いずれぼくの仕事がなくなる世界を目指して ―― 国際機関で働くこととは?

 「戦争を止めるために国連に行こう!」

 

―― 現実的なとても厳しいお話で、弱気になってしまった読者もいると思うのですが(笑)、畠山さんは、なぜ国際機関に興味をもたれたのでしょうか?

 

ぼくの父は同和教育に熱心な教員でした。単純に家の近所にサッカーチームが無かったのもありますが、ぼくは隣町の同和地区にあるサッカー少年団に通っていました。

 

同和地区出身ではない父の教え子が、同和地区出身の方と結婚されたときに、親族が式に出席ならさず、父と母が両親の替わりとして出席するなんてことを見ていたので、「生まれたところが違うぐらいでこんなことになる社会をひっくり返してやろう」、小学生の頃から「将来は政治家になる!」といっていた正義感の強い少年だったんです。

 

ただ、学校でいじめにあって登校拒否になったりして、どことなくひねくれた少年になっていきました。そして、中3のときに教頭先生とトラブルを起こしてしまいます。仲裁にはいってくれた担任の先生と友人に「本当の強さとは、自分の力を自分のために使って相手を従えさせることではなく、その力を必要としている人たちのために使えることだ」と言われて、心を入れかえたんです。

 

腕力と頭脳には自信があったので、この力を必要としている人はどんな人だろうと考えたら「戦争で苦しんでいる人たちだ!」って思いついたんです。それで「戦争を止めるために国連に行こう!」と思った(笑)。高校時代には「アフリカに革命を起こしに行ってくる」と親友に言っていました。ふざけた話みたいですけど、これが国際機関に興味をもったきっかけです。

 

 

―― ということは、当然ながら畠山さんは先ほどの四つのポイントを抑えてなかったんですね(笑)。

 

そうです(笑)。だから、みなさんには間違ってほしくないんですよ。

 

 

―― その夢はずっと変わらずに抱いていたんですか?

 

一度諦めています。大学4年生のときには、地元に帰ろうと思って就職活動もしていました。

 

大学に入るまでは「国連に行きたい」という思いをもっていました。でも国際機関では学歴が重視されると聞いて入学した東大が、ぼくに合わなかったんです。一時間に一本しか電車がこないような田舎出身で、事情があって貧しくなってしまったために高2、3の頃はバイトをして高校に通っていたぐらいですから、大半の生徒が都市圏出身で、親の平均年収も1000万を超える東大の雰囲気に馴染めなくて。同じクラスの人とも喧嘩してしまい、次第に大学にいかなくなってしまいました。大学時代にもっとも熱心に打ち込んだものは麻雀牌という、ダメ学生でしたね。

 

1、2年時の成績が悪くても行けるところからなんとなく選んだ教育学部の4年の前期に、早稲田大学の黒田一雄先生が東大に非常勤でいらっしゃって「国際教育開発論」という授業をされました。その黒田先生がすごくかっこいい人だったんですよ。知的で優しそうなのに、途上国の子どものために真剣に怒れる熱意をもった方で。

 

躊躇していたのですが、友人につれられて、黒田先生に進路についての相談をしました。そしたら「まずは世界銀行を目指してみるといい。名古屋大学と神戸大学に話を聞きに行くといいよ」とアドバイスを下さったんですね。そこでまず、名古屋大学に行ったのですが、お目当ての先生が出張でいらっしゃらなかった。そこでいまは東大の教育学部にいらっしゃいますが、当時は名古屋大学で教えていらっしゃった北村友人先生にお会いさせていただきました。

 

北村先生の第一声は「名古屋大学を受験してもしなくても、同じ志をもつ仲間だから、困ったらいつでも力になるからなんでも相談してください」でした。感動しました。黒田先生、そして北村先生に出会い、こんな人たちと一緒に働きたいと思った。そして順調にいっていた就職活動もやめ、神戸大学大学院を受験することにしたんです。

 

 

―― 早稲田大学でも名古屋大学でもなく神戸大学なんですね。

 

それには理由があって。普通は国際機関を目指す場合は海外留学をするのですが、そんなお金も無かったんです。しかも国内の大学院なら、業績が上位5%に入れば日本学生支援機構の奨学金が返還免除になると噂で聞いていたので、だったらぼくならタダ同然で修士号が取れるじゃないかって甘い考えがあったんです。

 

さらに、ぼくの指導教官は元世界銀行の教育エコノミストだったのですが、指導学生に、修士のときから世界銀行で働かれている人がいたんですよ。お金のことを考えると一刻もはやく働きたかったので、ぼくならきっと同じように修士で世界銀行に行けるはずだというこれまた甘い考えで神戸大学大学院を選んだんです。甘いもくろみでしたが、修士2年の10月にワシントンDCにある世界銀行の本部で短期コンサルタントとして働き始め、奨学金も返還免除になりました。

 

 

日本よりもQOLが落ちている……!?

 

―― 世界銀行ではどんなお仕事をされていたんですか?

