渋谷のハロウィンは何の夢を見たか――スクランブル交差点から考える

渋谷独特の坂道の多さがパーティーを引き起こした

 

――渋谷のハロウィンはなぜあのように大規模化したのでしょうか。

 

スマートフォンやSNSの普及に加え、渋谷独特の空間的・地形的な構造が影響していると考えています。99年にQFRONT、2000年に渋谷マークシティができて、建物内の人々がスクランブル交差点を見下ろすような構図ができ上がりました。そもそもスクランブル交差点は、すり鉢状にくぼんだところに位置しています。そこから道玄坂や宮益坂が放射状に伸びていき、標高が上がっていきます。

 

つまり、渋谷は物理的な空間として、アリーナのような形状になっているんです。スクランブル交差点を横断している人は見られる演者になり、その人たちをQFRONTやマークシティにいる人たちが観客になって見ています。大量の巨大な群衆が行き交うことのできる空間的構造を持つ渋谷スクランブル交差点周辺は、定点カメラの数が多くて、テレビなどのマスメディアに露出する機会も多い。そうした背景から、一旦「脱舞台化」した渋谷は、ゼロ年代からテン年代にかけて「再舞台化」化するようになったと考えられます。

 

たとえばハロウィンで盛り上がるだけなら、べつに明大前でも御茶ノ水でもいいはずじゃないですか(笑)。でも人々は渋谷を選んだ。それはなぜなのかというと、今説明してきたような、大量の巨大な群衆とそれを許容する渋谷に固有の空間的な特徴があるのではないかと。そういう意味で、吉見さんの「舞台化」、北田さんの「脱舞台化」を継承する形で、僕は渋谷の「再舞台化」について論じたんです(三浦展・藤村龍至・南後由和『商業空間は何の夢を見たか』)。

 

 

――再舞台化した渋谷ではどのようなことが起きているのでしょうか。

 

さきほどお話ししたように、テン年代に入り、スマートフォンとSNSが急速に普及しました。このメディア環境の変化は、人々の都市へのイメージや経験に影響を与えています。たとえば、誰かがスマートフォンで撮影した写真をSNSにアップロードし、それを見た人が渋谷に来る……といった流れが起きています。

 

ハロウィンの日に渋谷へ行くと、みんな仮装・コスプレしていますよね。人々は演者として演じているし、観客として仮装・コスプレした人たちを見てもいるわけです。しかも仮装・コスプレした人は、たんに同じ時間と空間を共有する、80年代的な「見る―見られる」の関係にとどまっているわけではありません。多くの人は写真を撮影し、SNSでアップすることを目的にしています。あちこちで写真を撮ってもいいですか、というコミュニケーションが発生しています。

 

渋谷にいる人たちのコミュニケーションは、街という物理空間に閉じられているように見えながら、同時にインターネットという情報空間に「離脱」している。つまり、物理空間と情報空間のあいだを行き来しているんですね。スクランブル交差点は、「物理空間と情報空間の交差点」でもあると考えられるわけです。

 

そして渋谷スクランブル交差点をめぐる現象は、日本における「広場」について考えることにもつながります。話が脱線してしまうので深くは立ち入りませんが、日本には西欧のように建物に囲まれ、都市の核となるような「広場」がなかったと言われています。日本では、お祭りにおける神社の参道のように、ハレの日に、道や通りが一時的に広場として使われてきました。

 

道が交わる、渋谷スクランブル交差点も同じです。スクランブル交差点の信号が青の間だけ、そこは一時的に広場へと変容する。しかもその物理空間は、情報空間へとつながっている。そういう意味では、渋谷スクランブル交差点は日本的広場の現在形であるといえるんです。

 

 

――渋谷のハロウィンのフィールドワークはどのような視点で見ていましたか。

 

去年(2015年)はスクランブル交差点を中心にフィールドワークしていました。ここは歩道と車道の交差点なので、当然途中で立ち止まってはいけないですよね。ですが、何度も往復して横断する人や、立ち止まって写真撮影をしようとする人もいる。そのため多くの警官が動員され、信号が赤になりそうになると、規制の紐を引っ張って歩行者を歩道に押しやっています。一見、ハロウィンの渋谷スクランブル交差点は、錯乱状態に見えますが、実は過剰に秩序立っています。

 

また、ハロウィンは年1回のイベントだから今日ぐらい騒いでも許されるんじゃないか、という非日常感を楽しんでいる人が多い。普段は絶対に会話しなさそうな、10代の女性グループとスーツ姿のおじさんが一緒に写真を撮っていたりする。しかも連絡先を交換したりするわけでもなく、一過性の刹那的なコミュニケーションを楽しんでいる。

 

今年(2016年)のハロウィンは、スクランブル交差点ではなく、センター街や井の頭通りなど、ストリートを中心にフィールドワークしました。センター街の建物の2階にあるカフェからその様子を眺めていたんですが、センター街にも警官がたくさんいる。ところが警官のコスプレをしている人もいて、区別がつかない(笑)。そしてセンター街ですら、写真を撮っていると、警官に「そこ立ち止まらないで」と注意を受けて、滞留することが禁止されてしまっている。また、ストリートごとにそこに集まっている人の属性やコミュニケーションのあり方が異なっているのが面白かったですね。

