どうして「ルールは守って当たり前」? ――現代の生き方を批判的に考える

ボクシング廃止論!?

 

―― なるほど、では研究しているときに面白いと感じるときってどんなときでしょう?

 

ひとそれぞれとは思いますが、私だったら、英米圏の倫理思想史を勉強しているときに浮かび上がってくる論点が現代の問題にも現れてきて、その結びつきを発見するときは面白いですね。歴史は繰り返すと言いますが、思想史のなかで現れた問題が現代でも現れていると、面白い指摘がいろいろと出てくるんですよね。

 

 

―― 具体的にどんな議論が面白いと思いましたか?

 

そうですね、なにかあったかな……最近あんまりそういう経験がないんですよね。昔はもっとあった気がするんだけど(笑)。

 

ああ、ボクシングを廃止すべきだという議論は面白かったですね。

 

 

―― 気になります! どんな議論ですか?

 

私がイギリスにいたときに、イギリスを中心に議論されていて。ボクシングの他にも危険なスポーツっていっぱいありますね。でもボクシングってどうですかね。柔道や剣道と違って、基本的に相手を殴って気絶させて倒したら勝ちというスポーツなんですよね。これって他のスポーツとは危険の質も目的もちょっと違いますよね。もちろん「違いはない」と考える人もいるのですが……。

 

私はどちらかというと廃止したほうがいいんじゃないかと思っている方で、まあ『はじめの一歩』を読んでいるとすごく面白いと思うんですけど(笑)。

 

ボクシングについては、アマチュアボクシングみたいにポイント制にするなり、別のルールにするなりすればいいんじゃないかという議論があるんです。ただ「そんなことしたらボクシングがボクシングじゃなくなる」という人もいて。でもスポーツのルールってどんどん変わっているので、変えてもいいんじゃないかなと思うんですけどね……。

 

いろいろと議論はありますが、たとえば「ボクシングはスラム街での貧困生活から抜け出す重要な手段だ」という意見もあります。

 

1998年、試合中に脳出血を起こして引退したスペンサー・オリバーというボクサーは、「おれたちがボクシングを始めた理由は、生きていくのが困難で、しばしば他には何もやれることがないような環境で育ったからだ。だが、このスポーツはおれたちにいろいろなものを与えてくれる」と語っています。

 

オリバーの意見には共感するところもあります。でもたとえすべてのボクサーがスラム街で育ってきたとしても、スラム街全員の少年がボクサーになるわけではありませんし、ボクシングがスラム街の問題を根本的に解決するわけではありません。ボクシングを奨励するよりは、スラム街の問題を根本的に解決すべきです。

 

「現にボクシングを必要としている少年たちがスラム街にいるじゃないか」という反論もあります。でもボクシングはスラム街からの「唯一の抜け道」ではありません。音楽やバスケットボールによってスラム街から抜け出せるならば、そちらのほうがよいと思います。

 

 

―― それこそ「人の価値観はそれぞれで、ボクサーだっていろいろな危険は覚悟の上でボクシングをやっているじゃないか」っていうこともできますよね。

 

ええ、それは医療で言うインフォームド・コンセントの問題と近い話なんです。例えば何歳からボクシングを始めて、そのとき以来、本当に危険性を知ったうえで同意しているのか、とか。また、同意殺人や安楽死の問題でも言えることだと思いますが、仮に本当に危険を知ったうえで同意したとしても、その同意を有効と見なすべきかどうなのかについても考えないといけません。

 

 

―― どこからどこまでをオッケーとするか、線引きが難しいんですね。

 

ラドフォードという哲学者は、イギリスの哲学者であるジョン・スチュワート・ミルの自由主義の立場から、ボクシングについて次のように擁護しています。

 

 

もしこうした危険、苦痛、さらには苦難が、自分のものであり、またそれらを自発的にかつ危険を承知のうえで選んでいるのであれば、しかも他人に危害を与えないのであれば、われわれは、道徳的に、そうした危険をともなう活動に参加することが許されるべきだ。というのは、そういった活動を禁止することは、われわれの自由と幸福に干渉するだけでなく、人間の生の完全さと強烈さを減じることによって、人間の生を小さくすることになるからだ。

 

そこで、ボクシングが自由に選ばれ、このスポーツに従事することを選んだ者以外はだれも傷つけず、 また彼らが危険を承知しているならば、ボクシングは[…]禁止されるべきではない。

 

 

でもいまお話したように、そもそもボクシングの危険性をちゃんとわかったうえでボクシングをやっていたのか、とくに、もしスラム街の少年が「唯一の抜け道」としてボクシングを選んだ場合、それは自ら同意したといえるのかという疑問があります。苦しい状況から抜け出すために、危険なことを選ぶしかなかったのかもしれません。

 

さらに「同意しているのであればよい」のだとしたら、同意の上であればロシアンルーレットを行ってもよいことになってしまう。ボクシングはよくてロシアンルーレットはいけない理由はどこにあるのでしょうか? あるいはわれわれはロシアンルーレットも認めるべきなのでしょうか。

 

自由主義の重要な論点に「同意したとしても、決して奴隷にはなれない」というものが昔からあります。仮に奴隷契約は許されないことを認めた場合、それではどこまでなら許されるのか、安楽死は許されるのか、ボクシングは許されるのか、やはりどこかで線を引かなくてはいけないんですよね。自由主義をどこまで追求するか。過剰な自由主義を認めないのであれば、ボクシングの是非をもう一度よく考えなくちゃいけません。

 

ボクシングは面白いスポーツだと思います。ボクサーはおそらく、人間のいろいろなものが試されている非常に重要なスポーツだと思うのですが、それでも、「それでいいのだろうか?」という疑問がある。面白いものを許してしまったら、古代ローマのグラディエーターでもなんでもできてしまうし、同意だけですべて片付くかと言うと、そうでもないという話なんじゃないかなと。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.270 

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