 

「世界開発指標」の教育や保健や労働といった、人間開発分野のデータのコーディネーションしていました。

 

たとえばユネスコの統計局と教育統計について、数ある指標のなかからどんな指標を採用するか、またその指標の長所や短所、解釈する際の注意点などの話し合いをしたり、あるいはデータを収集する能力が決して高いとはいえない途上国から集まってきたデータがどれだけ正確か、データのクオリティをチェックしたり、改善する方法などを考えていました。

 

もうひとつは、世界銀行はおもに途上国に対して貸し出しを行っていて、どの国にどれだけの融資を行うかを決める基準の一つにするために、その国のさまざまな分野の制度や政策の評価をしています。その制度政策評価のジェンダー分野の仕事をしていました。

 

 

―― はじめての国際機関で働かれて、一番苦労したことって何でしょうか?

 

仕事で苦労したというよりは、アメリカで暮らすことに苦労した記憶がありますね……。

 

初めての海外生活なので、最初の一か月は家も決められなくて、お金もないですし、安いホステルで8人部屋に一か月くらいいました。だから「あれ? こんな感じなんだな……。もう少し良い生活ができると思っていたんだけど……。日本にいたときよりもQOLがさがってないか……?」ってみじめな気持ちに(笑)。

 

でもぼくはラッキーだったんですよね。同じ部署に、大学四年生のときにインターンをしていたNGOの人がいたんですよ。その人に助けてもらって生きのびることができました。さらにぼくは統計の仕事がメインですから、言語や文化の壁が比較的低いんですよね。知り合いがいなかったら、そしてポストが違ったらつぎの契約はなかったかもしれません。

 

 

―― 世界銀行ではどのくらい働かれていたんでしょうか?

 

なんだかんだ4年いました。20代では異例な長さですね。普通は半年、一年くらいでポストを変えるんですよ。4年もいたことは、良くも悪くも変わった経験だと思います。

 

 

なぜジンバブエで働いているのか

 

―― いまはユニセフで働かれていますが、どういうきっかけがあったのでしょうか?

 

そのお話をするためには世界銀行時代の話をもう少ししなくてはいけません。

 

ぼくは世界銀行で働きながら大学院の博士課程まで進んだのですが、博士論文の審査委員会に入っていただいていた先生の一人との意見の食い違いから途中で退学しています。でも、国際機関で生き残るためには、博士号がないとしんどくて。それならアメリカの大学院に行こうと思ったのですが、アメリカの博士課程の場合、コースワークを一からしなくてはいけないため世界銀行を辞めなくてはいけなくなってしまいました。

 

でもインド人の上司は辞めさせたくなかったみたいなんですよね。どうしたものかなあと考えていたところ、ジュニアプロフェッショナルアソシエイト(JPA)という変わった契約形態をみつけたんです。これは「契約開始時に28歳以下であり、2年間の契約終了後に、世界銀行から2年は離れなくてはいけない」という契約形態なんですよ。つまりこの契約をとれば、2年離れなくちゃいけないですから、円満にやめることができる。ということでこの契約に切り替えてもらいました。

 

しかし、この契約中にぼくは大学のゼミの後輩で博士課程の学生である妻と結婚をしたんです。彼女が博士論文を書くためには現地で調査をしなくてはいけません。ひとりで現地にいくのは心細いだろうし、途上国はお金もかかるし、お金もかかるので(笑)、アメリカの大学院に進むか、一緒に途上国に行って妻をサポートしつつ働くか悩んだんですよ。

 

日本政府がお金を負担して35歳以下の日本の若手に二年間国際機関での経験を積ませるJPOという制度があるのですが、応募の締め切りが大学院の願書提出の締め切りよりも前だったので、こちらにも応募してみたら通ったんですよ。

 

なので、妻が博士論文の現地調査を終えてからぼくも博士課程に進学することにしました。数年後には、つぎはぼくが妻の働いている国に行って博士論文を書いて、それからまた国際機関に戻ればいいやと考えています。というわけで、いまのユニセフで働くようになったんです。人生なにがあるかわかりませんね。

 

 

―― なぜジンバブエに?

 

JPO制度は国際機関が募集している数あるポストのなかから外務省が応募者の適性と日本の外交政策をかんがみて選択する仕組みで、ぼくの場合は、ユニセフが募集をかけていたジンバブエの教育分野のポストに行くことになったんです。もしかしたらユネスコにいたかもしれませんし、別の国に派遣されていたかもしれません。

 

 

―― じゃあ行きたい国に行けるわけではないんですね。

 

そうですね、どうしても働きたい国があったらその国の事務所にいって直談判してコンサルタントとして雇ってもらうといった方法もあります。でも相手が必要としている分野と自分の専門があわなかったら雇ってもらえませんし、専門性にもいろいろありますよね。たとえばぼくは教育分野におけるプランニング&リサーチが専門ですが、もしその国の事務所がカリキュラムの専門家を必要としていたら、ぼくはその国にいけません。行きたい国に行けるって超ラッキーなんです。

 

しかも、もしぼくが「ナイジェリアに行きたい」と言い出しても、西アフリカで働いた経験がないので、その地域の専門性がないということで落とされてしまう可能性が濃厚です。本当に難しいんですよね。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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