 

リチャード・フロリダという都市社会学者が、創造的な都市の成立要件として「3つのT」を提唱しています。Talent(才能)、Technology(技術)、Tolerance(寛容性)です。渋谷には、ハロウィンの騒ぎもここであれば許されるのではないかという寛容性があるのは確かなのですが、じつは必ずしも「自由」というわけではなく、監視や管理によって秩序立てられている。比喩的に言えば、渋谷という都市自体が見せかけの寛容性をコスプレしているということです。

 

 

建築から読み取る時代の記憶

 

――先生は商業施設を分析するにしても、「なぜ人はこの場所に来るのだろう」といった、欲望の理由を探る方向に関心があるのかなと思いました。どうしてそういったことに興味をもち始めたんですか。

 

僕は大阪の堺市にある郊外のニュータウン出身です。高校は1時間ぐらいかけて電車で通学していました。車窓からは、日本史の教科書に出てくるような古墳が見える。海側の工業地帯には、コンビナートも見える。そして乗り換えの駅には、都会的な高層ビルが林立している。このように、都市にはいろんな時代のものが同時に集積しています。

 

しかも都市では、外国人や地方出身者など、互いに異質で見知らぬ他者がともに生活をしている。互いによく知っていて、同じ小中学校に通う子どもを持つ家族が多く住むようなニュータウンと比べると、これらのことが不思議で面白く、漠然とした興味関心を抱いていました。

 

そして大学生のときに、フランスの思想家で社会学者のアンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』という本を手に取ったんです。ルフェーヴルはそこで、空間を生産している主体には建築家などのプランナーや国土交通省などの役所の人だけでなく、そこに住んでいる人や買い物をしに来るような人たち、すなわち僕たちも含まれると指摘していたんですね。それが僕にとって都市に対するモノの見方を変えるきっかけになったんです。

 

都市は、自分を含んでいながら自分を超越した存在だし、特定の作者がいないじゃないですか。絵画や音楽のように、特定の作者がつくったわけではないですよね。もちろん国交省が法規やインフラを整備し、建築家が建物を設計するということはあります。

 

けれども都市は単一の主体によっては計画、コントロールされえないものです。都市は、不特定多数の人々の欲望が絡み合ってできた集合的作品です。しかも時代によって、集合的作品のあり方は変化していきます。もともとは実体験に基づいた都市に対する漠然とした興味関心が、ルフェーヴルの本をはじめとする学問を経由することで言語化されていく感覚は刺激的なものでした。

 

 

――大阪で感じられていた不思議な感覚を、社会学の本で解説された気持ちよさがあった、ということですね。東京で都市や建築について考えるとしたら、どういうものがありますか。

 

2020年に東京オリンピック・パラリンピックが開かれることになっていますが、1964年の東京オリンピックの頃に建てられた建築が現在どうなっているのかを観察してみると面白いかもしれません。たとえば渋谷の代々木体育館。1964年当時は水泳やバスケットボール会場でしたが、今はファッションショーやライブなど、様々な文化イベントが行われています。

 

これは丹下健三という建築家が設計した建築ですが、彼は東京で他にも多数の建築の設計を手掛けています。新宿の東京都庁やお台場のフジテレビ、明治大学の近くの東京ドームホテルも丹下健三の設計です。特定の建築家について注目して調べることで、その人が時代の制約下において、どのような思想やヴィジョンをもとに、それぞれの建築物を設計したのかを知ることができます。

 

また、建築というのは、時代の記憶が刻印されたメディアとして捉えることもできます。メディアというと新聞やテレビを思い浮かべがちですが、見方を変えれば、丹下健三の代々木体育館のような建築も、日本が戦後に敗戦から立ち上がり、国際社会に復帰していく当時の集合的記憶が刻印されたメディアであるといえます。明治大学の入学式や卒業式が行われる日本武道館も、同じ1964年のオリンピックの柔道会場として開館しました。建築を通して、当時の都市や社会のあり方を考えることもできます。

 

余談ですが、今年『君の名は。』がヒットしましたよね。この映画では、飛騨に住む主人公の女の子の視点から、東京はとてもキラキラとした対象として描かれています。監督の新海誠さんは1973年の長野県生まれです。新海さんが若かった頃は、冒頭に触れたように東京がまだ元気で輝いて見えた時代で、その頃に感じていた東京への憧れが作品に反映していると考えることもできます。

 

より都市論的に面白いのは、東京に住む男の子と地方に住む女の子が入れ替わるという設定であり、東京だけでなく、主人公の男の子から見た飛騨という地方もキラキラと輝いて描かれていることです。2020年のオリンピックもそうですが、都市をめぐる問題は、もはや都市のことだけを考えているだけでは十分ではありません。

 

