマルクスの思想について勉強することもできるかもしれない。

 

僕自身、経済学部に入ったものの、実際には社会思想史を勉強していました。最初はマルクス経済学をやっていたんです。今ではまったく反対の立場にありますが(笑)。『資本論』も全巻読みました。卒論はマルクスとケインズの思想の比較をテーマにしました。ですので経済というよりは、ほとんど思想の勉強をしていましたね。

 

他には、たとえばルソーは、『社会契約論』という本を書いて、政治に大きな思想的影響を与えましたよね。ルソーについても勉強したりもしていました。経済学を本格的に始めたのは、大学院に入ってから、と言っていいかもしれません。

 

 

――本来の経済学に近づいていったということですね。どのような心境の変化があったのでしょうか。

 

社会思想史はもちろん興味深かったんですが、経済学はより現実と強い結びつきがあると思ったんです。言い換えれば、経済学の実証分析はいつの時代も社会に必要とされ続けるという感覚があったんです。学部時代はもちろん普通の経済学も勉強していて、これもやってみると面白かったんですね。

 

大学院では、実証分析を幅広い範囲でひたすらやっていました。そのなかで、財政についての分析もやっていました。そこで社会保障論と接点をもったわけです。じつは最初から年金制度などに興味があったわけではありませんでした。今は確かに社会保障論は現実世界にかなり影響のあるエキサイティングな学問ですが、当時はそれほど関心があるわけでもなく、必要だから勉強する、という認識でした。

 

 

――最初から計量経済学や社会保障論をやるつもりはなかったんですね。

 

でも、やれば何でも面白いという感覚はありました。最初関心がなくてつまらなくても、やってみるとはまってしまったということはたくさんあります。若気の至りという大義名分で好きなことに手を出せるのが大学や大学院の魅力だと思うんです。

 

社会保障について研究者になってから勉強し始めたとき、最初は地味な学問だなと思っていました。学生なら誰でもそうでしょう。年金とか介護とか、おじいちゃんおばあちゃんの話だと思いますよね。でも実際にその世界に入ってみると奥が深い。

 

たとえばオランダでは市場競争と政府の介入を組み合わせた管理競争という、世界的にも先進的な制度をつくっています。こうした試みは、当事者である高齢者よりも、むしろ若い人たちが考え、行動している。そうした知識を得ると、自分の知らないところに、膨大な世界が広がっているということに気づかされますよね。

 

 

――最後に高校生へのメッセージをお願いいたします。

 

食わず嫌いをしないでほしいです。先ほど哲学の本を読んでいたという話をしましたが、その経験が無駄になったとは、僕はまったく思いません。哲学書を読んだからこそ、社会思想史でマルクスを読み、経済学に触れ、こうして今の自分がいると思っています。

 

今の人はコストパフォーマンス志向で、これは社会に出て役に立つかどうかという基準で自分が接するコンテンツを選びがちですよね。そういうのはつまらないですよ。どんなものでも、本を読むのは大事です。なぜならそれは、自分の世界を広げようという態度の現れだからです。自分の世界を広げようという気持ちを持つ人は、大学でも社会でも多くの本を読んでいると思いますね。

 

でも、本を読むなら若いうちが良いと思います。年をとると目が疲れますから(笑)。

 

 

――身体的な理由ですね(笑)。

 

これは冗談ですが、真面目に答えると、大人になればなるほど、本を一冊読んだときに得られる感動や喜びが減っていくんですよね。経済学の用語でいえば、限界生産性が逓減していくんですよ。世の中のことが若いときよりもわかっているから、だいたいこういうことだね、となんとなく理解できてしまうんです。

 

また、本を読むタイミングは大事です。中学生のときに島崎藤村の『破戒』を読んだんです。当時は意味がわからなかった。でも、高校生になると意味がわかった。そのような遡行的に理解する楽しみも、若い時ならではですよね。

 

いずれにせよ、自分で可能性の幅を狭めるようなことはせず、いろいろなことに手を出してみるべきだと思います。なにせ、未来は不確実なものなのですから。

 

 

高校生におすすめの3冊

 

 

とてもいい本です。教養とはどういうものかを教えてくれます。この本は高校生だけでなく、大学生にも是非読んでほしいです。

 

 

 

高齢化は他人ごとではなく自分ごとであるということを語っています。また、社会保障制度がこのままでは今後財政的に行き詰まることは明らかなので、これから政府が行うべき政策の提言もしています。こうした問題が、どれだけ高校生に関係があるかということをぜひ知っていてほしいですね。

 

 

 

これは経済学とは関係ない本なのですが、私のゼミ生には毎年必ず読ませています。ゲーデルの不完全性定理やパラドクスなど、哲学について紹介している本です。『知性の限界』『感性の限界』と続く3部作なのですが、まずはこれから入ってみましょう。知的なスリルを味わえます。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

・川口俊明「全国学力テストの失敗は日本社会の縮図である――専門性軽視が生み出した学力調査の問題点」
・神代健彦「道徳、この教育し難きもの」
・大賀祐樹「懐疑的で楽観的な哲学――プラグマティズム」
・平井和也「世界の知性は新型コロナウイルスをどう見ているのか」
・川名晋史「誰が、なぜ、どこに基地を隠したか」
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