なぜ私たちには中国が「脅威」にみえるのか

――「みんな思っているのに首相が言わないのは、中国への配慮だろう」なんて声もありましたね。結局言ってしまいましたが……。どっちなんだよって戸惑いました。

 

中国の脅威というのは「わからないものへの恐怖」といった方がいいかもしれません。例えば、中国の外交姿勢は政府関係者にもよくわからない。だからどう付合ったらいいかもよくわからない。

 

中国の政治・外交姿勢には2つの顔があると思います。AIIBの参加の問題などもそうですが、ひとつには国際的なルールを遵守する近代国家としての側面があります。

 

その一方では、国内の統治や東アジアの国家間関係においては、しばしば前近代的に戻ったかのような振る舞いをする側面もあります。前者については、習近平政権になってからの人権派弁護士への弾圧や言論統制の強化が挙げられます。また後者については、言い方が適当かは分かりませんが、周辺国に対して強圧的な姿勢を見せる「帝国」のような印象を受ける場合もあります。

 

中国という存在が二重性を持つ、非常にわかりにくい国家なので、隣国としてそれに対峙しなければならない日本の対応も二重性を持ったものになり、掴みどころの無いものになってしまうのでしょう。

 

 

――やはり釈然としないのですが、なぜ中国が脅威だと、日本も「脱近代化」せざるを得なくなるのでしょうか。

 

分かりやすい理由としては、戦後一貫して、日本には中国とどう渡り合うかという政策的な議論が不在だったことが挙げられます。考えなくてよかったんですよ。戦後の対中政策の蓄積が貧弱なので、戦前のように中国と直接渡り合わなければならなくなると、オルタナティブなものがなかなか出てこない。

 

先日毎日新聞で自民党の憲法草案に関する特集を組んでいました(注2)。憲法学者の水島朝穂さんなどが出てきて、北朝鮮や中国の憲法に似ているのではないかと指摘しています。

 

(注2)「特集ワイド:自民党改憲案 アノ独裁国家そっくり?」『毎日新聞』6月30日付

 

確かにこの憲法草案には家族を大事にしなくてはいけない、家族は助け合わなくてはいけないといった道徳的価値観が盛り込まれていますし、言論の自由は公益や公の秩序に反しない限り尊重されるといった条文もあります。これらの特徴はいずれも中国などの社会主義憲法にもみられます。

 

しかし、こういったものが現れた原因は、日本国内だけにあるわけではありません。中国の台頭と、それを日本が潜在的な脅威だと受け止めるという構図を抜きにこの現象は語れません。ここでいう潜在的な脅威とは、単に軍事的に強大だ、ということだけではなく、その国家原理に西洋近代的な価値観とは明らかに異質なものが含まれている、という意味合いもあります。

 

たとえば、中国では共産党が憲法などの国家機構に優越しており、近代的な立憲主義をとっていません。憲法の前文には、国民は共産党の指導の下に社会主義の道を堅持すると、共産党は憲法に縛られないことが明記されています。

 

戦後日本がこれまで正しいと考えていた近代的な価値観を共有できるかどうかわからない巨大な国が隣に台頭してきて、みんなどう対応していいか分からない。その一つの「答え」として、自民党の憲法草案が出てきたのだと思います。

 

こういった前近代的な価値観に彩られた憲法を復活させてはいけない、という批判は、それ自体はもっともな反応と思います。ただ、問題は、そういう批判を行う側に「では台頭する中国とどう対峙するのか」という点に関するビジョンがないために、対立する陣営との間にまったく議論がかみ合っていないことです。

 

 

――かみ合っていない?

 

お互い、相手が「前近代的だ」「アジア的だ」というレッテルを貼りあって批判しているだけになりがちだ、という現状を指しています。

 

言論空間を、改憲派/護憲派で分けてみましょう。護憲派は改憲派に対して「戦前のような超国家主義に戻ろうとしている」と批判します。一方、改憲派は護憲派に対して「相手は近代的な価値観を共有しない中国に利用されている」と感じています。

 

つまり、お互いがそれぞれの異質で前近代的な「アジア的」なるものを勝手に想定し、そのイメージを相手に投影して批判しているだけなのです。そんな中で冷静な議論はできそうもありません。その意味で私たちは「アジア的」なものから生じる「ねじれ」から逃れられないことをまず自覚する必要がありそうです。

 

 

「希望は民間にあり」

 

――「脱近代」が、日中関係を読み解くキーワードであることが分かってきました。苦しさの原因を「外部」に求めようとする思想がどんどん強くなっており、日中間の対立もそれに伴い強くなる。この対立を乗り越えるためにはどうしたらよいのでしょうか。

 

今回の安保法制でもわかるように、国家の安全保障を理由に、法の支配や政府の説明責任がないがしろにされている感覚を持った人が多いのではないでしょうか。このままでは、ナショナリズムのぶつかり合いによって、国家が権力を増していくという悪循環が生じかねません。

 

では、この対立をどう乗り越えればいいのか。ヒントとなりそうな考え方として、中国には「民間思潮」という言葉があります。ノーベル平和賞を受賞した劉暁波が述べた「希望は民間にあり」という言葉もこの言葉と深い関わりを持ちます。

 

日本で「民間」という言葉は、「政府ではない」といった程度の意味合いしかありません。しかし、国家が権力を強く持っている中国では、「民間」は国家の対抗勢力にならない場合においてのみ許される緊張感のあるものです。

 

 

――中国では民間企業が成長しているとよく聞きますが、それでも緊張感があるのでしょうか。

 

そうですね。たとえば、ネット上での企業間取引をサポートする事業から発展したアリババもそのひとつで、一時期、政府に対抗して言論の自由を実現するのではないかという期待がありました。しかし、現実ではアリババはすぐに政府と結びついてしまいました。

 

中国には山寨(さんさい)携帯と呼ばれるコピー製品を作っている民間の弱小メーカーがたくさんあって、それらは政府と全然関係のないところで活動しています。しかし、そういった企業が大きくなって力を持つと政府に対抗して自主的なルールを作ろうとするより、政府に迎合して利益を確保しようとする傾向があります。NGOもたくさんあるのですが、多くは政府に取り込まれてしまっています。

 

特に今は弾圧が厳しくなっていて、政府に対抗しようとする動きはことごとく潰されていっています。中国は権力がすべて国家に繋がっているため国家の力が強く、それ以外のところがルールを作ったり主張したりするのはすごく大変です。

 

それでも、民間が動くことで中国社会が変わっていく可能性があるという意味が「希望は民間にあり」という言葉には込められています。

 

日本の左翼的、リベラル的な発想は、そもそも権力に対抗する民衆の立場に立つことから出発していたはずです。たとえば、安全保障についても「国家の安全保障」に対する「人間の安全保障」という考え方が提唱されてきました。人間の安全を脅かすのは外敵だけでなく、自身が所属する国家の脅威を受けることもあるという発想です。

 

この意味で日中のリベラル思想は「権力」に対する考え方で同じ視点に立てるはずですが、残念ながら両者の結びつきはあまり強くありません。

 

ただ、少しずつですが状況は変わりつつあります。著名な人権派弁護士の浦志強氏が拘束され、騒動挑発罪などの疑いで逮捕されると、それに抗議する署名運動が、日本でもすぐに立ち上がりました。最近の200名を超す人権派弁護士の拘束に関しては、日本弁護士連合会が抗議する声明を出しています。

 

この本ではささやかな問題提起をしたに過ぎませんが、日中の「国家」と「民間」に関する議論を深めることで、こういった変化の後押しをする一助になればと思っています。

 

 

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