『絶叫』――人生は、壊れるときには壊れてしまう

「私、幸せ」

 

水無田 陽子の母・妙子がしきりに「幸せ」と言うじゃないですか。すごく象徴的ですよね。

 

73年生まれの陽子は団塊ジュニア世代で、日本の専業主婦比率が一番高かった時に生まれています。幸せな家族幻想がピークを迎えたと同時に、ここからジェットコースターのように下がり始めるとき。

 

そういった時代の女性をあえて登場させて、「幸せ」と殊更に言う母親の下に生まれさせた。葉真中さんはなぜ、この年代のサラリーマン世帯を選んだのでしょうか。

 

葉真中 私自身も団塊ジュニア世代なんですよ。自分の世代が見てきたものを、別の視点で、しかも女性を主人公にして書こうと思ったのが、執筆の最初の動機です。

 

いま30代40代になった団塊ジュニア世代で、様々な問題に直面し、ボタンの掛け違いみたいなものを感じる人は少なくないでしょう。私もそうです。そのしわ寄せというか「上手くいかなさ」みたいなことを書ければなと。

 

ボタンが掛け違っているとして、それはいま突然起きたわけでなく、もっと前から、それこそ親にあたる団塊世代のころからあったはずなんですね。そういった部分は、陽子に対して抑圧的に振る舞う母親のキャラクター造形に反映されていると思っています。

 

陽子の母・妙子は、決して娘を抑圧したくて抑圧しているのではありません。陽子は物語の中で、困難をさまよってゆきますが、その母親もまた別の困難を抱えているのです

 

水無田 親の因果がめぐっていると。高度成長期の「幸福幻想」は一時代に特化したものだから、時代が変わると簡単に掛け違ってしまいます。その感覚はすごくよく分かりますね。

 

陽子の母・妙子の親の世代というのは、出身が長野ですし、たぶん産業構成比などを考えれば、農家の嫁だったのでしょう。それが、妙子の世代から、庶民の女性が農家の嫁からサラリーマンの妻に「ジョブチェンジ」していく傾向が顕著になりました。

 

戦前の農家の嫁は、家制度の中では地位も低いですし、重労働を担わされてきました。農作業、家事育児から夫の両親が倒れたら介護までしなければならないので、24時間体制で戦わなければならない。自由なんてないわけです。

 

妙子はその母を見ているから「私は幸せ」と言ったのかもしれません。ですが、そんなことを殊更に言う人は、本当は幸せではないんですよ。彼女はどこか満たされなさを感じていた。おそらく、妙子は自分の母と比べれば幸せ、娘の陽子と比べれば女として勝っている……と、比較によってしか自分の幸福感すら確認できない、とても空虚な人物ですね。

 

でも、それは高度成長期の日本の女性が、「個人」としての幸福を追求してこられなかったという「呪い」を見事に体現した結果だと思います。

 

 

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『シングルマザーの貧困』著者・水無田気流氏

 

 

葉真中 まさか、主人公の母親のそのまた母親の出身地まで読みこんでいただけるとは! 嬉しいです。

 

陽子の母親は「幸せ」と言っているけれど、本当に幸せな人はそうやって幸せを確認しない。実は満たされていないわけです。彼女は本当は進学したかったんだけど、それを許されず、家庭に入りました。一応、居場所は得たわけですが、そこで自己実現はできていない。これは団塊世代の専業主婦の「満たされなさ」の典型かもしれません。

 

一方で、その娘である団塊ジュニア世代の陽子の、デフレ危機に直面していくような「満たされなさ」は、レベルが違います。自己実現以前に、普通に自活していくのが厳しい。やがて陽子は生命の危機すら迎えます。母・妙子と比べ、欲求の段階がずっと下がったところで「満たされない」のです。そんな世代間の残酷な対比も書きたかったことの一つです。

 

水無田 専業主婦が「幸せ」の中で、退屈な思いをしている感じは、今まで様々な作家によって書かれてきています。ですが、その時代がユートピアに思えるほど、陽子は転がり落ちてしまうんですよね。

 

葉真中 こういうことを言うと、どこかから怒られてしまうかもしれませんが、「退屈」を問題にできるなんて、ずいぶんと贅沢な話なんですよ。昨今はブラック企業の問題がクローズアップされていますが、多くの人が退屈なんて感じる暇もなく、働いて、消費してを繰り返していかないと回らないようになっているんじゃないでしょうか。

 

小説の中盤で、鈴木陽子もブラックな保険会社で半ば洗脳されたような状態で働くことになります。この部分は、多くの読者から「リアル」「怖い」との反響をいただいてます。

 

ただ、『絶叫』はフィクションですから、現実にああいう保険会社があるということではありません(笑)。この場面にリアリティが宿っているとすれば、ディティール以上に、現代の日本において、働くということが孕んでしまう病的な側面を上手く描けたんじゃないかな、と自分では思っています。

 

 

黒山もこもこ

 

水無田 私も団塊ジュニアとほぼ同世代で、高度経済成長期に大量生産された子供の中の一人です。自分が「ザコキャラ」だという意識が、子どものときからずっとあったんですよね。

 

葉真中 わかります。僕も、脇役感っていうか、何かを成したところで、いつまでもone of themのような感覚があるんです。

 

水無田 郊外の、一学年10クラスもあるような小中学校で育って……。その感覚を『黒山もこもこ、抜けたら荒野』という本で書かせていただきました。

 

