「物語」は自分と外部とのせめぎあいで生まれる

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寂れゆく商店街を舞台にした星野智幸氏の最新作『呪文』が上梓された。小説にとって「物語」とはなにか?「物語」ってそもそも限界じゃないの? 「物語」を切り口に、荒井裕樹氏(障害者文化論)が『呪文』の魅力に迫る。(構成/山本菜々子)

 

【『呪文』 内容紹介】

それは、希望という名の恐怖――寂れゆく松保商店街に現れた若きリーダー図領。人々は彼の言葉に熱狂し、街は活気を帯びる。希望に満ちた未来に誰もが喜ばずにはいられなかったが……。

 

 

「物語」の両面性

 

荒井 ずっと星野智幸さんにお会いしたいと思っていたのですが、新著『呪文』(河出書房新社)を読ませていただいて、「やっぱり会わなきゃだめだ!」という、一方的な使命感が芽生えました(笑)。

 

以前から星野さんの作品を追いかけていたんですけど、これまでの星野作品に散りばめられてきたもの、たとえば「呪い」とか「クズ」といった言葉なんかがそうなんですけど、そういったキーフレーズたちが作品の枠を超えて、水脈を辿るように受け継がれてきて、この『呪文』で一つの像を結んだような気がしています。

 

『呪文』の中身についてもいろいろと伺いたいのですが、その前に、どうしてぼくが星野さんの作品に惹かれるのかを少し説明させてください。

 

星野さんの作品って、紹介するのにすごく困るんですよね。「これは、こういう小説です」って「あらすじ」を提示するのがすごく難しい。前作の長編『夜は終わらない』(講談社)なんか特に……。

 

星野 ふふふ。あれは要約不可能ですよね。

 

荒井 実は、うちの奥さんが書評を書いたんですよ。本当に困っていました。ぼくも同じ頃、川上弘美さんの『水声』の書評を書いていて、あれも「あらすじ」を説明するのが不可能で、物語の主旋律が見えないんですよね。

 

川上さんの方は日本の雅楽的に主旋律が見えない。星野さんの方はエスニック・ミュージック的に主旋律が捉えられない。

 

星野 なるほど。

 

荒井 『夜は終わらない』の、あの混沌とした物語に触れた時の感覚が、ぼくが研究の現場で悩んでいた時の感覚と不思議にシンクロしたような気がしました。

 

大学院生の頃から、ずっとマイノリティーの表現活動について考えてきて、フィールドワークでいろいろな人の話を聞いてきました。ぼくはあちこちの現場を飛び回るというよりは、一人にじっくりと話を聞くタイプだったので、かなり突っ込んだ話も聞いてきました。

 

で、そんな経験をしているうちに、「物語」っていう言葉にある種の限界を感じたんです。「物語」といえば、まず語り始めがあって、メインがあって、クライマックスがあって……という、一つのラインみたいなものというか、「整えられたもの」というイメージがありますよね。

 

星野 そうですね。

 

荒井 でも、人権問題なんかでずっと差別されてきた人たちの話を聞くと、その人たちの人生の語りって、全然まとまらないんですよ。まとまる話をするのは、人権教育とか、社会の啓発活動なんかで人前に出てしゃべり慣れている方です。

 

でも、そういう方も自宅までおじゃまして何気なくお話していると、混沌とした語りが湧き出てくる。30年前のことと今のことが一緒になっていたりとか、「その人だれですか?」みたいな人がいきなり出てきたりとか。

 

人にとって「物語」って、そんなに都合よく収拾できるものではないんじゃないか。人は言葉では飼い慣らせないものを抱えながら生きているんじゃないか。

 

そういった思いを持っていたので、星野さんの『夜は終わらない』を読んだ時、ぼくはすごく腑に落ちたんです。「ああ、そうだよな」って。自分の中でも「消化できない物語」、「御せられない物語」を抱えて生きて行くのも、アリなんじゃないかと。そして今回の『呪文』で、その思いが決定的になりました。

 

星野 物語の定型は、文化人類学の分野で原型としていろいろなパターンが研究されています。最初は個人的な身の上話だったり噂話だったりしたものが、共同体の中で何度も語り直されていくうちに定型へと変化していく。そうすると、それは個人を超えて、共同体の物語になります。個人からしてみれば、外部の力ですね。

 

ともすると自分の話をしているはずなのに、その定型に乗ってしまうと自分から離れていきます。いつのまにか、「共同体が求める形式の話」になってしまうんですね。おそらく荒井さんが限界を感じるのはそっちの「定型の作用」の力のことだと思うんです。

 

ぼくは、ホームレスの方が作品を投稿する「路上文学賞」(http://www.robun.info/)をやっています。これはなにを書いてもいいことになっています。でも、自分のことを書こうとすると、書き手のホームレスの方自身が「一般の人々」が期待するようなホームレス像――こんな悲惨な目にあっているんですよ――という定型に乗ってしまいがちなんです。

 

そうやって出てきた物語は、いかにも「ホームレス的」な物語かもしれません。場合によってはそれで泣けるのかもしれない。でも、本当にその人の物語なんでしょうか。自分の言葉じゃなくて、外側の言葉に合わせちゃったものなんじゃないか、って思うんです。