現代では、都市と地方の関係性を横断的に考えることの重要性がますます高まっています。モビリティ(移動)のあり方が目まぐるしく変わり、多拠点生活が増える現代において、都市と地方の境界はどんどん書き替えられています。このような都市と地方をフラットに捉える視点を、『君の名は。』の設定から汲み取ることもできます。

 

 

――最後に高校生へのメッセージをお願いします。

 

大学での学問に興味をもつ方法は、2つあると思うんです。ひとつは趣味や興味の延長線上にあるような、自分にとっての「距離の近さ」。もうひとつは、理解しがたい、得体が知れないような、自分にとっての「距離の遠さ」。

 

僕は以前グラフィティの研究をしていました。いわゆる、街の落書きですね。僕はストリート・カルチャーをたしなむ学生ではありませんでした。けれど、得体の知れない匿名的な表現であるグラフィティが同時代的に都市に増殖し始めた現象自体は興味深いと感じていました。自分にとっては、わからないからこそ近づいてみたい。その「距離の遠さ」が、研究につながることもあります。

 

大学では何かひとつ自分の軸や武器となるものを身につけてほしいです。大学の学部の多くは、縦割りです。法学だったら法学、経済だったら経済というように、近代は専門性を特化させることによって発展した時代でした。

 

僕が大学生であった90年代になると、総合○○学部とか、国際○○学部といった名前の学部が増えてきました。それは世界が複雑化し、単一の専門分野だけでは解決できない問題が生じ、領域横断的な研究をしなければならないという問題意識があったからです。異なる領域の専門家同士が協働することで、新たな知見が生まれるという期待がありました。

 

しかしインターネットが普及したゼロ年代以降、とりわけデジタル・ネイティブの世代にとっては、領域間の見通しがよくなりすぎで、専門分野間の境界は希薄化したように思います。いまの大学生は、ネットを介して、様々な分野の知識をつまみ食いすることは得意です。けれど、そのような広く浅い知識は、大学に行かなくても身につけることができるものです。

 

そのような時代だからこそ、大学で何かひとつの専門性を身につけることが重要なのですが、欲を言えば、二つ以上の専門性を身につけることが好ましいです。その方がある専門分野の固有性や見方を相対化できますし、異なる分野同士をつなぐ共通言語を生み出すこともできるようになるからです。異なる領域で何が行われているかを「翻訳」することで、新たな化学反応を生むこともできます。都市論もまさに、そのような専門性と学際性の往還によって発展してきた学問なのです。

 

 

高校生におすすめの3冊

 

hyosi

都市論ブックガイド2――つぎたして150冊

発行元:南後ゼミ編集部

定価:¥1,000

単行本(222ページ)

 

明治大学情報コミュニケーション学部の僕のゼミでつくった本です。都市論・社会学の古典や名著の書評150冊分のほか、年表、インタビューやフィールドワークなどの記事をゼミ生が執筆しました。都市論の領域横断性を把握するにはうってつけです。

表紙のデザインやページレイアウト、印刷会社とのやりとり、広報などもすべてゼミ生が行なっていますので、学生でもこのような取り組みができるんだということが伝われば幸いです。公式HPで通信販売をしています(http://www.nango-lab.jp/bookguide/)。

 

 

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください。

 

路上をよく観察してみると、先に進めない階段や、壁でふさがっている門など、用途を失った不思議なオブジェがあることに気づきます。それらを撮影し、「純粋階段」や「無用門」などのニックネームをつけて記録した本です。面白いものを見つけて、写真に撮って記録、共有するという点では、現代のツイッターやInstagramの先駆けとも言えるような本ですね。

 

「面白いね」で終わってもいいんですが、なぜこのような事物が都市に残っているのかというところまで考えると、思考が一歩先に進みます。純粋階段や無用門は、もともとはきちんとした用途があったはずなんです。でも改修工事や区画整理などの再開発が行われた。通常は撤去すべき対象なんですが、費用などの関係上、そのまま保存された。この本に収集されている事物は、都市の変化が刻まれた痕跡なんです。

 

 

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください。

 

僕が博士課程の大学院生から助教時代に、大学院生主導で企画していたプロジェクトをまとめた本です。建築家と音楽、演劇、映画、生物学、数学などの専門家をお呼びし、建築を軸とした専門性と学際性をめぐるシンポジウムを実施しました。皆さんも大学で講義を聴くだけでなく、自分たちでプロジェクトを企画、発信するような機会を設けるとよいと思います。大学生になったら教員に働きかけるなどして、知的インフラとしての大学という場を積極的に活用して下さい。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

◆◆「αシノドス」購読でシノドスを応援!◆◆

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.228 特集:多様性の受容に向けて

・安藤俊介氏インタビュー「『許せない』の境界を把握せよ!――アンガーマネジメントの秘訣」

・【PKO Q&A】篠田英朗(解説)「国連PKOはどのような変遷をたどってきたのか」

・【今月のポジだし!】山口浩 ことばを「『小さく』すれば議論はもっとよくなる」

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「Yeah! めっちゃ平日」第九回:こんなところでジャズ