葉真中 今回、対談の前に読ませていただいて、まさにこれは『絶叫』で書こうと思っていたことと共通する部分が多いと感じたんです。

 

主人公の鈴木陽子は団塊ジュニア世代のピークに生まれた設定です。陽子は当時、一番多くつけられた名前なんです。しかも、名前も鈴木です。

 

水無田 それほど、「平凡」な女性であると。

 

葉真中 「平凡」は文字にすると、そこに意味が発生します。本当の平凡は「平凡」という言葉を使わずに表される。あえて平凡とすることで、読者に投げかける意図もあるんです。

 

鈴木陽子は水無田さんの表現を借りれば「黒山もこもこ」の時代に生まれ、「抜けたら荒野」だったと。

 

水無田 私の人生は、陽子のように極端ではないですが、その感覚はすごくよく分かります。私たちの世代は、普通に生まれたはずが普通の幸せがものすごく遠くなってしまった。個人史レベルで、ジェットコースターの様に落ちていく体感を覚えた人が多いと思うんです。

 

葉真中 やっぱり経済が縮小していく状況は、人間のストレスになりますよね。「世の中経済だけじゃない」と言われるかもしれませんが、経済的な豊かさを子供のころにメディアなりで経験して、いざ社会に出るとそれが無くなっているというのは、つらいでしょう。というか、実感としてつらいです(笑)。

 

これは作品の中でも触れていますが、海外の貧困を引き合いにして「どこそこと比べたら幸せじゃないか」とか言う人がいますけど、そういう問題ではないですよね。

 

水無田 社会学では、それを相対的剥奪感と言います。人間は、自分の立ち位置を周囲の人たちや自分の過去の状態などと比較し、相対的に物事をみているんです。子供の時期にあって、失われたものがあるとするならば、それは剥奪感の源泉になります。

 

葉真中 なるほど、剥奪感というのは重要ですね。私は、人間って何のために生きるのかと言えば、シンプルに「幸せになるため」だろうと思っています。でも、「幸せ」って、空気みたいで、そこにあるときは当たり前のように享受していて、なくなった途端に意識するようになるんです、たぶん。だから剥奪感の多い社会や時代は、幸せを掴みにくくなる。

 

小説の中では「見えざる棄民」という言葉を使いましたが、社会の光の届かない部分には、与えられるべきものを奪われ、棄てられてしまったような人々がいる。『絶叫』は、鈴木陽子という平凡な女性が、この「見えざる棄民」へと転落してゆく物語でもあります。後半、神代という男の元で、陽子と疑似家族になる元犯罪者やホームレスたちもまた棄民と言えるでしょう。棄てられた者たちです。

 

私は生きづらさを全部時代のせいにしたくはないのですが、個人の努力や決断ではあらがえない大きな流れってあると思うんです。そこを、鈴木陽子の40年で上手く書ければと。それが多くの人に、当事者性を持って訴えられる物語になると思いました。

 

水無田 「人生は個人の選択とは関係なく、壊れるときには壊れる」という表現がすごく象徴的ですよね。それなのに、社会が大きく変化してきた2000年以降、殊更に「自己決定・自己責任」が問われるようになってきました。そこで思考停止してはいけないと思います。

 

 

子供の平等

 

葉真中 これは、水無田さんの新刊『シングルマザーの貧困』にもつながる話ですよね。たとえば夫のDVで離婚するなど、個人の選択ではあらがえない問題でシングルマザーになり、貧困に陥ってしまうようなケースを見ると、やはり、何らかの社会的な支援が必要だと思わされます。

 

水無田 そう読んでいただければ嬉しいんですが、実は批判も受けたんですよ。そんなの、自分で勝手に離婚した母親が悪いんだろうと。

 

葉真中 うわぁ、そうなんですか。

 

水無田 もちろん、このテーマで書くときに想定はしていたんですが、風当たりの強さは結構つらくて。

 

シングルマザーを支援するべきだと言うと、わがままで勝手に離婚した母親を救済するから、益々離婚が増えるなんて声も聞こえてきます。

 

ですが、この支援の本質は、子供の間の平等を守るためなんです。感情論だと難しいので、法律や制度で守ってあげなければいけない。でも、それが通じない。

 

先ほども言いましたが、いま、自己決定・自己責任という言葉がよく言われますね。でも、この社会の原理を自己責任に求めるならば、子供は生まれてくる環境を自分では選べないという根本的な矛盾に突き当たりますよね。

 

生まれてくる次世代の平等は確保しないと、自己決定、自己責任なんて前提は、本当は成り立たないはずなんです。「子供がかわいそうだから離婚すべきではない」とよく言われますが、「たとえ両親が離婚しても子供たちが極端な不利益をこうむらないよう支援すべき」という意見は、残念ながらまだまだ通りが悪いんです。背景には、家族の物語を壊す存在に対する忌避感があります。

 

葉真中 極端な自己責任論でシングルマザー支援を批判する人が、同じ口で「少子化が大変だ」とか言ったりしていますよね。正直「なんだかなあ」と思ってしまいます。

 

『シングルマザーの貧困』を読むと、陽子が生まれた70年代は、出生率が2.0を超えていて、そのころの成婚率は95%ですよね。いわゆる「日本的家族制度」を維持したまま、出生率2.0を目指すには、成婚率がこんなに高くないといけないってことじゃないでしょうか。【次のページへ続く】

 

 

shinguru

 

 

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