 

なので路上文学賞では、読む人なんかどうでもいいから、「ホームレスの自分がこんなこと書いちゃまずいんじゃないかと思うようなことも、構わず書いちゃえ!」という姿勢でやっている。

 

第二回の大賞受賞者は「ホームレスギャンブラー」というタイトルで、競艇に狂う喜びを描いた人が受賞しました。

 

荒井 それは面白い(笑)。

 

星野 これは本当に面白かったです。でもお会いしたら、ものすごく真面目な初老の方で、やっぱり文学が好きだったとおっしゃっていました。受賞したがゆえに「文学をちゃんと勉強したいから」といって、いま源氏物語から読み始めたらしくって……。人の人生を背負ってしまった重みに打ちひしがれました(笑)。

 

物語とは、常にその自分の中から出てきた私的で個人的な言葉と、それをあるパターンに押し込めようとする外側からの力との、せめぎ合いの現場だと思うんです。それをできるだけ小説にしようとしたのが、前作の『夜は終わらない』ですし、それを一人称の語りじゃないように、物語にしない形でできるだけ精緻に出来事を追っていく形で書いたのが『呪文』です。

 

 

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「君は物語が書けないから諦めなさい」

 

荒井 フィールドワークでインタビューをしてた時、初めのうちはICレコーダーを持っていったんです。でも、これを回すとダメなんですね。なにがダメって、こっちが「期待」しちゃうんですよ。

 

たとえば、医療施設の中に何十年も隔離されてきた人のところに通っていたことがあるんですが、長く入り組んだ人生は当然うまくまとまりなんかしません。話している本人も、話しているうちに収拾がつかなくなる。

 

で、レコーダーを回すと、ぼくの中で、悪い意味での研究者スイッチが入ってしまって、心のどこかで「早く話まとめてくれよ」って思ってしまったり、「論文で引用しやすいようなキーフレーズ」を待ってしまったりする。そうすると、その人の「語り」が全然頭にはいってこない。

 

それがいやになっちゃって、ある時から「レコーダーも持っていかない」「取材メモも取らない」「手ぶらで行く」ことにしました。

 

そうやって無目的に話を聞いたら、収拾がつかない混沌とした話がものすごく面白いんですよね。こんなに豊かなものを、イライラして聞いてた自分ってなんだったんだろうって愕然としました。

 

収拾がつかないものを面白いって思えた時、なんだか自分の中で道が開けたような気がしました。

 

星野 自分を白紙にして聞けたんですね。読む、聞くっていう行為は、自分の守備範囲から一歩外側に出て、相手の言葉に身をさらすことですもんね。

 

荒井 星野さんが作り出す物語も、すごく混沌としていて、これからどちらのほうに進んで行くのか分からないつくりになっています。レコーダーを捨てて話を聞きに行っていた頃のことを思い出しました。

 

でも、混沌とした世界は「小説」として雑誌に載せたり、本にしようとすると、「ここからここまで」という形で切り取って、強引にでも「はじめ」と「おわり」を作らなければならないですよね。

 

「物語がはじまる予感」や「物語がおわる予感」というのでしょうか、「はじめ」と「おわり」を区切る目安って、何かあるんですか?

 

星野 昔はそれができなかったんですよ。で、大学の創作科の先生にも、「君は物語が書けないから諦めなさい」って言われたんですけども……(笑)。それぐらい、はじめとおわりをつけるのが苦手だったんですよね。まあ、当時はコンプレックスであったんですが、実際にデビューして、こういうのが自分にとっての小説でいいんだな、って思いはじめました。

 

ぼくは、小説はストーリーではなく、現実と拮抗しているもう一つの完結した世界を描くものだと考えています。だからストーリーではなく、世界全体なんです。

 

もちろん世界全体を言葉で覆い尽くすことはできないので、その一部分を言葉にすることで、その世界全体を感じさせるようにする。そう思ったので、物語にあんまりこだわらないで書けるようになったし、そうしたら「自分で小説を書いている」っていう実感が持てるようになったんです。

 

まあ、最近はそれでも世界像を描くのにストーリー的な要素も入れられるようになってですね。「ぼく、物語も書けますけど」ってかつての大学の先生に言いたいところもあるんですけど……(笑)。

 

でもそれはあくまでも、言葉をどう展開していくかっていう技術的な問題です。小説も、自分の中の言葉に向き合ってすくい取る要素と、もう半分は修行してれば上手くなる職人的な要素もある。

 

だから、だんだん、「ここからスタートするとピッタリくるな」とか、感覚としてわかるようになってきました。でも、おわりはやっぱり、書きはじめの時にはわからなくて、まあ「一応の終わり」は想定するんですけど、「あっちに向かって書いていきますよ」っていう、あくまでも方向を示しているだけであって、本当にそれがおわりにはならないんですよね。

 

で、半分とか展開していくうちに、書きながらどんどん道が作られていきます。今回の「呪文」なんかも、4分の3くらい書いたところで、ようやく最後の場面が浮かんできました。ここでこの小説は着地できるなってホッとしたんですけどね。【次ページにつづく】

 

 

 

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vol.265 

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